終わりの鳥のレビュー・感想・評価
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モルモン教の〜異端者の家?(笑)
地元でやっと上映始まった🦜
思いのほか評価が低くいようなので
期待せずに鑑賞すると…。
死を司るインコ、その名も「Death(デス)」
まず、このDeathが迎えに来てくれて
優しく翼を頭に翳してくれて
静かに眠りにつけるならむしろ待っていたい。
でもその前に自分にユーモアがないといけないし
ヒップホップも歌えなきゃいけないな🤣
娘の死に向かい合えず現実から目を逸らしていた
母親ゾラ、𝐓𝐮𝐞𝐬𝐝𝐚𝐲(なんちゅー名前🤣)との約束
絶対の絶対の絶対守るために立ち上がれ
Just wakin’ up in the morning, gotta thank God〜🎶
【It Was a Good Day】
難しい概念を平易なお話しにしています
期待していたよりも遥かに面白かったです。
終わりの鳥、すなわち死神を巡る物語。
生きるとは何か。
そして、死とはある種の救いでもある。
そういう難しい概念を、映像的にも物語的にも、非常に平易なお話しにしています。
お話しとして説得力もあるし、映像的にもハデさはないけれど面白かった。
こういう映画は、私は好きだな。
長く記憶に残りそうです。
これぞ奇想天外A24作品
命の終わりを告げる鳥(デス)という設定が面白いと感じたし、
まもなく死が訪れようとしている娘(チューズデー)と母(ゾラ)を
どう描くのか非常に楽しみに鑑賞した。
刺さったポイントはあらかた次の通り。
・デスの佇まいが人間っぽくて笑える。特にタバコを吸うシーンは秀逸(予告でも気になった場面)
・デスがチューズデーとRapする
・ゾラがデスを食べることにより、デス化してしまう
(実際には体内にいるため、その能力がゾラの体で体現されていた)
・デス化したゾラの体が伸縮する(巨大化すると巨人さながらなので、インパクト大)
・ゾラがデスを食べることにより、しばらく「死を訪れさせる」ことが停止したため地球?国?町?が大混乱に
人や動物がゾンビ化してしまう
・ゾラがデスの能力を得ることにより、まさか娘チューズデーの命の終わりを告げることになるのか!?
(実際はそうではなかったので安心したが、このどうしようもない結末は観る私たちも覚悟が必要だった)
チューズデーは母ゾラに自分がいなくても残りの人生を充実した時間にして欲しいと願って
死までコミュニケーションを取り続けたに違いないし、
ゾラもチューズデーに安心して旅立って欲しいと願って娘と接していたに違いない。
そして来世はあるというデス。
そこでゾラがどう生きるべきかの示唆を与えて物語は終わるのだが、
私としては希望を持てる良い鑑賞後感だった。
これぞA24的なつくりあがりで、私は大満足だった。
「死」は穢れていない
「鳥」は「死(Death)」の擬人化(擬鳥化)。Deathという単語には「終わり」「死神」の意味もあるから、鳥は「死」「終わり」「死神」のすべてを表していると考えるのが適切なのかもしれない。
超現実的な世界観。死ぬ運命にある娘の死を受け入れることができない母親が、「死」を飲み込んでしまい、「死」と一体化し、母親自身が「死」として、娘を背負いながら世界中を巡る。
シーンのディティールはリアルだがストーリーは神話的。母親の子に執着する思いが世界の法則をもねじまげてしまう、というところは、なんだかインド神話や北欧神話にありそうな壮大さであった。
場面の1つ1つが美しく、この映画そのものが現代芸術作品のようだと思った。
いろいろと考えさせられる要素がある。「死」そのものは、自分がなぜ存在するのかを知らない無知な存在であること、「死」はすべてのものに終わりをもたらす恐ろしいものであると同時に、「救い」でもあること。そして「死」は宇宙の自然法則にとって不可欠なものであり、「死」がなければ世界の循環は断たれてしまう。その意味で「死」は「生」と同じくらい尊く、重要なものだ。
