ドッグヴィルのレビュー・感想・評価
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人間のあらゆるいやらしい面をくまなくリアルに描き切った作品。 一貫...
人間のあらゆるいやらしい面をくまなくリアルに描き切った作品。
一貫して全登場人物が至極不愉快な人ばかり。平和な場面は一瞬しかない。
この映画に快を感じたり気持ちが楽に感じた部分があったなら、それは自分の姿なのだろう。
かなり興味深い作品、内容はキツい
上映時間180分という長さにビビっていたものの、トントンと展開して内容も分かりやすく、舞台のようなセットと、ドキュメンタリーのような撮影の仕方で興味深く観進める事ができました。
ラースフォントリアー監督作品は難しいものが多いイメージだったのですが、この作品はかなりすんなり観れると思います。
グレースが「美しく若い女性」では無かったら、物語の展開も変わっていたのではと感じて、とても悲しく悔しい気持ちに。
閉鎖的なコミュニティは本当に良くないなと思いました。
老人から子どもまで憎々しい…
グレースは村の人々に対して非常に優しく献身的な女性でしたが、その実、哀れみを持って接している=村の人々を下に見ている(傲慢さがある)
人間が犬を躾けるような雰囲気で、最終的にグレースは権力を使って村人も村も丸ごと消すという選択をとります。(観ている側としては正直スッキリした部分も…)
村人たちもグレースも全員が優しく、しかしとても愚かでした。
◇プライバシーの壁がない田舎町
物語の舞台は1920年代のロッキー山脈の廃鉱の町ドッグヴィル。相も変わらぬ町民が生活する小さな小さな町です。
最初に驚くのは、舞台のセットです。大きなスタジオ空間の床に道路表示のように書かれた「ELM.ST」「GLUNEN.ST」といった文字と家の間取り図。そして、壁がありません。町の空間はこのセットだけに固定されています。私はなぜか日本の伝統芸能である能の舞台を想起しました。
20人程度の固定されたメンバーで成り立ち、殆ど外部との交流なしに完結した町に一人の女が登場することによって異変が起こります。女はマフィアと警察の双方に追われている設定です。
前半こそは、女を匿って保護する寛容さと交流を深めていく流れで進みますが、時間の経過とともにじわりじわりと扱いが残酷になり、やがて村ぐるみの「奴隷」扱いに成り果てます。
困っている人を助けるという当たり前の道徳感、共同作業することによる仲間化。誰しも一定の距離を置く他者に対して取る態度です。一方で、時間の経過とともに人間関係の礼儀作法は崩れ始め、馴れ合い、相手の存在を固定化して、日常化します。相手に対して優越的な位置にあることに慣れる時に、道徳観は崩壊し易く、人はあり得ない程に他者の「人としての存在」を蹂躙します。
壁のないセットで繰り広げられる集団生活の醜さは、壁のないセットという特殊な環境下で、想像以上に露骨に露悪的に描き出されます。物語には当事者も傍観者もいますが、それぞれに無責任に欲望を剥き出します。そして、スクリーンの反対側で観ている者に対しては、われわれ人間が本来的に持つ残酷さを改めて認識させます。そんな装置を作り出したのが、この映画の技法です。
この作品は、ラースフォントリアー監督のアメリカ三部作の一つに位置付けられます。エンドロールとともに流れ始める#デヴィッドボウイ🎤David Bowie の♪ Young Americans 🎸がアメリカという国の負の姿、人間の欲望が持つ醜さ、われわれの中に潜む本姓、それぞれの不気味さを思い出させ、長く尾を引く余韻を響かせます。
床に白線で町を描いただけの狭い空間で展開される物語。 最初はなんだ...
床に白線で町を描いただけの狭い空間で展開される物語。
最初はなんだこりゃ?と困惑するが、「狭い町」であることが分かりやすいので、慣れてくると逆に良い。
ギャングから逃げてきた女性を匿う町人たちが、最初は善良ぶっていたが、次第に人間の本性を現してくるのが生々しい。
若く美しい女性の弱味を握っている男たちが何を考えるか、この映画がR-15指定であることからも容易に想像がつくというもの。
ラストもあれが一番よかったと思う。
異質な舞台で人間の本質を描く!
物語の舞台は、白線たったこれだけ!
