「観ながら理解するのはほぼムリだけど」ダ・ヴィンチ・コード つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
観ながら理解するのはほぼムリだけど
ラングドン教授の専門としている、宗教象徴学とは何か。ざっくり言うと、何が描かれているか?描かれている物に付加されている意味は何か?そして作者の意図は何か?を読み解く学問だ。
暗号を解くのに相応しい学問と言えなくもない。
「ダ・ヴィンチ・コード」はダ・ヴィンチの絵画に隠された謎を解き明かし、現代に起こった殺人事件の解決を目指すミステリーで、普通のミステリーとしても楽しめる。
一方で、物語の本質に迫ろうとするならば、ラングドン教授の手法に乗っ取り、「その意味するところ」を解かなければならないだろう。
もろもろ考えることが多い、という点でもこの映画は面白い。
ラングドン教授の手法に則ってこの作品を捉え直すならば、謎解きミステリーの体裁は、誰が見ても明白な作品の表層理解である。
そして、その意味するところという作品に直接描かれない知識補完を必要とする領域(映画ではわりと丁寧に説明されているが)として、キリストの神性を問う物語が描かれる。
聖杯を巡る攻防は三つ巴の争いだ。「聖杯」が何なのかは知らないが、それを手中に収めることでキリストの人智を超えた力を証明しようとするオプス・デイ。「聖杯」が何を示すのかを突き止め、それを白日のもとに晒すことで現在までの欺瞞を暴こうとするリー博士。「聖杯」の在りかを知っていて、秘匿することで血脈を守ろうとするシオン教会。
それぞれの目論見が一致している部分としていない部分が混ざりあう為に事件は起き、ラングドンとソフィーは巻き込まれるのである。
オプス・デイとシオン教会と博士、それぞれが考える「聖杯」の記号的意味は相容れないものであり、具体的に言ってしまえば「キリストは神か?人か?」という価値観の問題である。
この事件の裏で進行している出来事とは「自分達の価値観を守るための戦争」なのである。
ラングドン教授が巻き込まれたのも、その意味性を考えれば当然のことだ。彼が専門としているのは一般的な意味を失った古い記号と、現代に流通する記号の連続性や歴史の研究であり、一見して意味の掴めないものから意味を読み解く研究をしている人物なのだ。
現在一般的とされている記号、すなわち常識を覆す力を、ラングドン教授は持っている。
そこから更にもう1つ掘り下げて考えるならば、この物語で真に表現されていることとは以下の三点に集約できる。
一般的とされている記号の認識を「常識」とするならば、「常識」は長年の教育(思い込みや願望を含む)によって形成されたものに過ぎず、たった1つの「常識」が大きく変革することによって現在の世界が受ける影響は甚大で、「常識」の持つ脆さという問題は無視されたまま世界の根本を形成している、という恐ろしい事実だ。
乱暴に言うと、長いこと正しいとされてきたことは別に正しくもなんともなく、それが間違いだとすればあっちもこっちも間違ってることになり、しかもその根拠はあやふやなのが私たちの住んでいる世界、ということだ。
常識は、そんな脆いものの上に作られている。
そう考えると結局は「何を信じるか」が全てなんだな。そして、どうして信じるか?を導くために、やっぱり知識は多い方がいい。
「ダ・ヴィンチ・コード」観てそんな事を考えてるのは、私だけかもしれないが。
最後に。
ラングドン教授がこの三つ巴の中で、中立であり続けたラストシーンは素晴らしいと思う。
オプス・デイの思惑通り「聖杯」を探し出し、シオン教会の願い通りソフィーを守り、リーの言った通りマグダラのマリアの棺に祈りを捧げたのである。
ラングドン教授が読み解いた末に信じるものとして選びとったのは、「人と争ってはいけない」という、歴史の教えなのだろうと思う。