「「嫌われ松子の一生」は市民ケーンの狸御殿風味」嫌われ松子の一生 瑠璃子さんの映画レビュー(感想・評価)
「嫌われ松子の一生」は市民ケーンの狸御殿風味
土曜の渋谷昼下がりというある意味チャレンジャーなチョイスで「嫌われ松子の一生」を見に行った。
パルコパート3は閑散としていて、あれ楽勝ぢゃないですかこりゃなどと思いきや、当日券買って並ばされた列が半端じゃなかった。長蛇もいいとこで、8階から4階まで階段にて鈴なりとなっておりました。客層は20~30代前半が多く、中には『中高年』の『高』の比重が高そうな二人連れも。渋谷という土地柄かはたまた映画がよんだのか、ユナイテッドアローズの服が好きそうな人が多かった。
「嫌われ松子の一生」は、『下妻物語』で知られるあのサッポロの山崎努と豊川悦司の温泉卓球CMを作った才人中島哲也氏が監督脚本の、女の一代記的映画である。松子は荒川土手付近の草むらに突っ伏して死んでいた。父親から命じられて会ったこともない松子の後始末をしにきた甥っ子が様々な出会いを通して松子の過ごしてきた時間を知る…というのが大まかなストーリー。CGと歌謡曲、昭和が確かに息づいている画面が異色というか出色。だいたい21世紀にもなって光GENJIを墓場から引きずり出してもなお、あそこまで説得力が出せるとは並みの力量ではない。ちゃんとソープ嬢じゃなくてトルコ嬢って言ってるあたりにこの作品への気合いの度合いをみた思いがする。
そんなトリッキーなつくりではあるけれども、某歌手の旦那である紀里谷何某やPVのクロサワ(笑)といわれたらしい中野何某とかいう他映像業種参入監督とは違い、実に脚本構成とも基本に忠実である。話の流れなんて市民ケーンと同じで(いわゆるコード進行が同じってところか)「ローズバット」が「松子は誰がころしたのか」に変わっているだけ、といえなくもない。CGやところどころでミュージカルになったりするのは、監督のテレというか目くらましに感じた。(市川準といい、CM出身の監督は実にオーソドックスかつ斬新なつくりをする。PV出身監督で目立つのがダメなお二方だけだとは思うが、しかしあの二人とこの二人のこの差はなぜか。元から有名なものをどう料理するかというのがミュージック系PVとするならば無名なものを有名に仕立て上げるのがCMなのか。その差だろうか)
構成がオーソドックスなら配役はその分かっ飛ばしている……かのように見せかけつつ、その実、びたびたっとはまった役者を配置しているのがすさまじい。主人公である甥っ子が人生を投げかけるたびにテレビをつければ片平なぎさが2時間ドラマをやっていて「まだやりなおせるわ!!」と岸壁に追い詰めた犯人に語りかけるなど、パロディと真面目と狂気の境目を紙一重で潜り抜けているような抜群のスピード感覚に脱帽。歴代の男たち、あるいは松子を取り巻く家族知人友人を演じた役者たちは申し分なくこれ以上何も足せないし何もひけないだろうと思わせるものがある。特に作家崩れのDV男(ダザイはん)役の宮藤官九郎がモノカキが宿命的に抱える内なる狂気を爆発させていてきちんと境界線にたっていたし、松子の重要なキーパーソンとなる教え子『龍』を演じた伊勢谷友介が真田広之のような正統派美男子然としてよかった。(ちゃんとディスコグラフィーに「CASSHERN」をいれている。いいやつだなあ)BONNIE PINKがソープ嬢役をやるなんてたぶんもうないだろうし。谷中敦がそのまんまの感じでしかもカタにはまっているという離れ業を演じていた。
だが疑問なのは松子:中谷美紀、弟の嫁(主人公である甥の母):浜田マリ、甥っ子の彼女:柴咲コウ、というように重要な女性陣が同じ系統の顔である、ということ。ここで母親が梶芽衣子だったりすると収拾がつかなくなるのだが、やはりというかなんというか彼女らとは違うかなり影の薄い存在として描かれている。どうもそのあたりの統一性は蛇足という気がしないでもない。ここは多少足が「はみ出ている」感がした。
とまれ、中谷美紀は素晴らしい。おしむらくは老け役がまったくあってなく、おいても若くても「中谷美紀」であったことか。このあたりはあえて超越的存在として描くという監督の意思があったのかもしれないが。まあ確かに中谷美紀がデ・ニーロ的アプローチなんぞした日には、この映画の持つ御伽噺、あるいは昭和歌謡的雰囲気が、まんま実録女ののど自慢は突撃!隣のばんごはんだったということになる恐れがあるのでこれはこれでいい。松子を殺害した犯人の顔は見えない。ゆえに松子は大衆の悪意によって殺された殉教者とも考えられる。笑ってしまうぐらい不幸だが、かなしいひとではないから救われる。愛に殉じた、などと紋切り型のレッテルを貼られかねない物語だからこそ、監督は笑い飛ばすかのように挑発的にストーリーを展開させる。
「ただいま」と「おかえり」はこの映画の重要なテーマであったが気づいたのは最後のほうだった。松子は誰からも「おかえり」とはいわれない。望みながらもかなわない。彼女に「おかえり」というのは、劇中ただひとりだ。あのシーンはある種の「泣かせ」ポイントではある。それはわかっている。だがそんな仕組みにもかかわらず思わず涙してしまったのは、あそこで映画的調和と中谷美紀の女優力の見事な融合が、あざとさ以上の稀有な輝きでもってこちらに撃ち込んでくるからである。泣いたが泣き終わった後にどこか爽快になるような、カタストロフィとして昇華できる清清しさを与えてくれる映画だった。
この映画を見た、と知人に言うと「つらくなかった?」と無闇に心配された。私のオフィシャルイメージって松子なんか?といささかがっくりしながらも、どちらかというと「龍」に感情移入していた。私はああいう風に「男」を捨てたことが何度かある。武田真治のようなポン引きに騙されて酷い目にあったこともあるし、宮藤官九郎に殴られたのは一昨日?昨日?テキトウにやり過ごそうとしたことが後々重要なキーポイントだったことに気づかされることもあった。あの立ち見が出そうなほど満員だった劇場には人数分の松子がいた。その中で一体どれだけの人が、まげてのばしてお星さまを掴んだもしくは掴めるのだろうか。私はただ笑って死にたい。