最初は、この白線のみの舞台に違和感を感じずには居られません。「舞台じゃないよね、映画だよね!?」という場違いな感覚が漂います。この異常な環境と約3時間と言う長丁場に観ていられなくて挫折する人も多いでしょう。でも、私は観ていくにつれ、この舞台が自然となじみ、いつの間にか物語りに引き込まれていました。余計な物がない分、登場人物の心理や様子がはっきりと分かることが出来るのです。
しかし、物語に引き込まれるにつれ、苦しい気持ちが徐々に大きくなってしまいます。観終わった後、ドシーンとくる嫌な気持ち・・・。人間と言う生き物の嫌な部分をはっきりと見せ付けられることへの不快感を耐えるだけの気持ちがないと、この映画はラストまでたどり着くこともないでしょう。
部外者に対する村人の気持ちの変わりようが怖くて非常に憎たらしい!村になじむために一生懸命人々に尽くす部外者のグレースを、徐々に受け入れて感謝までする村人を見て、なんていい村なんだろうと、ほほえましさが前半。しかし、平和は一瞬でしかないのです。慣れからくる苛立ち、従順な者への制圧欲、弱いものへのいじめ、という人間の間違った心理は村人をすぐに支配していきます。グレースは、村にとって都合の良い奴隷(ペット?)となってしまうのです。
グレースは美しすぎました。この小さな閉ざされた村には、彼女はやっぱり部外者でしかなかったんですね。そして、グレースの綺麗な心が余りにも痛々しい。決して村人を悪者扱いしない純粋な心が逆に罪だったのかもしれません。また、綺麗過ぎた心が故に、最後の彼女の決断が下ってしまったのでしょう。
グレース役のニコール・キッドマンですが、めちゃくちゃ綺麗で美しいです。長丁場を耐えられた理由として、彼女の美貌という理由も少なからずあるかもしれません。だからこそ彼女の美貌が村への違和感に感じられるし、村=田舎に対し、グレース=都会を象徴するにはもってこいでした。
賛否両論の映画ですが、私はものすごい作品だったと思います。
ですが、もう一度観るか?と言われたら、間違いなく遠慮しますと答えます。
強力なエグ味。
演劇的表現が気になりDVDは持ってたけど未見であった。年末なのに暇なので見てみたわけです。
やっぱりラースは嫌な話上手いなぁ。
犬の様に卑しい、、、犬の村、、そんなイメージでドッグヴィレッジ、、ドッグヴィルなのね。
最後のシーンで確信したわ。
貧しいアメリカの山奥の村の話、人間の弱さ、愚かさ、汚さ、保身、攻撃性、全ては貧しさのせいなのか?いや違いますな。貧しいから表質しやすいだけ、人間の業です。さらにそれを貧しさのせいにして我慢、許したりすると彼らは何も学ばないのです。
かなり実験的表現を一流の演技者と演出力でこれだけ人間掘り込むのはやはりラース凄いと思う。
報い
山のふもとにある小さな村ドッグヴィルへ、グレースが逃げ込んでくる。トムの働きかけで村人は彼女を匿い、彼女は村に受け入れられるよう人々の手伝いをする。しかし徐々に村人たちは、彼女に対し。
スタジオの床に家の枠線があり、多少の小道具大道具があるだけ、それだけの設定で撮影された実験的作品。たぶん役者たちがとても戸惑ったことに、想像に難くありません。観てる方は、結局舞台みたいなものだなと、慣れてしまいました。
物語の展開と結末は、意外に予想される範囲のものでした。女性を虐げる監督ですが、最後はグレースが報復してよかったかな?
ニコール・キッドマンが、美しすぎます。ナレーターが、ジョン・ハート。最後にデビッド・ボウイのヤングアメリカンズが流れます。
1番きつい…
今まで観たフォントリアー作品の中で1番きつかったかも。
ごうかんシーンが苦手なのもあるけど、強くてかっこいいニコール・キッドマンがこんな屈辱的な状況になるなんて、、、、みたいなショックが大きい。
ニコール・キッドマンのどんな苦難でも折れない、目が絶対死なない感じが、そのまんまグレースとして存在してるのに、ものすごい絶望的状況になる。でも目は死なないから、絶望が終わらない。まさに生き地獄じゃん。
同じ女性としてニコール・キッドマンほど強い!の信頼がある俳優はほぼいないと思っているので(あとは、シャーリーズ・セロンぐらいか)
強い女の象徴的存在をグイグイ攻めるので心の砦をものすごく脅かされる〜っとなり観るのがすっごくしんどかったです。しかも長い!
