サンセット大通りのレビュー・感想・評価
全38件中、21~38件目を表示
サスペンス仕立てなのに、ホラーを鑑賞した気分。なのに、登場人物の生き様に胸が締め付けられる。。
山岸涼子先生の世界観に似ている。
自分の欲望に正直に行動するがゆえの狂気と化した悲劇。
ハリウッドを舞台にした映画。
無声映画時代の名優たち。でも、時はトーキーとなり、遺物とされてしまった俳優たち。
これから、ハリウッドに出ていこうと夢を語る卵たち。
その二つを掛け合わせて、こういう映画を作るとは。
『ようこそ、革命シネマへ』で、映画クリエイターたちが、嬉々として真似をしていた映画。
さぞかし、心躍る名画なのだろうと、鑑賞。
こんな映画だったとは…。
『妖怪人間ベム』のイントロが聞こえてくるようだ…。「早く、○○になりたい」と。
ファンの期待に応え、自分を主役とした映画を創作したい女。
脚本家として、映画を創作したい男。
ほころびかけている自分だけの夢の世界を、必死に創作し続ける男。
創り出す喜びを手放せば、違う幸せも見えてくるだろうに。
贅沢し放題。だが、それだけでは満たされぬ心。
万人からの「いいね」を欲し、愛し方を知らぬ女。
支配・所有ー被支配・被所有。
まるで息するコレクション…。
かっての自分にとらわれた女。
自分の立場をもかなぐり捨てても、自分の夢を守り通したい男。
夢を巡って、自分の生き方に迷う男。
夢にまっすぐな瞳に照り返される自分の姿。あえて眠らせていた志がうずきだし…。
そして…。
Wikiや、いろいろなレビューを拝見すると、まるでドキュメントにもなりえるようなキャスティングだとか。その役柄を嬉々として演じる役者たち(「蝋人形」と称される人物をまことしやかに”蝋人形”らしく演じるとか)。
また、映画の中に出てくる映画の企画『サロメ』とも、幾重にも重なるプロット・演出。
ノーマがマックスをどう思っているのか、どういう経緯でこのような境遇にマックスがなったのかの説明はない。ないにもかかわらず、たった一言の説明と映画全般の演技で、二人の関係性と境遇が納得できてしまう。
圧巻…。
過不足の無い脚本・演出。
ゴシック形式の仰々しいインテリア。それらに負けていないどころか、そんなインテリアでさえ”背景”としてしまうほどの存在感を示す女主人。
そう、ノーマを配することによって、ひそやかに息づく家。
なのに、現実世界とのズレ。見えてくるほころび。その狂気。
もどかしさ。あはれ。世間と断絶された空虚感・焦り…。みじめさ。怒り。
何かをしたい。それによって、世界とつながりたい。承認を得たい。
ただ、時間を費やすのではなく。
湧き上がって千々に乱れるその情熱。どこにぶつければいいのか。
様々な感情に揺さぶられる。
ゴシック形式の前時代的な有様なはずなのに、
現代に染み出てくる。
それは、”過去”の物語なのか。
足元の陰に潜む誘惑なのか。
お金があっても、制約(口出し)が多すぎて駄作となる映画。…皮肉?
重苦しいだけでなく、そんなシニカルな(笑)も散りばめられている。
だが、それだけではない。
意表を突くフィナーレ。
このシーンだけでも、ものすごいシーンを鑑賞した気になり、お腹一杯。息を飲む。
映画を鑑賞した流れで、このフィナーレを鑑賞するとき、この映画が忘れたくとも忘れられぬものになる。
《蛇足》
『蜘蛛女のキス』でブラガさん演じるモリーナが語る映画の中の女優の佇まい・所作のモデルって、この映画のノーマ?
