座頭市 : 映画評論・批評
2003年9月2日更新
2003年9月6日より丸の内プラゼールほか全国松竹・東急系にてロードショー
この映画には大いなるビジョンが貼りついている
座頭市は本当に目が見えないのか? という疑問がこの映画を貫いている。チラシやポスターには「最強」の文字が躍る。強い、強すぎる座頭市。本当は目が見えるんじゃないか? そんな感じだ。
例えば、雷鳴と豪雨の中の戦い。音と匂いを頼りに相手の動きを知る盲目の剣士にとって、もはや世界の気配を知るすべもない最悪の状況を、座頭市はものともしない。見る側のドキドキハラハラをあざ笑うかのように、座頭市の刀は切れまくるのだ。相手には抵抗の余地さえなく、アクションは一瞬で終わる。強すぎる……。やはり座頭市には何かが見えているはずだ。しかし一体何が?
それは世界のすべてである。そんな大いなるビジョンが、この映画には貼りついている。轟く雷鳴はどこか遠い地での戦闘の爆撃音のようにも聞こえるし、座頭市の殺戮の跡は、パレスチナやサラエボやアフガンなどのようにも見える。「ここ」と「よそ」とが、座頭市の知覚によって、1つの場所に結びつけられるのだ。つまり、そこに世界が丸ごとある。そして殺人マシーンとしての座頭市は、我々人類の絶望と憂いを背負うことになる。個人としてではなく、人類の負の極点としての座頭市。その黒々とした暗闇を通して、我々は世界の歴史と空間の広がりを見ることになるのだ。
(樋口泰人)