でも、地面に描かれた線だけで村がだんだん見えてくる感じや、上からの俯瞰ショットとか近年のフォントリアーのルックを思わせるとこはすごく好き。
あと田舎の閉鎖感と煮詰まった人間関係の嫌な感じもめちゃくちゃ不快だったな〜。
田舎娘として質素な服装で労働するニコール・キッドマンも良かったし、ちょっと素朴で可憐な雰囲気をチラつかせらせる演技力が改めてすごいと思った。
クロエも出てるしこんな変な映画なのにすごいキャストだな。
最後、グレースの正体がギャングのボスの娘と分かるんだけど、納得〜!自然〜!似合ってる〜ってなるので、結局この映画で私のニコール・キッドマンの株が上がった。好き。
でも、こんな終わり方
絶望的な状況にドッグヴィルの村人に追い込まれて
酷い仕打ちを受けたのに、村が消滅してもひとつもスッキリしない…(すっきりしないのが正しいのだけど)
ほんと最悪だな!って思いながらフォントリアー映画見続けます。
配信で鑑賞
ああもう本当に最悪…
トリアーの底意地の悪さが出た本作
徹底的にヒロインは痛い目に合い、
誰もが彼女を人間として扱わない
「ダンサーインザダーク」の何倍も痛い
ただその分、何倍かは進んだ結論になる
『親切なクムジャさん』や
『かぐや姫の物語』を想起したのだが、
本作の結末が本当にこれで良かったのか、
は定かではない。
カタルシスが不足している気がした。
それは裏を返せば、
私自身が殺された村人だったからなんだけれど。
あの無茶苦茶なセット(?)がシュール
鬼畜(読み仮名:トリアー)さんが相変わらず鬼畜なことする映画。床に間取り描いてあるだけの壁なしセットと聞いて、「またバカなことして」と半笑いで観に行ったら、アレですよ。今度のターゲットは見かけはニコール・キッドマンっす。ジワジワおかしくなる理屈をジワジワとねじ込んでくるのが本当にいやらしい。そして七転八倒しながら最後まで見ると、いやもう薄々途中でわかるのかもしれないが、鬼畜(トリアー)の本当のターゲットが誰なのか気がつくと、ダメ押しされる仕組み。
鑑賞後にステラン・スカラスゲルドのお尻がフラッシュバックしても当方は一切関知しない。
映画?舞台?
思ってたのと違った。
映画ではなく、舞台映像を見ているみたいだった。
家や草は実体はなく、パントマイム(?)で生活している。
時間が長くて途中飽きて料理しながら見たが、最後は釘付けになった。
90分くらいの映画だったら評価もっと上げてたかも。
意外とスカッと映画の部類に入る。
閉塞された村の怖さを実感した。
今やってるガンニバルとか、ミッドサマーとかと題材は似てる。
ニコール・キッドマンってこういう女性として可哀想な役が多い。というか似合ってる。
人間の本性、本能をキリスト教、神話的な要素で余すことなく表現した ...
人間の本性、本能をキリスト教、神話的な要素で余すことなく表現した
現実での人間関係、自身の傲慢さや弱さとも重ね合わせてしまう
想像力を掻き立てられる作品
絶望的な神話を抱えて
映画のつくりがおもしろく、消して心地良い気分にはならないものの、数年置きに見てしまう作品。
今回は三度目。
舞台はある一室の中で展開するが、ムラ社会の閉塞感が描かれる。
これまでは映画のつくり自体やムラ社会的な描写に注目していたが、見終わった後にパートナーと映画についてあれこれ話す中で、この物語の神話的な側面に気づく。
グレースがドッグヴィルに来てはじめに犬の骨を盗むシーン、荷台に転がるりんごを口にするシーンからは、アダムの肋骨や禁断の果実を口にするイヴなどがイメージされる。
村人たちに無理な労働を求められ、レイプされ、首輪と重りを付けられても抵抗しないグレースは、キリストの受難を思い起こさせる。
グレースとギャングのボスである父の会話は、ドッグヴィルの村人たちの会話とは異なる奇妙な雰囲気で、どこか人間離れした内容にも思える。
グレース一家を人間を超える存在として捉えると、物語は神話のようにも思えてくる。
また光の描写が興味深い。
村人の中に障碍がある人物(肢体不自由、盲者、知的障碍、おそらく発達障碍)が何人か描かれるが、この中でも盲である男性との関わりは印象的だった。
あまり外出せず、村人たちに盲であることを隠そうと振る舞う男性は(しかし村人たちは彼が盲であることを知っている)、グレースとの会話の中で見えていた物について語る。