執事マックスが作り上げた「大女優のためのアクアリウム」としてのゴシック屋敷。
改めて映画館で観て、やっぱりこの作品は映画館で観ないとな、と。
だってこれって、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムの「アクション!」の声を聞いて、
並みいるキャメラが階段をしずしずと降りてくるグロリア・スワンソンを捉えて、
「それを客席で我々が観る」ことで、初めて完結するギミックなんだから。
圧倒的な完成度を誇る、ビリー・ワイルダーの代表作にして、ハリウッドの内幕物としても、フィルム・ノワールの到達点としても、ミステリー映画の精髄としても、時代を超えて語り継がれるべき傑作だ。
とにかく脚本の精度が只事ではない。
間断するところのないサスペンスと、ラストシーンから始まりながらなお先の読めない展開、
人間ドラマとしての充実ぶり、小気味のよい台詞の数々。何より、「リズム」が素晴らしくこなれていて、唐突なところや雑なところが一切ない。
配役の底意地の悪さも、いかにもビリー・ワイルダーらしいえぐ味があって良い。
落ちぶれた大女優役に、実際の落ちぶれた大女優グロリア・スワンソン。
まさかの前職&前肩書きが衝撃的な執事に、実際にスワンソンを●●したことがあるエーリッヒ・フォン・シュトロハイム。
スワンソンのブリッジ仲間でジョーから『蝋人形たち』と馬鹿にされているメンバーに、バスター・キートンを筆頭とする零落したサイレント時代のスターたち。
で、スワンソンに表面上優しく接しながら、映画人として切り捨ててみせる大監督に、実際にかつてスワンソン主演で何本も映画を撮っているセシル・B・デミル。
一方で、名もない三文脚本家の若いふたりには、当時まだ無名だったウィリアム・ホールデンとナンシー・オルソン。
つまり、本作は今でいうところの「当の本人が当人役で出演する〈実録再現〉ドラマ」であり、
良識派なら眉をひそめるような、下世話で露悪的なキワモノ演出のゴシップ話なのである。
それを、これだけ普遍的な悲劇へと高めてしまうワイルダーの手腕たるや、もう言葉もない。
構造としては基本、フィルム・ノワールの文法に則った作劇が成されているのだが、それと同時に、典型的な「オールド・ダーク・ハウスもの」の怪奇映画の枠組みが踏襲されているのも注目に値する。
すなわち、怪しいゴシック調のお屋敷にたどり着いた旅人が、得体の知れない主人と執事が世間から隔絶した生活を送るその屋敷で、恐怖の夜を体験する、という一つの類型である。
要するに、ワイルダーはハリウッドの内幕物を描くにあたって、ノワールの手法に、お屋敷ホラーの手法を組み合わせて、おどろおどろしいサスペンスを醸成しているわけだ。なにせ、あの怪優シュトロハイムが、オルガンでバッハの「トッカータとフーガ」を弾くんですよ。これが怪奇映画じゃなくてなんだというのか(笑)。
さらには、作中でグロリア・スワンソンが執筆している「サロメ」のストーリーラインと、映画のプロットがシンクロしている点も見逃せない。ヘロデ王によって古井戸の底にとらわれた若き預言者ヨハネ(ヨカナーン)に、王の娘であるサロメは岡惚れするのだが、「年の差がありすぎて」相手にされない。結局サロメは、ヨハネの首を父親に斬らせて、首に口づけをして歪んだ愛を成就させる。
本作のラストシーンでは、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『サロメ』の「七つのヴェールの踊り」が鳴り響く。スワンソンにとっては、これは「セシル・B・デミルによるサロメ」がクランクインすると同時に、「サロメ」の悲劇が成就する瞬間でもあるのだ(ちなみに、サロメはだいたい16歳くらいのタイトルロールを「オバサン」歌手が若作りして演じることが多い)。
それに改めて考えてみると、『サンセット大通り』のメロドラマ的要素自体、悲劇へと転じてゆく展開や構造がとても「オペラ的」な気がする。
個人的には、本作のすべてが好きだし、すべての要素に優劣をつけがたい。
だが強いて言うなら、エーリッヒ・フォン・シュトロハイム演じるマックスという執事を創造したことこそが、『サンセット大通り』最大の功績ではないかと思う。
なにせ、本作は一見グロリア・スワンソンの物語であるかのように見えて、その実エリック・フォン・シュトロハイムの物語なのだ。
グロリア・スワンソンが生きる、時代に取り残されたゴシック・ハウス。
ここは、グロリア・スワンソンが自身の力で作り上げた世界ではない。実際は、グロリア・スワンソンを「生かす」ために、シュトロハイムが献身と妄執で作り出した、噓と虚構の「仮想世界」なのだ。
それは、ネイチャーアクアリウムのように、すべてがしつらえられ、塗り固められた、幸せな閉鎖空間。希少種を保護するかのように、執事は究極の愛情をもって、彼女の誇りに餌を与え、夢に酸素を供給する。その小さなアクアリウムに、一匹の金魚――外界を知り、若さを誇る金魚が闖入してくることから始まる悲劇。
