夏の砂の上 : インタビュー
オダギリジョー&髙石あかり、「夏の砂の上」で体現してみせた繊細かつ無防備な心象風景

読売文学賞で戯曲・シナリオ賞を受賞した松田正隆の傑作戯曲を、気鋭の演出家・玉田真也監督のメガホンで映画化する「夏の砂の上」が、7月4日から封切られる。主演と共同プロデューサーを兼ねたオダギリジョーと進境著しい俳優の髙石あかりが、初共演ながら絶妙なアンサンブルを奏でている。演技派俳優が勢揃いした長崎での撮影を、ふたりが振り返った。(取材・文/大塚史貴、写真/間庭裕基)
原作となった戯曲は、平田オリザが1998年に舞台化して以降、幾度となく舞台で上演され、22年には田中圭主演、栗山民也演出で上演された。玉田監督にとっても、自身の劇団「玉田企画」で上演した思い入れの深い作品だ。

物語の舞台となるのは、雨が一滴も降らない、からからに乾いた夏の長崎。幼い息子を亡くした喪失感から妻・恵子(松たか子)と別居中の小浦治(オダギリ)は、働いていた造船所が潰れても新しい職を探さず、ふらふらしていた。そんな彼の前に、妹の阿佐子(満島ひかり)が娘の優子(髙石)を連れて訪ねてくる。阿佐子は1人で博多の男の元へ行くため、しばらく優子を預かってくれという。こうして突然、治と姪の優子との同居生活が始まる。
■「これは良い映画になる」ということは分かる(オダギリ)

オダギリは、撮影前から玉田監督と対話を続け、自らプロデューサーを申し出たという。脚本の行間からにじみ出て来るものとして、どの部分がオダギリの心の琴線に触れたのだろうか。
「僕も脚本を書きますし、仕事柄いろいろな脚本を読みます。様々な要素が脚本を構成するので、この部分と限定することはありませんが、『これは良い映画になる』ということは分かるんです。あくまで好みになりますが、自分にとって素晴らしい映画になると思えたので、俳優として断る理由はありませんでした。ただ、せっかく良い本でも、今の日本映画界でこういうタイプの企画にはお金が集まりにくいのも事実なので、少しでも役に立てればという思いでプロデューサーに名乗り出たんです」

一方の髙石は、これまでに難易度の高いアクションが求められた「ベイビーわるきゅーれ」シリーズで人気を博すなど、感情のふり幅の大きな役を担うことは多々あったが、今作における優子のような役どころにはあまり接点がなかった。役を肉付けしていくうえでの突破口がどこにあったのか、嬉々とした表情で話し始めた。
「今まで演じてきたキャラクターは色がはっきりしていたので、伝えやすかったかもしれません。優子はつかみどころがないんですが、私は強く惹かれたんです。一体どこに惹かれているんだろう? というのを書き出したりしたのですが、監督から『ありのままで長崎に来てください』と言われたので深く考え過ぎず、自分とは違う優子の感覚は持ちながら長崎へ行ってみようと思いました。行ってみると、優子と同じような感覚で街に馴染んでいく感覚を得られました。そして一番大きかったのは、共演の皆さんの存在です。皆さんのお芝居によって、今まで自分がしていたお芝居とは全く違うアプローチで優子というキャラクターが生まれたのかなと感じています」
今作は、決して派手な作品ではない。主人公の治は子を亡くし、職を失い、妻に出ていかれるなど幾つもの困難に見舞われながら立ち向かうことも、戦うこともしない。必然的に打ち勝つこともないなかで、一見淡々とした日々に漫然と漂う、抗いようのない悲哀や心の渇き、疼きがスクリーンを介してにじみ出て来る。登場人物は決して多くないが、治と周囲を取り巻く人々とのあいだで積み重ねられていく何げない会話から、繊細な心象風景があぶり出されていくさまは観る者の体温を静かに、静かに上げていく。

■髙石あかりは取捨選択できる人
本編では松たか子、満島ひかりという芸達者な実力派が作品世界を“漂って”おり、それぞれとの見せ場は当然あるが、圧倒的にオダギリと髙石がキャメラの前で対峙する機会が多かったはずだ。オダギリから見た、髙石の俳優としての特筆すべき美点を聞いてみた。
オダギリ「ご本人がどう思われるかは分かりませんが、潔さみたいなものは感じます。サバサバしているという表現が適切かは分かりませんが、捨てる勇気を持っている人なのかなと感じました。表現において、捨てる勇気って意外と重要なんです。なんでもかんでも詰め込めればいい表現になるということでもないので、取捨選択できる人なのかなと思うと、羨ましく感じました」

髙石「羨ましいというのは、どういうことなんですか?」
オダギリ「何事に関しても、男の方が未練ったらしいのかな(笑)。そこで止めれば良いのに、あと少しだけ……ってムダに進んじゃうんですよ。そういうところがあまりなさそうに見えて、羨ましいと思ったんです」
■大先輩たちからの得難い金言
どこまでも真摯な眼差しを注ぐ髙石は、現場では相手が誰であっても臆することなく真正面からぶつかっていったことは想像に難くない。オダギリをはじめとする大先輩たちの居方を含め、胸を借りてみて感じたことを述懐する。
髙石「オダギリさんは最初から最後まで、わたしにもずっと敬語で話してくださって、人に対する敬意みたいなものをずっと感じていました。現場の居方として教えて頂いたのが、最後の最後でご飯を食べに連れて行ってくださった時に、シンプルな話ではあったのですが『ずっと芝居場にいなさい』ということなど、体験談も含めて教えていただきました。自分の中ではずっと意識するようになりましたし、きっとこれからもそうなるのかなと感じています。

