ジュリアン(1999) : 映画評論・批評
2000年12月15日更新
2000年12月23日よりシネマライズほかにてロードショー
“恐るべき子供”ハーモニー・コリンのさらなる衝撃作
テレビを中心としたメディアが意識にまで 浸透した現代の病は、人が、見ることと見られることの関係のなかにしか存在していないことにある。自分がどう見えるかがすべてであって、中身はどうでもいいのだ。ハーモニー・コリンはそんな現実を徹底して拒絶する。
「ガンモ」では、屋根のテレビ・アンテナに犬が突き刺さった光景が象徴するように、テレビ的な眼差しを排除した剥き出しの人々の姿を浮き彫りにした。そして「ジュリアン」では、盲目の少女スケーターを美しく象徴的にとらえる。なぜなら彼女は、他者の眼差しによって作られているのではなく、純粋に内面からスケーターであろうとするからだ。
この映画の登場人物たちは、自分の身体で生き、自己のオブセッションに忠実に映像のなかに存在する。コリンは、彼らの生をとらえるために、ひとつ間違えばテレビ的な窃視行為ともなりかねない監視カメラを多用することも辞さない。また、デジタルの特性を生かし、存在を突き詰めるかのように、対象を極限までデフォルメしていく。そんなふうにしてコリンは、彼が好きな南部の女性作家F・オコナーのように、暴力的で過激な喜劇性に満ち、かつ残酷な救済の物語を描くのだ。
(大場正明)