そう、これは一人の男が何十年もかけて築き上げてきた虚構の「幸せの王国」が、外から入ってきた新しい血によって、崩壊に至る物語なのだ。
だからこそのあのラスト、ということもできるだろう。
あの瞬間、シュトロハイムは、短くともひととき、彼の「偽りの王国」を取り戻すのだから。
過去の大スターの孤独
ニュース映画「サロメ」で名演遺すノーマ・デズモンド
多作な上バラエティに富んだジャンルに傑作を遺すビリー・ワイルダーは、ストーリーテラーの達人。恩師エルンスト・ルビッチと映画の王様アルフレッド・ヒッチコックを足して、さらにダークにした感じの独特な演出タッチを持っている。コメディー映画でもアメリカナイズされた明るさより、ドイツ風な暗さを感じさせます。その中で、一番の特長は、映画を愛していること、映画に携わっている人たちを大切にしていること。その一端はキャスティングだけで十分に窺える。
セシル・B・デミル監督の「男性と女性」などに主演したサイレント映画のスター、グロリア・スワンソンが演じるノーマ・デズモンドが放つ不気味さ。忘れられた大女優役を堂々と演じる誇り高きスワンソンの女優魂が凄い。同じくサイレント映画の巨人エリッヒ・フォン・シュトロハイムの冷徹と献身を兼ねる執事の存在感。さらにサイレントから活躍を続けるセシル・B・デミルが本人役で温厚な人格者をみせて、哀愁漂うバスター・キートンもカメオ出演。ユーモアを完全に排したシニカルな内幕暴露映画で”映画”を賛美するワイルダー監督独自のユーモアが素晴らしい。
ラストは、報道人からフラッシュを浴びてサロメを演じる、狂気のデズモンドに圧倒されます。ヨカナーンことウィリアム・ホールデンを殺めてニュース映画のサロメを実演する物語の結末まで、練りに練られた脚本の完全な映画化。
“私が大きいの、小さくなったのは映画の方よ❗”“私達には「顔」があったわ(We had faces !)❗“映画こそ私の人生”“クローズアップを撮って頂戴❗” 名台詞だらけのこれぞ名作‼️
Billy Willder
ミステリーフィルムノワール映画。
1950年と言う、フィルムノワールがさんになり始めた時代の作品で、ここから多くの脚本的要素を盗んだ作品は多くあります。映画の歴史的にもかなりの影響を残していますが、2010年代の我々が観てもミステリー映画としても楽しむことができるのがこの映画の魅力です。
設定は1920sから1950sにかけて。当時、映画の歴史上最も大きな出来事がありました。それはトーキー映画の出現。それまでの映画はサイレントで上映フィルムに音がプリントされることはありませんでした。トーキー映画とはいわゆる、劇中の役者さんがセリフを喋るということです。それにより、映画のポテンシャルはさらに増加したのですが、俳優さんたちに求められる演技の技術は、動きだけでなく、セリフを読むこと、つまりは話すことも求められるようになったのです。サイレント映画では美しい顔を持っているだけで、絶大な人気を誇っていたスターたちも先行きを危ぶまれることになりました。そんな映画業界での脚本家とサイレント映画のスターだった女優さんの欲をめぐったフィルムノワール。
このテーマをコンセプトとした映画はいくつかあります。『雨に唄えば』(Singin in the rain (1953)”や、『アーティスト』”The Artist (2010)”など。しかし、この映画業界ではタブーとも言える、スタジオ映画の大きな変化、失墜を取り上げた初のスタジオ映画です。パラマウント製作でパラマウントを批評するところが面白いです。かなりブラックなことを取り上げてますが、ビリー・ウィルダーの素晴らしい脚本が、コメディ要素を含み楽しく鑑賞することができます。
ミステリー作品としての脚本の出来がなんと言っても素晴らしい。とても極端で特徴的なキャラクターたちが、ミステリーを作り上げていきます。愛やお金、欲望、リベンジのを中心としたミステリーはフィルムノワールの代名詞ですが、映画業界の転換を背景としたユニークな設定と、コメディ・ドラマ・サスペンスを視覚的に表現するリッチな内容が映画としてのミステリーを完成させています。
一番感心したのは、プロダクションデザイン。グロリア・スワンソン演じるノーマ・デズモンドの屋敷がすごかった。過去の栄光にすがって、自分に酔っている悪役的キャラクターをその屋敷で表現しています。さらには、マックスやベティなどのサブキャラクターにも動機がはっきりとしていて、謎解きが面白い。
殺害された主人公の一人称で語られるミステリーのナレーションも映画としてのミステリーの新しい境地を開いたのでしょう。
70年前という、こんだけ古い作品であってもここまで楽しめるというのは、この作品がその後の映画に及ぼした影響がとてつもなく大きいということがうかがえます。
名作とされるが自分には...
