ドッグヴィルのレビュー・感想・評価
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かなり興味深い作品、内容はキツい
上映時間180分という長さにビビっていたものの、トントンと展開して内容も分かりやすく、舞台のようなセットと、ドキュメンタリーのような撮影の仕方で興味深く観進める事ができました。
ラースフォントリアー監督作品は難しいものが多いイメージだったのですが、この作品はかなりすんなり観れると思います。
グレースが「美しく若い女性」では無かったら、物語の展開も変わっていたのではと感じて、とても悲しく悔しい気持ちに。
閉鎖的なコミュニティは本当に良くないなと思いました。
老人から子どもまで憎々しい…
グレースは村の人々に対して非常に優しく献身的な女性でしたが、その実、哀れみを持って接している=村の人々を下に見ている(傲慢さがある)
人間が犬を躾けるような雰囲気で、最終的にグレースは権力を使って村人も村も丸ごと消すという選択をとります。(観ている側としては正直スッキリした部分も…)
村人たちもグレースも全員が優しく、しかしとても愚かでした。
異質な舞台で人間の本質を描く!
物語の舞台は、白線たったこれだけ!
最初は、この白線のみの舞台に違和感を感じずには居られません。「舞台じゃないよね、映画だよね!?」という場違いな感覚が漂います。この異常な環境と約3時間と言う長丁場に観ていられなくて挫折する人も多いでしょう。でも、私は観ていくにつれ、この舞台が自然となじみ、いつの間にか物語りに引き込まれていました。余計な物がない分、登場人物の心理や様子がはっきりと分かることが出来るのです。
しかし、物語に引き込まれるにつれ、苦しい気持ちが徐々に大きくなってしまいます。観終わった後、ドシーンとくる嫌な気持ち・・・。人間と言う生き物の嫌な部分をはっきりと見せ付けられることへの不快感を耐えるだけの気持ちがないと、この映画はラストまでたどり着くこともないでしょう。
部外者に対する村人の気持ちの変わりようが怖くて非常に憎たらしい!村になじむために一生懸命人々に尽くす部外者のグレースを、徐々に受け入れて感謝までする村人を見て、なんていい村なんだろうと、ほほえましさが前半。しかし、平和は一瞬でしかないのです。慣れからくる苛立ち、従順な者への制圧欲、弱いものへのいじめ、という人間の間違った心理は村人をすぐに支配していきます。グレースは、村にとって都合の良い奴隷(ペット?)となってしまうのです。
グレースは美しすぎました。この小さな閉ざされた村には、彼女はやっぱり部外者でしかなかったんですね。そして、グレースの綺麗な心が余りにも痛々しい。決して村人を悪者扱いしない純粋な心が逆に罪だったのかもしれません。また、綺麗過ぎた心が故に、最後の彼女の決断が下ってしまったのでしょう。
グレース役のニコール・キッドマンですが、めちゃくちゃ綺麗で美しいです。長丁場を耐えられた理由として、彼女の美貌という理由も少なからずあるかもしれません。だからこそ彼女の美貌が村への違和感に感じられるし、村=田舎に対し、グレース=都会を象徴するにはもってこいでした。
賛否両論の映画ですが、私はものすごい作品だったと思います。
ですが、もう一度観るか?と言われたら、間違いなく遠慮しますと答えます。
1番きつい…
今まで観たフォントリアー作品の中で1番きつかったかも。
ごうかんシーンが苦手なのもあるけど、強くてかっこいいニコール・キッドマンがこんな屈辱的な状況になるなんて、、、、みたいなショックが大きい。
ニコール・キッドマンのどんな苦難でも折れない、目が絶対死なない感じが、そのまんまグレースとして存在してるのに、ものすごい絶望的状況になる。でも目は死なないから、絶望が終わらない。まさに生き地獄じゃん。
同じ女性としてニコール・キッドマンほど強い!の信頼がある俳優はほぼいないと思っているので(あとは、シャーリーズ・セロンぐらいか)
強い女の象徴的存在をグイグイ攻めるので心の砦をものすごく脅かされる〜っとなり観るのがすっごくしんどかったです。しかも長い!
