劇場公開日 1951年10月28日

「執事マックスが作り上げた「大女優のためのアクアリウム」としてのゴシック屋敷。」サンセット大通り じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5執事マックスが作り上げた「大女優のためのアクアリウム」としてのゴシック屋敷。

2021年8月31日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

改めて映画館で観て、やっぱりこの作品は映画館で観ないとな、と。
だってこれって、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムの「アクション!」の声を聞いて、
並みいるキャメラが階段をしずしずと降りてくるグロリア・スワンソンを捉えて、
「それを客席で我々が観る」ことで、初めて完結するギミックなんだから。

圧倒的な完成度を誇る、ビリー・ワイルダーの代表作にして、ハリウッドの内幕物としても、フィルム・ノワールの到達点としても、ミステリー映画の精髄としても、時代を超えて語り継がれるべき傑作だ。

とにかく脚本の精度が只事ではない。
間断するところのないサスペンスと、ラストシーンから始まりながらなお先の読めない展開、
人間ドラマとしての充実ぶり、小気味のよい台詞の数々。何より、「リズム」が素晴らしくこなれていて、唐突なところや雑なところが一切ない。

配役の底意地の悪さも、いかにもビリー・ワイルダーらしいえぐ味があって良い。
落ちぶれた大女優役に、実際の落ちぶれた大女優グロリア・スワンソン。
まさかの前職&前肩書きが衝撃的な執事に、実際にスワンソンを●●したことがあるエーリッヒ・フォン・シュトロハイム。
スワンソンのブリッジ仲間でジョーから『蝋人形たち』と馬鹿にされているメンバーに、バスター・キートンを筆頭とする零落したサイレント時代のスターたち。
で、スワンソンに表面上優しく接しながら、映画人として切り捨ててみせる大監督に、実際にかつてスワンソン主演で何本も映画を撮っているセシル・B・デミル。
一方で、名もない三文脚本家の若いふたりには、当時まだ無名だったウィリアム・ホールデンとナンシー・オルソン。
つまり、本作は今でいうところの「当の本人が当人役で出演する〈実録再現〉ドラマ」であり、
良識派なら眉をひそめるような、下世話で露悪的なキワモノ演出のゴシップ話なのである。
それを、これだけ普遍的な悲劇へと高めてしまうワイルダーの手腕たるや、もう言葉もない。

構造としては基本、フィルム・ノワールの文法に則った作劇が成されているのだが、それと同時に、典型的な「オールド・ダーク・ハウスもの」の怪奇映画の枠組みが踏襲されているのも注目に値する。
すなわち、怪しいゴシック調のお屋敷にたどり着いた旅人が、得体の知れない主人と執事が世間から隔絶した生活を送るその屋敷で、恐怖の夜を体験する、という一つの類型である。
要するに、ワイルダーはハリウッドの内幕物を描くにあたって、ノワールの手法に、お屋敷ホラーの手法を組み合わせて、おどろおどろしいサスペンスを醸成しているわけだ。なにせ、あの怪優シュトロハイムが、オルガンでバッハの「トッカータとフーガ」を弾くんですよ。これが怪奇映画じゃなくてなんだというのか(笑)。

さらには、作中でグロリア・スワンソンが執筆している「サロメ」のストーリーラインと、映画のプロットがシンクロしている点も見逃せない。ヘロデ王によって古井戸の底にとらわれた若き預言者ヨハネ(ヨカナーン)に、王の娘であるサロメは岡惚れするのだが、「年の差がありすぎて」相手にされない。結局サロメは、ヨハネの首を父親に斬らせて、首に口づけをして歪んだ愛を成就させる。
本作のラストシーンでは、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『サロメ』の「七つのヴェールの踊り」が鳴り響く。スワンソンにとっては、これは「セシル・B・デミルによるサロメ」がクランクインすると同時に、「サロメ」の悲劇が成就する瞬間でもあるのだ(ちなみに、サロメはだいたい16歳くらいのタイトルロールを「オバサン」歌手が若作りして演じることが多い)。
それに改めて考えてみると、『サンセット大通り』のメロドラマ的要素自体、悲劇へと転じてゆく展開や構造がとても「オペラ的」な気がする。

個人的には、本作のすべてが好きだし、すべての要素に優劣をつけがたい。
だが強いて言うなら、エーリッヒ・フォン・シュトロハイム演じるマックスという執事を創造したことこそが、『サンセット大通り』最大の功績ではないかと思う。
なにせ、本作は一見グロリア・スワンソンの物語であるかのように見えて、その実エリック・フォン・シュトロハイムの物語なのだ。
グロリア・スワンソンが生きる、時代に取り残されたゴシック・ハウス。
ここは、グロリア・スワンソンが自身の力で作り上げた世界ではない。実際は、グロリア・スワンソンを「生かす」ために、シュトロハイムが献身と妄執で作り出した、噓と虚構の「仮想世界」なのだ。
それは、ネイチャーアクアリウムのように、すべてがしつらえられ、塗り固められた、幸せな閉鎖空間。希少種を保護するかのように、執事は究極の愛情をもって、彼女の誇りに餌を与え、夢に酸素を供給する。その小さなアクアリウムに、一匹の金魚――外界を知り、若さを誇る金魚が闖入してくることから始まる悲劇。
そう、これは一人の男が何十年もかけて築き上げてきた虚構の「幸せの王国」が、外から入ってきた新しい血によって、崩壊に至る物語なのだ。

だからこそのあのラスト、ということもできるだろう。
あの瞬間、シュトロハイムは、短くともひととき、彼の「偽りの王国」を取り戻すのだから。

じゃい