「松子の人生の「勝利」の瞬間」嫌われ松子の一生 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
松子の人生の「勝利」の瞬間
悲しい映画だの、救いが無いだの、もっぱら松子の一生を悲観的にとらえた感想を聞くことが多いけど、この映画は「勝利」の映画と言って差し支えない。
なぜなら、松子は最後の最後に自分自身を取り戻すからだ。
「嫌われ松子の一生」は、女の子の幸せという呪いを描く映画なのである。幼少期の松子自身が語るように、「女の子なら素敵な王子様に迎えに来てもらいたい」。言い換えれば「愛されない女など無に等しい」という一方的でなんの根拠もない価値観が、どれだけ松子を蝕んだのかを描く物語。
松子の関心は常に自分を愛してくれる他者に向けられ、「どうすれば私、愛される娘になれるの」を問い続ける。
松子の「愛される」という価値観も古いが、愛される女の条件もまた輪をかけて古い。
なんと言ってもオープニング、キャストのレタリングが古いハリウッド映画そのものなのだ。
「風と共に去りぬ」や初期ディズニー映画のような、ガチガチにクラシックなオープニングがこの映画のテーマをハッキリと突きつける。
白馬の王子様を待つ女の子の物語ですよ〜、と始まるが、展開は全く異なるのだから。
松子の「王子様シンドローム」はかなり深刻で、同僚の教師・佐伯への身の上話や光GENJIの内海宛ファンレターのように、自分の全てを知ってもらいたがるのは「私の人生はこんな感じです。後は貴方についていくのでよろしくお願いします」という丸投げだ。「私」の取説は渡したから、後は貴方が面倒見てね、という訳。
ハッキリ言って重すぎる。
かと思えばトルコ風呂では指名を得るテクニックとして店長に「足腰の筋肉が重要だ」と言われ、スクワットに励む。
プロのテクニックが廃れても、店を辞めても、刑務所に入ってもスクワットを続ける。
指名の1位、言わば愛された実績としての成功体験が松子にスクワットを続けさせるのだ。
止め時のわからない女なのである。
本当の松子は、愛される事より愛することの方が上手な女だったのではないかと思う。
父の愛を一身に集めた妹の久美のために、ベッドを手作りのガーランドで飾ったのは松子だ。
同じ飾りが荒川近くの松子の部屋にもある。
久美はそんな松子を慕い、松子が帰ってくることを願った。
誰からも愛されないと感じていた龍を愛したのも松子だ。龍の行動がきっかけで「人生が終わった」と思ったのに、誰よりも龍を愛した。
自分が求める「おかえり」を、龍に与えようとした。
なのに、松子があまりにもイイ女だから、憎むべき自分を愛してくれる女だから、龍は松子を幸せにするために松子を捨ててしまう。
重たすぎる上に、止め時も下手な松子なのである。
愛されるために、これ以上ないくらい頑張って、頑張り過ぎて捨てられる。恐ろしいほどの負のスパイラル。
それもこれも、前提が間違っているからだ。愛されない女は無などではない。王子様が迎えに来ないなら、王子様じゃない男を(なんなら女でも)捕まえに行けばいい。王子様なしの人生でもいい。
もしも松子がそう思えていたなら、きっと松子の一生は違っていた。そう私が感じた時に、やっと松子は覚醒したのだ。王子様無しでも「私まだやれるわ!」と。
覚醒したからこそ、松子は命を落としたと言えるかもしれない。しかし、自分自身がどういう人間なのか、自分は何の為に生まれてきたのか、はっきりと掴んだ松子は一歩ずつ階段を登っていく。
シンデレラが王子様に迎え入れられるように、久美の「おかえり」を聞くために。求めていた愛をいっぱいに浴びるために。
評判が良いのは知ってたけど、なかなか観る気になれなかった私だが、映画の公開が2006年と知って「むしろ今頃になってから観て良かったのかも」と思った。
最近の女子映画の勃興を背景にこの映画が作られたのなら納得だが、15年前だとちょっと早すぎるテーマだ。
時代がやっと中島哲也監督に追いついて来たのかもしれない。