でも、地面に描かれた線だけで村がだんだん見えてくる感じや、上からの俯瞰ショットとか近年のフォントリアーのルックを思わせるとこはすごく好き。
あと田舎の閉鎖感と煮詰まった人間関係の嫌な感じもめちゃくちゃ不快だったな〜。
田舎娘として質素な服装で労働するニコール・キッドマンも良かったし、ちょっと素朴で可憐な雰囲気をチラつかせらせる演技力が改めてすごいと思った。
クロエも出てるしこんな変な映画なのにすごいキャストだな。
最後、グレースの正体がギャングのボスの娘と分かるんだけど、納得〜!自然〜!似合ってる〜ってなるので、結局この映画で私のニコール・キッドマンの株が上がった。好き。
でも、こんな終わり方
絶望的な状況にドッグヴィルの村人に追い込まれて
酷い仕打ちを受けたのに、村が消滅してもひとつもスッキリしない…(すっきりしないのが正しいのだけど)
ほんと最悪だな!って思いながらフォントリアー映画見続けます。
配信で鑑賞
絶望的な神話を抱えて
映画のつくりがおもしろく、消して心地良い気分にはならないものの、数年置きに見てしまう作品。
今回は三度目。
舞台はある一室の中で展開するが、ムラ社会の閉塞感が描かれる。
これまでは映画のつくり自体やムラ社会的な描写に注目していたが、見終わった後にパートナーと映画についてあれこれ話す中で、この物語の神話的な側面に気づく。
グレースがドッグヴィルに来てはじめに犬の骨を盗むシーン、荷台に転がるりんごを口にするシーンからは、アダムの肋骨や禁断の果実を口にするイヴなどがイメージされる。
村人たちに無理な労働を求められ、レイプされ、首輪と重りを付けられても抵抗しないグレースは、キリストの受難を思い起こさせる。
グレースとギャングのボスである父の会話は、ドッグヴィルの村人たちの会話とは異なる奇妙な雰囲気で、どこか人間離れした内容にも思える。
グレース一家を人間を超える存在として捉えると、物語は神話のようにも思えてくる。
また光の描写が興味深い。
村人の中に障碍がある人物(肢体不自由、盲者、知的障碍、おそらく発達障碍)が何人か描かれるが、この中でも盲である男性との関わりは印象的だった。
あまり外出せず、村人たちに盲であることを隠そうと振る舞う男性は(しかし村人たちは彼が盲であることを知っている)、グレースとの会話の中で見えていた物について語る。
初め村人と同様に盲であることを隠そうとしていた男性は、グレースとの関わりの中で、自ら盲であることを口にする。
この印象的なシーンには、いつも締め切られていた男性の家のカーテンが開けられ、夕陽が差し込む。
そして物語の最終章節の、グレースが父の車から降り、いま一度ドッグヴィルを見渡す時、月明かりが村全体を照らす。
これまでドッグヴィルの村人たちを許し父の元でなく再びドッグヴィルに帰ろうとしていたグレースは、月の光に照らされた村を見て、グーズベリー木は棘だらけで実ることなど想像できないとナレーションが入り、村への希望を失ったグレースは、村を焼き尽くす。
盲者やグレースが、これまでのあり方から変化する時のきっかけには、光がある。
思い込みや偽りから、真実を暴く光。
光の持つ意味がとても興味深い。
物語は人間の罪深さが神的な存在によって裁かれる展開を迎えたが、この映画は人間への絶望では終わらせてはくれない。
エンドロールの写真たちは、一見映画とどのような関係が?と思ったが、ここには神話ではなく、現実の世界で苦しみ、生きる人々が写される。
絶望的な神話を抱えたまま、現実世界に帰される。
顔に道徳的な平手打ちをくらったかの様な衝撃
顔に道徳的な平手打ちをくらったかの様な、衝撃的な映画体験をした作品の1つ。
ラース・フォン・トリアーの作品なのに、ラストシーンでカタルシスを感じられて気持ちがいい!と思える人が少し羨ましい。
村人たちの行動原理はエゴや弱さが丸出しだけれど、そこまで突拍子のないものでもなく、理解できる範疇にある。村人と一見いい人そうに感じるトムも実際の我々の側面であって、グレースは理想の人。
私はグレースの、全てを許容し慈悲深く、村人に寛容な姿に共感。しかし、最後に全てを覆す裁きを下したこと(母親の前で子供を殺して…など故意ありの裁き)にカタルシスを感じつつも、グレースも村人たちと同じ人間なんだなぁ…と悲しくもあり、自分も同じことするだろうなぁとも思うので、共感していた自分に嫌悪感すら感じる。まさに寛容の自己満足というやつでしょうか。
ラース・フォン・トリアーの作品を観ると人間嫌いなんだなと感じるけれど、他人よりも自分のことが嫌いでしょうがないんじゃないかと感じています。
恩寵
ドッグヴィル=犬の街 つまり人間は存在するがそこに理性はなくただ本能だけが存在する街ということ。
ドッグヴィルの人々はグレースを異分子として自分たちの都合のいいように奴隷として扱う。首輪をつけられたグレースはまさしくその姿だ。