「死」の大きさが微小にも巨大にもなるのは、妖怪の見上げ入道のよう。人間のとらえ方によって、小さくも大きくもなる(とるに足らないことにも、深刻なことにもなる)、ということを表しているのだろうか。母親が「死」と一体化したとき、微小な世界にも行ったところでは、「死」は世界の大きなところにも小さなところにも偏在している、というメッセージを感じた。
主人公の少女に出会ったころの「死」は、すすで黒く汚れていた。すすは、「死」を厭う人々の負の感情を表しているのだろう。人々が「死」を穢れたものと考える想いによって、鳥は汚らわしい姿になってしまう。しかし「死」は自然現象であるが故に、本来穢れてはいない。
少女は、「死」に対して悪感情をもっていなかったから、「死」を洗うことができたし、「死」も少女によっていっときの安らぎを得ることができた。
この映画の裏テーマは、「延命治療」や「安楽死」ではないか、と思った。母親が娘の生に執着するのは、実は娘のためではなく、自分自身が娘の喪失に耐えられないためである。「延命治療」の目的が患者のためではなく、自分のエゴのためになっていないか、ということを批判しているように思える。
「死」は自然なことであり、憎むものや穢れたものではない。避けられない「死」であれば、看取る側は看取られる側が最大限安らかに死を迎えられるように配慮しなければならない。
すごく良かったのだけど、母親が「死」と一体化していろいろなところに行くところは、短かすぎたように思った。ここをもっとちゃんと描くことで、映画全体の面白さがずいぶん変わるように思う。
死と仲良しになる為に。
死と鳥
そういえばヤマトタケルは白鳥になって死出の旅に出た。
She needs die.
鳥が一端焼かれ、母に喰われて再生する間に、世界から死がなくなる。
生首の犬や足の切断された男、首の千切れた小鳥、焼けただれた男が、死ねないでいる。
人間の思うような神はいない。
でも来世はある。
子を亡くした親の想いと共に、子が生き続けることが来世だと言う。
抽象的でなくリアルなあり方として来世が描かれる。
仏教的でもある。
しかし、全体を覆う死生観は東洋のものと微妙に違う。
母は狼狽し、ジタバタし、抗う。
娘は、死を受け入れている。
鳥の邪魔をするなという気持ちと、母の態度も当然だよなという想いがないまぜになって、それが良い。
死は救いである。
このメッセージ自体はそれほどの大きなインパクトでは無いが、その語り口はユーモアを含み、ラップにのり、飄々としてかつ軽くならない。
苦しみを無理に永らえさせて生かし続けることは虐待であるという北欧的な感覚も感じた。
死と仲良しになる。
この映画の感性は出会ったことが無い。
ラップが、要約出来ない空気感をよく反映していて良い。
監督は、クロアチアの若い女性。
クロアチアはセルビア難民を多く生んだ戦闘の絶えない国であった。
原題はTuesday。
このタイトルて何か死を想起させる隠れた意味があるのだろうか?
わからなかった。
追記
このような記述を見つけました
キリスト教では、イエス・キリストが十字架にかけられる前の週の火曜日を指します。この日は、イエスが自分の死を予言した日として重要視されます
お前は私を静かにした
こないだ鑑賞してきました🎬
デスという鳥を死を具現化した存在として描き、ゾラとチューズデイという母娘との関わりが軸となるストーリー。
ゾラにはジュリア・ルイス=ドレイファス🙂
彼女がデスに対してとった行動はちょっと恐ろしいのですが、これも娘への愛ゆえか。
一方で怠惰な面もあり、ストーリーが進むにつれ自分を見つめ直していく様はリアムでした😀
チューズデイにはローラ・ペティクルー🙂
デスが目の前に現れた時は、自分の運命を察知しますが機転を利かせます。
余命が短いからか、達観したところと年相応の部分を併せ持つ女性を独特の魅力で演じていました😀
A24ならではの奇抜なストーリーに加え、デスの不死身ではあるが無敵ではない設定など、絶妙なバランスで成り立った1本です👍
