「パリところどころ」はなればなれに(1964) 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
パリところどころ
もし物語的カタルシスだけが価値のある映画の条件なら、映画はとうの昔に文学によって駆逐されているに違いない。エクリチュールの饒舌に比してパロールはあまりにもたどたどしく拙い。しかし映画は言葉とは別に運動を有している。人間や動物や乗り物やあるいはカメラによる、言葉を超越した動きのダイナミズムがある。それこそが映画だ、と言い切ってしまってもいいかもしれない。一瞬で生成消滅する「運動」を逃すことなくカメラに収め、それを一流料理人のように流麗かつ大胆な手捌きでカッティングできる自信があるというのなら。
ゴダール映画の中では言葉が嵐のごとく乱れ舞う。それらは時に詩のように受け手の心に突き刺さり、時に無意味で難解なレトリックとして思考の稜線を滑り落ちていく。おそらく多くの受け手にとって、こうした言葉の、つまり物語のどっちつかずで不安定な手応えが「ゴダールはとっつきにくい」という苦手意識を生み出している。私もマジでそうだった。
だってわけわかんねーじゃん、ふとした日常の話の中にランボーだのパウル・クレーだの毛沢東主義だのが唐突に混入して、しかも特に何も説明ないし、そういう物語的脱臼が延々と続いて、これがヌーヴェル・ヴァーグだと開き直られたらハイそうですか私がバカでしたと回れ右せざるを得ない。
しかしよくよく見てみれば、実のところゴダールは運動の人なのだ。彼の映画において言葉は、物語は、言ってしまえば添え物に過ぎない。小説でいえば、それまで一言一句を丹念に追っていた目線がスーッと滑っていくような、そういう他愛のない箇所。それゆえ彼の映画を見る際に、本当に見るべきは運動なのだ。目を見開き、スクリーンの上で何が起きているかに着目する。
犯罪小説に憧れて強盗を企む3人組。彼らは唐突に夜のカフェで踊り出す。BGMに合わせ、軽妙なステップで延々と踊り続ける3人。しかし周囲の客はそれを歯牙にもかけない。すると突然音楽が止まる。カフェの環境音が戻り、3人の靴音がカンカンと鳴り響く。するとまた音楽が始まる。3人は踊り続ける。また音楽が止まる。始まる。延々と続く。
あるいはルーブル美術館での疾走。3人は9分40秒ほどでルーブルを一周したアメリカ人の記録を打ち破るべく、全速力で美術館を駆ける。おそらく撮影の許可などは取っていないのだろう、他の客は何事かと彼らを瞠目し、警備員は全力で彼らを止めにかかる。
あるいは隘路をグルグルと回る小さな車。庭先をあちこち野放図に駆け回る子犬のように。
あるいはオディールを柱越しにやんわりと抱くフランツ。
あるいは「キスの仕方がわかるか?」と問われてベッと舌を出すオディール。
それらの鮮烈な運動のフラグメントは、物語からも演出からも隔絶したところで営まれる断続的なモンタージュによってより一層輝きを増す。『爆裂都市』が「暴動の映画ではなく映画の暴動」であるとするならば、本作はさしずめ「映画のフリージャズ」といったところか。そこでは言葉や物語といった旧弊なコードは後退し、運動の身体的な享楽と解放感がいきいきと現前する。
思えばヌーヴェル・ヴァーグとは、メロドラマ的な物語と壮大な音響によって受け手を催眠術的に陶酔状態へと陥れるような旧来の映画作品に対する反感をその最大の推進力としていた。そして本作は、それまでのクラシックな「映画」の要件を抜きにしても映画が成立することを、男や女や車や街やカメラやカッティングの荒唐無稽で自由闊達な運動によって示した。
要するに、ゴダール映画の物語に馴染めずに途中で寝落ちても、それをシネフィル的怠慢と気負って落ち込む必要などはそもそもなかったということだ。うつらうつらとわけのわからぬまま見終わって、それでもあそこのショットはよかったな、と一つでも心に刻まれる一瞬の運動があれば、それでもう十分なのかもしれない。てか映画ってそういうもんだよね。
ようやくゴダール映画の見方がわかった気がする。ちょっとだけ。マジでちょっとだけ。でも『イメージの本』とかは無理。何アレ。やっぱゴダールなんもわからん。