トムはグレースに対し「愛している」や「助ける」と言っているが、いざ人々から自分が責められそうになると全てをグレースのせいにする偽善者である。
グレースはもし自分が人々と同じ立場だったら自分もそうなってしまうかもしれない。だから人々を許すのだと。
しかし、それは傲慢だと父親に言われる。
自己を犠牲にして相手を許したからといって相手は何も変わっていない。時がたち再び同じ過ちが繰り返されるだけである。ならば悪事を働いたものたちにはその責任をとってもらわなければならない。
自分の中の悪意
理由もわからず逃げてきた女(ニコールキッドマン)をかくまい、徐々に人間の本性を表しはじめる村の人々に対し、嫌悪感しか感じられず、こんな奴ら全員死ねばいいのにって思った。
するとギャングの親玉がやって来て、ニコールキッドマンの判断で皆殺しになってしまったのを見て胸がスッキリしている自分に気付かされた。
数日前に「スリービルボード」を見て、怒りの被せあいはよくないって思ったばかりなのに、真逆の感情が自分の中に表れて嫌な気分にさせられた。
この作品を傑作とまでは思わないが、会社や部活、相撲のかわいがり、内ゲバなど閉鎖された組織の中でのあるあるを巧みにあぶり出した作品だと思う。
密室劇/復讐劇
舞台を観ている感覚で広い空間での密室での遣り取りにオチは皆殺し。
過酷な状況を耐えての失踪に最終的には村人を全滅と暴挙に出る我が儘キッドマン。
酷い扱いの連続に観ているコッチは嫌なストレスが溜まるがラストは気分爽快にスカッ!として笑える。
恐ろしい女に卑劣な手を下した村人たちの無様な顛末にコメディ要素も!?
かくも弱き人々
ドッグヴィルという小さな村が、「人類の持つ暴力性」の象徴になっていて、人間の持つダークな部分が普遍的にも極端に描かれた傑作です。
村人の言うことを何でも受け入れる主人公グレースは、慈愛の象徴になっていますが、その慈愛に甘んじて村人達は徐々にその牙をグレースに向け始めます。お願いごとだけから始まったことが次第に虐待にまでエスカレートしていく残虐性は、閉鎖的な人間の集団の中ではもはや止めることはできません。
そして、村人が人間の残酷性の象徴だとしたら、トムは観念的な偽善の象徴でしょう。
どんなに綺麗ごとを言っても、本能の前ではそれは無力である。だからこそ、首輪をはめ時にはムチを与えるしかない。慈愛だけでは、自分の行動に責任をとる機会が与えられず人類は犬(本能)のままである。現代では首輪やムチの代替物が、宗教や法律や倫理に変わっただけなのかもしれません。
個人的には、犬になる様な社会を作りだしたらいかん!と思います。人間である以上、犬になる前に何らかの策が出せる可能性があると信じているからです。しかしトリアーには、こんな綺麗ごとは通じません。私もトムと同じ偽善者なのか?こういう人間でありたいという夢もただの寝言でしかないのか?
トリアー!!!!!
なんてこったい。
かくも弱き人々となった村人達に与えられたムチに快感を覚えた私も、グレースを虐待した村人と全く同じ人種だということに気づかされる人間の性を的確に暴いた恐ろしい作品でした。
まさか
この映画は最後でどんでん返しが待っていました
主人公の女の人はギャングのボスの父親から逃げてドッグという村に来るのですが、そこは自分がいたギャングという世界よりも美しく映ります
美しく映った村に住むために、村のためになる仕事を買って出て自分のいる意味を作るのですが
次第に、手伝いが酷使されていきます
あんなにいい人であふれていた村なのにちょっとおかしいなと思い始めるようになります
どんどんエスカレートしていき、村の男性に襲われてしまします
しかし、彼女は男性の行為を しかたがないこと と受け入れようとします
自分が村にいるために
さらにエスカレートしてもその考え方で受け入れます
ある時、彼女の父親がギャングのボスが
この村に来ます
村を黒ずくめの男の人が武器を武装して囲います
そこで、彼女と父親は車の中で会話を交わします
この会話が自分の中で印象的で一番いいところでした
彼女は父親のことを傲慢だと思っていました
暴力で片づけようとすることからでしょうか
しかし その言葉について 父は怒ってしまいます
逆に彼女が傲慢だというのです
ここでいう傲慢とは
男性に襲われても それを本能のせいにして受け入れてしまうことにあります
仕方がないこと
これは相手の学習させる機会を奪っているというのです
この発想には驚きました
つまり
自分を犠牲にすることは相手の学習能力を奪っているというのです
そして焼き払われた街には 犬だけが 残されていました
これは、犬=本能 本能だけの村という意味でしょうか
理性はなかった 村
とても考えさせられる映画でした
ずいぶん前に見たので内容が間違っていたらすいません
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