初め村人と同様に盲であることを隠そうとしていた男性は、グレースとの関わりの中で、自ら盲であることを口にする。
この印象的なシーンには、いつも締め切られていた男性の家のカーテンが開けられ、夕陽が差し込む。
そして物語の最終章節の、グレースが父の車から降り、いま一度ドッグヴィルを見渡す時、月明かりが村全体を照らす。
これまでドッグヴィルの村人たちを許し父の元でなく再びドッグヴィルに帰ろうとしていたグレースは、月の光に照らされた村を見て、グーズベリー木は棘だらけで実ることなど想像できないとナレーションが入り、村への希望を失ったグレースは、村を焼き尽くす。
盲者やグレースが、これまでのあり方から変化する時のきっかけには、光がある。
思い込みや偽りから、真実を暴く光。
光の持つ意味がとても興味深い。
物語は人間の罪深さが神的な存在によって裁かれる展開を迎えたが、この映画は人間への絶望では終わらせてはくれない。
エンドロールの写真たちは、一見映画とどのような関係が?と思ったが、ここには神話ではなく、現実の世界で苦しみ、生きる人々が写される。
絶望的な神話を抱えたまま、現実世界に帰される。
気持ち悪くもあるし気持ちいい映画
最初に、ニコールキッドマンのスタイルの良さに驚きます(笑)
それはおいといて、人間のよくある善意からの嫌いな人間に対しての徹底的な暴力。出会いの優しい村人から始まり、美人で頭のいい主人公がだんだん疎ましくなっていく様子、自分たちが暮らしてる生活を凝縮したようでした。
面白い作りの映画です。最初は眠たかったけど中盤から目が離せませんでした。
最後、私も同じようにしたと思います。
鬼畜は死すべき‼️殺すべき❓
なんだか、やりきれないし、展開も平坦で、胸が閉塞する。
何より、ヒロインと境遇が重なるところがあるので、世の中に鬼畜が多いのはよくわかる。
でも、自分の手で、殺して良いと言われたら、二の足を踏むであろう。
すでに死んだ両親であり、教師であり、兄弟であり、妻であり子である、私を虐げて殺そうとした鬼畜ども。
死ね、とは思うが、殺そうととは思わない。
彼女も鬼畜になるのであろう。
全てが鬼畜なのだろう。
監督は、アメリカを想像して、撮影したらしい。
セリフが多すぎて、金もないので、舞台劇。
あまりにも、無様で、無惨で、残酷で、吐きそうだ。
舞台劇のような実験映画
二日連続ラース・フォン・トリアー
この人はいろんな発想があってそれをチャレンジするところが素晴らしい
すべては表現のためであることがはっきりとつかみ取れる
こういう方法でしかこのテーマは表現できないよ、と提示される
なにがテーマだった?と言われると言葉に出来ないんだけど
ドッグヴィルに関しては 偽善のなれの果ての命乞い、とメモした。
村が焼き払われるシーンは、セットが軽いので片付けが楽だな~と思ったけど
スタジオだしな…と
エンドロールがまた良く集めた写真で見入る
美人は結局大事にされる、ってそりゃそうだ。
初見時は愚民の心底の闇とは?と見たが、
再見時は美人が居たらどうなるか?だけに見えた。
裏切られ疎んじられる程に、異様に美しく輝く美人女優を見る悦び。
それだけが残る文学風味の珍作。
美人は疎んじられた先で結局大事にされるのよ、ってそりゃそうだ。
だが好きだ。
三部作のはじまり
まるで舞台劇のようなセット。背景もなく壁もない白線を引いただけの村。他の家で何をやっているのか全てわかるようになっている。奇抜な発想のため集中力なくしては観れない映画なのかもしれない。
プロローグと9章からなる3時間のこのストーリー。途中、かなり眠気を誘うのだが、後半村人の変貌に度肝を抜かされ、スクリーンに釘付けとなってしまうのだ。舞台は多分20世紀初頭で失業と貧困層の社会問題があるころに思われる。貧困が生んだ荒んだ心と閉鎖的な村でのエゴイズム。その犠牲者がグレース(キッドマン)となる。
少年ジェイソンまでもがSM気たっぷりで、まともな人間はいなくなる。そう、彼らはまさしく犬なのである。本能だけで生活し、権力にしつけられることもない。その狂気の沙汰をまざまざと見せつけられる痛い映画だったのだ。こうなってくるとラストも予想できるのだが、エンドロールの背景写真に見られるように単なるギャング映画に終ってないところがすごかった。
【2004年6月映画館にて】
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