誰しも避けられない
「その時」
に思いをはせるきっかけにもなるでしょう🫡
残されたものが作る「来世」
A24らしい「普通」じゃない作風の映画でした。
ある母娘が死を受け入れるまでの物語です。
死とはそれぞれの人間に平等に訪れるものの、それを受け入れる時までは平等ではない。
「死」を具現化したオウムが登場しますが、彼は人々に死をもたらしているというよりは死ぬべきときが来た生物に死を与えている、と言った方がいいでしょう。
いつもは淡々と死を与えるオウムが、難病にかかり達観した15歳の少女と出会うことで少し仕事をサボり、娘の死を受け入れられない母親によって、とんでもない展開を迎えます。
ここから先の世界のオウムが消えた世界のパニック描写や残された時間が少ないことを悟った母娘の行動が秀逸。
そして最後に語られる「神はいないが来世はある」という解釈が素晴らしく、終幕の鮮やかさも印象的。
地味でシュールな作品ですが、上半期ベスト級。
映画館を入ったときより、出るときの方が元気になれる映画のひとつです。
愛する者の死との向き合い方
生きとし生けるもの、その命の終わりは必ず来る。人の命も例外ではない。人が命の終わりを知るとき、命の終わりを望んだ時にデスはその声を聞いてその声のもとに駆けつける。そして彼は死をもたらす、安らかな死を。
本作は寓話の形をとり愛する者の死とどう向き合うべきかを問う作品。
オウムの姿をしたデスはまるで劇中で死神のように描かれるが、本当は彼が死をもたらしてるのではなく死はけして逃れようもないものであり、彼を死神のように描きながら避けようのない死を人がどう受け入れていくかを描いた作品。あくまでも彼の姿は死を擬人化(?)したに過ぎない。
死は恐ろしいもの。なぜならそれは未知のものだからだ。どんなに長い人生を生きてもどんなに経験を積んでも死ぬことだけは経験できない。だから誰もが死を恐れる。でも必ず誰にでも死は訪れる、誰もが必ず死を受け入れざるを得ない。
死は拒否し続ければ恐ろしいもの、しかしそれは受け入れたとたん安らかなものとなる。デスが訪れるのはそんな死を受け入れた者たちのところ。
死を受け入れた者たちは皆デスを歓迎した。そしてここにも一人、死が間近に迫る難病の少女チューズディがいた。
しかし何の手違いか彼女にはデスを、自分の死を受け入れる準備が出来ていなかった。彼女にはまだ気がかりなことが残っていた。
彼女はジョークでデスを喜ばせその場を取り繕う。しかし彼女の母親ゾラは破天荒すぎる女性で娘の死を阻むためにデスを丸吞みしてしまう。
デスの能力を受け継いだ彼女はデスの代わりに死の配達人の仕事を請け負うこととなる。失業中の彼女はその仕事に満足するがこのまま仕事を続けることはいずれ娘に自ら死を与えることを意味する。
デスを吐き出し彼の指示に従い彼女は娘の運命を受け入れざるを得なかった。チューズディは最後に母に確認する。私がいなくなってもお母さんは大丈夫だよね、と。チューズディの気がかりはなくなり彼女は安らかに息を引き取るのだった。
娘の死を受け入れたはずのゾラだったが、娘を亡くしたことにより開いた心の穴はあまりに大きかった。それからというもの彼女は取り留めもない日々を送り続けた。
そんな時おせっかいのデスが様子を見に現れる。ゾラはデスに問う。来世はあるのかと。来世もなく死んだままなんてあまりにも虚しすぎると。
デスはそれにこたえる。お前の愛する娘は来世でまた生き続ける。でもそれはお前次第だと。娘が生き続けるにはお前が娘のためにも生き続けることが大切だと。娘が生きた証はお前の中にある。お前が自分の人生を悔いなく生きることが娘の生きた証であり、そのように生きていかない限り娘の存在は失われる。娘を生かすも殺すもこれからのお前の生き方次第だと。それを聞いて彼女は自分の人生を前を向いて歩きだすのだった。
亡くなった愛する者がこのまま消えてなくなる、存在してなかったことになるなんて誰もが耐えられない。来世があると信じたい。