松さんと満島さんは撮影の合間にご飯に連れて行ってくださったり、連絡先を交換させていただきましたが、お芝居で得られる感覚が大きかったです。松さんは、わたしの芝居を汲もうとしてくださっていると感じた瞬間がありました。そうしなくてもいいところを、松さんの優しさなのか、わたしがどういう芝居をするのかを見ているように感じられて、『いいんですか?』という気持ちになりましたし、嬉しかったです。
満島さんも私の芝居で『こうしたらもっとやりやすいのにな』ということが多々あったと思うのですが、『親子の関係性をこうしたら面白くなるかもね』と、さりげなく伝えてくださって……。言葉のチョイスから思いやりが感じられて嬉しかったです。それは、スタッフさんも含めて全員が持たれていた気がして、そういう現場に俳優部のひとりとして携わらせてもらったことが、本当に大きな経験でした」

また、雨乞いに始まり、鍋にたまった雨水をふたりが「うまかぁ」と飲むシーンは、観る者の感情を確かに揺さぶるはずだ。この繊細な心象風景をとらえて離さないのは、ふたりの芝居が無防備で本能的なものであったからではないだろうか。このシーンに臨むに際し、ふたりがどのような心構えで準備をしていたのか知りたくなった。
髙石「リハーサルを1回だけやったのですが、鍋に水は入っていなかったんですね。本番では、オダギリさんが思ったよりばらまいていて(笑)、こんなにいっちゃうのか! 畳張り替えなくちゃいけないって聞いたけどなあって。家の外の隙間から見えるふたりの画がたまらなく好きなんです。

水をぶちまける前の、オダギリさんに『飲んでよ』というシーンでは、芝居の感覚として『これか!』と掴んだ部分があって。ご飯に行った時に、オダギリさんが『あのシーンはすごく映画的だったと思う』とおっしゃっていて、その言葉も残っているんです。その場にいられたというのも嬉しかったですね」
オダギリ「撮影の段取りとして、あの数日で前後のシーンを撮ることは決まっていたわけです。あのシーンの前には、ふたりがぶつかり合うシーンや、松さんとの別れのシーンなど、自分にとって濃厚な数日間であることは明確で、映画の中でも重要な瞬間がそこで生まれるべきであると思っていたので、とても大切にしていました。ただ、大切にはするんですが、やってみないとどうなるかは分からないじゃないですか。

自分が思っていた以上に、『うまかぁ』のシーンに開放感を得たんでしょうね。芝居的にも。舞台として生まれたこの作品が映画として生まれ変わる時に、あるべき芝居がそこにあったという感覚を、映画的だった、という言葉にしたのだと思います。あのシーンは、ふたりの関係性が明らかに同じ方を向いているというか、“これまで”と“これから”がちょうど重なった部分になっているはずですからね」
演劇でも「うまかぁ」のシーンは、演者と客席が一体化するシーンだと言われている。悲哀や心の渇きが“リンク”した治と優子だからこそ、優子には治が振り上げた拳の落としどころが分からなくなっている心境が誰よりも理解できたのだろう。
■初めての経験「わたし成長している!」
髙石は今作の撮影中に、25年度後期のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」ヒロインに決定したことを知らされるなど、忘れることのできない作品になった。以前、筆者に「『夏の砂の上』についてであれば、わたしは何時間でも話せます」と語っていたことを思い出したが、この現場で得た最大の財産に関して思いを馳せてもらった。

「得たものが多すぎるんです。『成長したな』って自分で思うことって、そんなにないと思うんです。初めての経験なのですが、撮影の途中でふと『わたし成長している!』と感じたことがありました。その成長は芝居の部分でもなんですが、大先輩の皆さんやスタッフの皆さんの居方、人に対するリスペクトといった、全員が当たり前のこととしてやっていることの格好良さが、しみ込んできているんだなと。実際のところ何が成長したのかよく分かっていませんが、本当にありがたい夏の撮影でした」
プロデューサーも兼ねたオダギリは、玉田真也という劇作家、脚本家、演出家と多彩な顔を持つ才能に触れ、どのような部分に唯一無二のものを感じたのだろう。
「僕がすごく好きなのは、文学青年みたいに繊細そうで、真面目で、体が弱そうなところ。この作品の話や役のことを本当に楽しそうに話すし、そもそも舞台で何度もやっているというのに、それを映画化する。さらに来年も舞台化するっていうから、どうかしちゃっているのかなって(笑)。

でも、それくらいこの作品に呪われたように打ち込む玉田さんって、僕は嫌いになれないんですよね。何かにとらわれる姿というのは、ものを作る人間としてとても愛らしいし、そういう人の作品は観たい。小手先起用に作られるよりも、不器用にとことん向き合う玉田さんの作品を僕は観たいと思っています」