自分には良さが分からなかった。
思った以上にメロドラマだなあという印象。おそらく男と上手くいかなくなると自殺を図るようなデズモンドが好きになれなかったからだろう。
妄想と現実の狭間で
遠慮なしの映画
昔の映画をさほど見ているわけではないので、グロリア・スワンソンに特別な思い入れがあるわけではないのですけど、ウィキペディアで見てみると、彼女、本当にこの作品が久しぶりの映画出演だったみたいですね。そう思ってみると、ほとんど本気ですべての台詞を言っていたようにも感じられて、正直、ゾッとしましたですね。
こういう配役をしてしまうところが、ビリー・ワイルダーの怖さなんでしょうかね。なんか見た目がワイルダーって可愛らしいので、優しい印象ですけど、こんだけ有名な監督で、そんなただ優しいだけの監督なんていないんでしょうね。
同じような題材で言えば、『何がジェーンに起こったか』がありましたけど、私的には『ジェーン』の方がおぞましさの点では上回ってた気がします。ラストもほぼ同じ感じですしね。
素晴らしかった。
過去の栄光
零落女優、鬼気迫る演技
かねてから気になっていたが今回初めて観た。古い映画だが今観てもいささかも価値を減じるものではない。まず圧倒されるのはグロリア・スワンソン演じる往年の栄光にとり付かれ現実を見失った伝説的大女優の、ひとときも、どんな場面もおろそかにしない入魂の演技だ。
ハリウッド映画界の内幕物といえるが、その栄枯盛衰にあって取り残されたとも知らず、否、そうである事を受け入れることが出来ない往年の大女優の悲劇である。
冒頭、背後から銃で撃たれプールに浮かぶ三文脚本家ウィリアム・ホールデンの回想という倒置的な設定をとり終末を提示する。そこからホールデンのナレーションで舞台は半年前に遡る。
自己の脚本が売れず車のローンに追われ貧窮の生活をおくるジョー・ギリス(ウィリアム・ホールデン)がふとしたきっかけで往年の大女優ノーマ・デスモンド(グロリア・スワンソン)の荒れ果てた庭の大邸宅に迷い込む。そこで一時は追い返されるがジョーが脚本に携わると言う事でノーマの脚本の添削を頼まれそれがきっかけでジョーはそこに宿泊することとなる。その大邸宅にはクールでコツコツと任務をこなし忠実にかしずく執事マックス(E・V・シュトロハイム)もいた。
ノーマはジョーに高価な装飾品や衣服を買い与えていくうちにジョーに抜き差しならぬ情愛が乗り移っていった。しかしジョーは次第にノーマの情念の虜でいることが疎ましくなってゆく。
ノーマは容色衰えたりとも大女優であるという確信揺るがず往年の栄光にしがみつき銀幕に復帰する事を信じて疑わない。
一方ジョーは顔見知りの若いベティ・シェファー(ナンシー・オルスン)と再会し、ジョーの脚本の書き直しを共にすることになる。そのため毎夜ノーマの屋敷を空ける日々が続く。やがて婚約者がいるのにベティはジョーに愛を告白する。
ノーマはそれを察知し嫉妬のあまり手首を切る。
それを知ったジョーは邸宅を訪ねてきたベティにすべての真実をぶちまける。そして荷造ろいをして邸宅を出て行こうとする。
半狂乱になったノーマはジョーの背後に向けて銃を三発発射する。
この事件に駆けつけた警察官や新聞記者らの質問尋問に狂気したノーマはキャメラやフラッシュを本物の撮影だと思い込みマックスを撮影監督に見立て静々と階段を降りながら自作に迫真の演技をする。まさに凄絶な幕切れである
Scizoid!!!!
『情婦 (1957)』『アパートの鍵貸します (1960)』と立て続けに Billy Wilder 監督作品を観ているアタクシ。いやはや恐るべくは その驚愕の質の高さと、全く予想の付かない展開の妙である。小気味良い語り口は緻密に計算し尽くされ、全ての台詞/場面に“責任”とも言うべき意味が切れ味良く含まれる。観客が現実と虚構を彷徨う羽目になる配役、印象的で それだけで今作を名作たらしめる構図の数々、そして この『サンセット~』は更に、無声映画時代の大女優 Gloria Swanson 秒殺の怪演が観る者に剥き出しの狂気を突き付ける!!!! ん~~ん、これぞ scizoid!!!! 書いてるだけで身震いしちまうぜ。
豊かな主題を名人芸で描き分ける Billy Wilder──。益々 虜になりそうよん◎
スクリーンで初鑑賞という幸せ!
全38件中、21~38件目を表示