でも愛する者は自分の中で生き続ける。自分が生きている限りその存在は消えやしない。自分の中で生き続けるということが来世で生き続けるという意味なのかもしれない。デスがゾラに伝えたのはそういうことなのかもしれない。
かけがえのない愛する家族や友人を失うことは人生で最もつらい出来事。それにより生きる気力を失うこともあるくらい。しかし、その愛する人の生きた証は自分自身の中にしかない、その存在を生かすも殺すも自分次第だ。だから前を向いて生きなければならない。愛する者のためにも。
愛するものを失った人がその事実をどう受け止めその後どう生きていくべきなのか、そんな普遍的な人生観を寓話のような手法で描いた佳作。
浜辺で手を振るチューズディに手(羽)を振り返すデスの姿にドはまりしてしまった。
鳥の声は低い
思っていたよりもファンタジーだった
それでよかった
いくらでも暗く残酷に切なくできるテーマでありながらユーモアを交えたファンタジーであることで目を背けずに鑑賞することができた
絵本として見てみたい
あの世に連れていくものは鳥の形をしていた
怖そうだが交渉に乗ってくれる柔軟さも持っている
我が娘をこの世に引き留めるため、母親はこいつをぶちのめし、生き埋めにして燃やし、喰ってしまうから凄い
そのせいなのか町は悲惨な状況になり、母は鳥の代わりに死にそうな人々に引導を渡してやる
アリスのように伸び縮みする彼女は、これを天職として捉えたり不安定この上ない
結局は鳥さんに娘を連れ去られ、強がりを言ってた彼女も沈んだ生活を送っている
心配になった鳥さんは彼女に宣う
娘の来世は貴方の想い出の中にある
それを聞いた母はクソ野郎と返す
なんだかんだ彼女は立ち上がっていくだろう
ラストのラップは明るく良かった
警察に捕まらなくて良かった、銃を抜かなくて良かった、誰も死ななくて良い一日だった
promise promise
キューブラロスの「死の受容」(親子ver)を想起した。
よかった点
終盤の親子の和解と最後のデスと母親の会話。
もやる点
わざわざゾンビや死ねない動物を生み出す必要性を感じなかった。呼ばれたから行かざるを得ないという性?がもうデスにはあるのだから、ゾンビが街に溢れなくとも母親の死神代行旅を通しての流れは自然だし。
母親を最初からニート(逃げてる)みたいな側面から始めたばかりにミスリードが起きて、深読みしかけるし、母娘の愛のフィナーレに素直に高まれない障害になってる。
街の不穏さを出す場面を削って、最初に看護疲れするような場面を数枚差し込めば公園でうっかり寝こけてる姿も違って写る。
A24らしさで片付ければ簡単なのかもだけど、言いたいことが最後の思いならば、ボーみたいなおどろおどろしい雰囲気をもう少ししまえばよかったのに…まぁそれだとファンは拍子抜けしちゃうのかな笑
死を司る鳥が、という寓話的な話と思いきやキテレツな展開
死ぬ間際に現れる鳥。いろんな人の声を聞きつけとどめを刺してまわっているが、病気の少女のもとに現れたが彼女のジョークを気に入り少女とずっと一緒にいるが…という外国の童話的なお話かと思ったら、奇天烈な展開になる。
鳥自体も、話せるけどつっかえるし過呼吸にもなるし。デス声なのに、妙におかしいキャラ設定。この鳥が来ないと生物は死を迎えられなくてゾンビ状態になるらしい。世界は混乱し始める。
で、娘の死を受け入れられず拒否するあまり鳥を殺して焼いて食べちゃう母!!鳥の能力を取り込んでしまう母!それから二人は…。
なんかどっか頭の線が切れてるような映画は大好き
タイトルなし(ネタバレ)
イギリスの小さな街。
余命僅かな15歳の少女チューズデイ(ローラ・ペティクルー)。
母親ゾラ(ジュリア・ルイス=ドレイファス)は、仕事もやめ、家財品を売って糊口をしのいでいた。
仕事をやめたのは、娘のことが気になって、仕事が手につかなくなったからだろう。
娘の介護は看護師に任せて毎日出かけるが、無為な時間を過ごしている。
ある日、チューズデイの前に一羽の鳥が現れる。
それは「デス(死)」と名乗る途中で言葉に詰まった。
多くの死を人々に運んできたことで、汚れて疲れ果ててしまったのだ。
チューズデイは、そんな鳥に深呼吸を進め、身体の汚れを落とすように勧める・・・
といったところからはじまる物語で、独特な雰囲気を持った作品。
死と慣れ親しむ少女と、頑なに娘の死を拒絶する母親。
くだんの鳥を見つけ、その意味を知った彼女は、終わりの鳥を食べてしまうことで、娘を死の淵から救ったと思ったが・・・
というこの後の展開、こりゃブラックユーモアだね。
欧米と日本の死生観の違いをまざまざと感じて面白いと思いましたが、「なんじゃ、こりゃあ」というひとがいても不思議ではないかな。
終盤、もうひと展開あって、娘と母の物語に収れんしていきますが、娘の死後の生き方・意味は、生きている者の生き方によるのだというあたりに感銘を受けました。
見た目だけの作品だと高を括っていましたが、鳥は鷹ではなかったからなぁ。
なお、エンドクレジットでロトスコープアニメーションのスタッフが何人を列挙されており、もしかして鳥は手袋はめたパペットをロトスコープアニメ化したんではなかろうかなどと思った次第。
鳥がお母さんにかけた言葉が温かい
死を告げる鳥と聞いておどろおどろしいものを想像していましたが、重すぎず意外と明るいファンタジー映画のようでした。
死を告げる使命に苦しむ鳥は、人間臭くてなんだか憎めません。途中、娘を助けるためにそのお母さんから攻撃を受けたのに、最後はお母さんを気にかけて使命とは関係なく様子を見にきます。生きる意味を失っていたお母さんにかけた言葉が温かくて沁みました。
来世は残された者の心の中にあって、そこで生き続けている。残された者がどう生きるかが大切。そんな意味のメッセージだったと思います。
お母さんがまた生きる意味を取り戻す、素敵なエンディングだったと思います。
母は頑張った。
チューズデイのペンギンのお話は笑えた。
娘のためにあの手この手で頑張る母、デスを焼き鳥にして食べた呪いか、大きくなったり小さくなったりたいしたものだ。ひょっとして奇跡が!と思ったが。
ポスターはメタファーではない
まんまそういう話なんだなと。
花粉と黄砂と寝不足で体調最悪の中TOHOシネマズ日本橋へ。
見る前にB1で食べたラーメンが人気高級店なのかもだけど
丁寧に作るとカップ麺のいいヤツに似てくるという気づき。
さて。内容的には落語で良くある「死神」を鳥にして、愛する余命幾許かの娘をあっちの世界に持っていかれないようにお母さんが奮闘する話、で大筋いいはず。
死の概念の書き方は古今東西普遍だと思ってたけど、そもそもキリスト教とかイスラム教はこんな風には死は訪れないと思われているはずので、死を生命の終わりと考えている日本人が1番このストーリーを理解できるのではないかと思ったりしたんだが見当違いかもしれない。好きなシーンもたくさん。最初に鳥出てきた時爆笑したし、大きさが変わるのがまさに神的だし、ラップパート最高だし、神を神と描かないカジュアルな感じ(まさにブラック企業!)も好感度が高い。個々の置かれた事情にフォーカスすると世界の声が聞こえなくなることで彼にとっての〈死〉が作業以上意味を持って人間味を増すとか、オウムにした意味がラストシーンでわかるとかね。
問題は詰め。
野崎まど曰く、「世界は集まって意味を増やしてる。人の心も意味を増やしてる。嘘をついたら意味を増やせる。意味を増やすための嘘。外に出した意味。外に出した嘘。それが“小説”なんだ」。
だとしたら、委ねられるはずのイマジネーションを監督の決めた世界観と色味とアングルで観客へ届ける“映画”は、つく嘘にもしっかりと責任を取らないといけないということ。娘の余命へのリアリティをはじめ、この映画ではいまいちそれができていないと感じた。もちろん最近の他の映画もそういう傾向が強いけどさ。嫌いじゃないけど、その辺りの四の五の言わせずバシッと鮮やかに騙してくれよ!ってのを映画の良し悪しの基準としているので手放しでは褒められませんな。あとA24と業務提携してるTOHOさんですが、全劇場で公開しないのは何か意図があるのかしらね?
それではハバナイスムービー!
主人公のフルネームから「チューズディ」を抜粋したのは鳥さんでしたね
2025.4.8 字幕 アップリンク京都
2023年のアメリカ&イギリス合作の映画(110分、G)
余命わずかな少女の元に死を告げる鳥が訪れる様子を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本はダイナ・O・プシッチ
原題の『Tuesday』は、主人公の名前
キリスト教的には「Holy Tuesday(イチジクの火曜日)」として、イースター前の最後の火曜日にあたる日とされている
物語の舞台は、イギリスのロンドン郊外
重度の病でほぼ寝たきりになっている15歳のチューズディ(ローラ・ペティクルー、幼少期:フローレンシア・ヌメズ)は、母ゾラ(ジュリア・ルイス=ドレイフェス)と訪問看護師のビリー(レア・ハーヴェイ)によって身の回りの世話をしてもらっていた
ゾラはビリーが来ると「仕事に行ったふり」をしながら、店や公園で時間を潰していた
無職のゾラは家にあるものを売ることで生計を立てていて、2階の家具はおろか、タイルやオモチャまで売り払っていた
ある日のこと、チューズディの元に「奇妙な鳥(声&モーションキャプチャー:アリンゼ・ケニ)」がやってきた
鳥はチューズディの死の時期について語り、それは翌朝だと言われてしまう
そこで彼女は、最期に母親に電話をしたいと言って掛けるものの、母親は電話に出なかった
そこでチューズディは、母が帰ってくるまで一緒にいてほしいと言い、鳥はその言葉に付き添うように、彼女のそばから離れなかった
物語は、いわゆる「死」という概念が鳥として具現化されているというもので、死神のようにも思えるし、苦痛を取り除く救世主であるようにも見える
母親が帰ってきてから「明日の朝に死ぬ」とチューズディが訴えても意に介さず、鳥が現れて告げても、母は鳥を追いかけ回して殺し、最後には噛み砕いてしまう
どうやらその時に鳥は小さくなって母の体の中に入り、そこで彼女の体を操る形で、いつものことを行なっていく
映画的には、チューズディを連れた母親がそれを行なっているように見えていて、それによって母親が何かを学ぶかのように描かれていく
だが、母は鳥を拒絶し、この奇妙な時間はチューズディが母親と一緒に過ごした最期の時間となってしまった
映画にて、鳥が「人間の考えるような神様はいない」というのだが、この人間が考えるというのは、いわゆるキリスト教的な神様で、現在の信仰の状態を意味しているのだと考えられる
わざわざ「Holy Tuesday」に準えるように名前を引用しているのも、イチジクの火曜日と言われるキリストのエピソードを暗に示しているのだろう
この辺りは専門ではないのだが、マルコによる福音書「11章:24〜25篇」を考えると、「人(映画にならば母親)に対して恨みがあるのならば、それを赦しなさい。そうすれば天におられるあなた方の父も、あなた方の罪を赦してくださるでしょう」という部分がフィットするように思える
母親は嘘をついてチューズディの介護をしていて、それでも苦痛が取り除かれる日を待ち望んではいない
そうした母親の嘘に隠された部分を見ることによって、表面的なものを赦せるという意味合いがあるように思える
チューズディにとっての苦痛は、病によるものだけではなく、母親と分かり合えず、愛しあえずに逝ってしまうことだと思うので、それを鳥は取り除くことになったのだろう
ラストでは、鳥が母親の元を訪れ、そこで母とチューズディが交わした約束のことを思い出させる
これによって母親は立ち直りのきっかけを見せることになり、本当の意味でのチューズディの苦痛を取り除くことができたのではないだろうか
いずれにせよ、本作の面白いところは、死にゆく全てのキャラクターに名前が付いていることである
エンドクレジットを見ればわかるが、看取られる人とかに「足を失った男」のような表記はなかった
人が信じるような神様の不在という言葉を併せて考えると、神様よりも主体(自分)を愛しなさいと言っているように思うし、現在の宗教観を捻じ曲げている人々へのアンチテーゼにも思える
奇しくも、聖なる火曜日にてイエスは宗教指導者たちに対しても一言申し、それによってイエスを罠にかけるという流れにもなっていたので、このあたりも「人が信じる神様の不在」というものを匂わしているのかな、と感じた
このあたりはキリスト教に詳しい人の解説ブログを読んだ方が良いと思うので、それっぽい感じに書いていることをご容赦くださいまし
対決でなくジョーク
死の執行猶予をペンギンのジョークで得るところが印象的。
こともあろうか「死」である鳥に対して少女チューズデイは皮肉を吐く。
彼女に興味を示した鳥は久しぶりに言葉を発し対話が始まる。
人間達の断末魔の声は消え上機嫌になった鳥とチューズデイのダンスは本作の白眉な場。
果たして彼女は、絶対逃れられない鳥(死)とどう折り合いをつけていくのか?⋯
の話と思いきや、意外にチューズデイは母に会うまでと多少の延命は望むものの行く末を達観してる。
見終わってみると、どうもチューズデイの母親がどう娘の死を受け入れるか? の話しだったよう。
娘をあんじ遂には焼き鳥にして食べるところの他諸々、奇想天外な部分は理解できるが、個人的に少し腑落ちしなかったのが残念。
終盤の海岸。
鳥を吐き出し正気を戻す母と瀕死のチューズデイ。
いよいよチェスの対決?とはならないだろうが、ここはジョークで締めくくって欲しかった。
最後も鳥は憔悴の母親に本当に良いこと言ってくれますが、その内容を本編の映像で見たかったです。
Fire Bird
怒涛のA24ラッシュの2025年、そんな中でもポスターひとつで異彩を放つ今作、でっかい鳥さんが見つめているというところだけでも気になり鑑賞。
内容も死を連れてくる…とかうんとかすんとか言ってる感じでしたが、死を擬人化したというスタイルでとても斬新でした。設定は斬新でした。
ただいかんせん余白が多すぎる…
見た目ホラーでしたが中身はコメディとシリアスを反復横跳びするような感じの作品だったので、その辺もイマイチスッと飲み込めない要因になっていました。
死を宣告されたであろう主人公のチューズデイの内情がほとんど描かれないのも変にモヤモヤを抱えながら観てしまいました。
どういった病気を患っているのか、どういったものや事を好んでいるのか、どういった性格なのか、それらは全く明かされずに死が近いというだけの舞台装置と化していたのでそりゃ上手い事のめり込めんわなと勝手に納得しました。
もちろんファンタジーな世界観なのである程度の事は飲み込めるんですが、お母さんの行動だけは突飛すぎてどういう事だ?の連続でした。
鳥を食べたり、それらの余波を受けて巨大化したり小さくなったり…そもそも仕事をしていない事に関してもほとんど明かされず、チューズデイの死を受け入れたくないというだけの受け皿として利用されていたので彼女も被害者ではある(映画的に)んだろうなと思いました。
死についての映画のはずが、どこかその死すらも利用して世界観を広げにかかるのでややこしさに拍車をかけますし、特別話は難解ではないんですが、素直に見せてくれないのもあって頭を抱えてしまうシーンが大量にありました。
これで終わりだなと思ったところでちょろっとした後日談が描かれるのは全然あり派なんですが、今作は後日談がダラダラかつ長すぎるのがもうダメでした。
母親のその後は別に知りたいとは思っていなかったので正直何のエピソード?ってくらい薄かったですし、デスを出して語りたいがために追加したのかなと思うとなんだかモヤっとします。
デスのちょい緩めなキャラクターは魅力があり、デスメインの方がストーリー的にも面白くなった気がしますが、死についての新解釈という事ならばデスは進行役に置くのがベターだったのかも?という考えには落ち着きました。
この感じの作風で110分はやはり長かったですし、テーマが良いだけに勿体無さがありましたし、意味の分からない変な映画は大好物ですが、支離滅裂でやりたい事を無理くり繋げたような作品は相変わらず苦手だなと自分の映画に対してのマインドを再確認するにはちょうど良い1本だった…かもしれません。
まぁA24だし…で片付けられる、そんな作品といった方が早いかもです。
鑑賞日 4/5
鑑賞時間 18:45〜20:35
座席 I-8
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