「死んでもヤリたいアニマル吸血鬼によるNTR大作戦!(笑) 「美女と野獣」の行く末やいかに?」ノスフェラトゥ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
死んでもヤリたいアニマル吸血鬼によるNTR大作戦!(笑) 「美女と野獣」の行く末やいかに?
封切り週の土曜日昼に新宿Kino cinemaに行ったら、まさかの満員札止め!
まあ劇場が小さいからしょうがないんだけど、まさか観られないとは……。
翌日、改めてレイトショーに行って、なんとか鑑賞。
僕ら古めの人間から見れば、単なる『吸血鬼ノスフェラトゥ』(22)の二度目のリメイクといった印象しかないんだが、最近の若い人にとっては「あのA24で『ライトハウス』(19)を撮ったロバート・エガースの新作!」という扱いなのかもしれんね。
旧作のムルナウ版『吸血鬼ノスフェラトゥ』は一応大昔に観たことがあるが、実はたいして思い入れがない。ヘルツォークのリメイク版『ノスフェラトゥ』(79)のほうはいまだに見逃している。ただ予備知識として、一応「吸血鬼映画の元祖」でもあり、だいたいの内容は理解しているつもりだ。
今回のリメイクで最も目立つ変更点は、ラスト辺りの展開で「吸血」よりも「性交」に焦点を当てたという意味で、ノスフェラトゥのエレンへの執着がより「生々しい」ものになっている点だろう。
俯瞰して物語を見れば、本作は間違いなく「NTR(寝取られ)もの」の一典型を示している。まさに、これをNTRと呼ばずして、なにをNTRと呼ぶのか、というくらいの。
もちろん『ドラキュラ』だって旧版の『吸血鬼ノスフェラトゥ』だってNTRなのだが、今回は圧倒的にその気配が濃厚だ。
要するに本作はヴァンパイアものでありながら、「横恋慕した怪物が人間に恋するけど滅ぼされる」という、『キングコング』や『フランケンシュタイン』に近い「美女と野獣」の定型に敢えて寄せてあるのだ。「セックス」を前面に強調することによって。
明らかにデーモンを思わせる旧作の外観から、蛮族の野人に近い風貌に変更されたことによって、ロマンス小説における「ハイランダーもの」(イギリスの貴族階級の女子がスコットランド系の蛮族に誘拐されたうえに調教されて、女が蛮族の男らしさにめろめろにされる話)に近いテイストが生まれている点も、注目に値する。
「野蛮だけど雄雄しくて強壮な絶倫男」が、
「文明化されてるけどあっちの弱い男」を
差し置いて、美女をモノにするロマンス。
これは、本質的にはそういう物語だ。
さらには、エレンは昔から異様に感受性が鋭く、かつ性欲も強い、奔放で神経質な内向的タイプ。こういう女と暴力的で支配的な男の複雑な愛情と憎悪の物語としては、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』が容易に想起される。
要するに、ロバート・エガースは「ドラキュラ」の物語のなかに「ゴチック・ロマンス」としての19世紀的な要素を読み取って、それをわかりやすく拡大してみせたわけだ。
(ちなみに、オルロック伯爵の外見の変更には、昔からよく言われている旧版の『吸血鬼ノスフェラトゥ』が「ユダヤ人の外見=鉤鼻、長い爪、禿げ頭」を表わし、ドイツにおいて1920年代に荒れ狂っていた「反ユダヤ主義」を反映しているとされる話を製作陣が気にして、敢えて「避けた」可能性が高い。これは、ノスフェラトゥと呼称せずに製作された『ドラキュラ/デメテル号最期の航海』(23)ではドラキュラの風貌がまんまノスフェラトゥを踏襲していたのと対極的である。今振り返って考えると、あっちの映画の船中のシーンは、『ドラキュラ』というよりはまんま『吸血鬼ノスフェラトゥ』のリメイクに近いものだったんだよね。)
同時に、先にも述べたように、これは「モンスターが美女を求めて滅びる」典型的な「美女と野獣」の物語でもある。
美女が野獣のなかに「善良さ」を見出すことができれば、それなりのハッピーエンドもありうるかもしれないが、本作のように「厄災」そのものの悪、周辺の家族を皆殺しにできるような許されざる悪が相手では、さすがに物語内で救われる余地がない。
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●ゴチック・ロマンスとしての「NTR」もの
●怪物映画としての「美女と野獣」の類型
他にも、エレンとノスフェラトゥ(オルロック伯爵)の関係性や物語の展開には、さまざまなフェイズの要素が投影されている。
●没落した貴族社会と、勃興する市民階級の対比
トーマスやエレンはドイツの新興階級の子女であり、19世紀に時代の主役へと上り詰めたブルジョワジーである。一方でオルロック伯爵はトランシルヴァニアの古城で蟄居同然の生活を送る貴族であり、階級的には過去の存在になりかけている。その「貴族」が「契約」という新たな近代的かつ法的な手段を用いて、ブルジョワジーの街に乗り込んで旧来的な闇の力で支配しようともくろむ物語でもある。
●抑圧された女性の性と、それを打破する異教の性神
19世紀は人類の歴史上で最も女性の「性」が抑圧されていた時代であり、そのなかでエレンは抑えきれない内なる情熱を抱えていて、悶々とした日々を送っている。その「はけ口」となるのが、ドイツの外からやってきてルーマニアの古語をしゃべる怪人である。エレン自身は「守護天使を召喚」したつもりというのは、「キリスト教の教えに従っていたつもりが、知らぬうちに禁忌に触れてしまった」という話で、キリスト教徒の堕落のいとぐちとして頻繁に出てくるロジックである。
●侵蝕してくる「魔」――ストーカーとしてのオルロック
予備的知識として、西欧では一般に魔は「招かれないと結界を越えられない」存在とされる。悪魔や吸血鬼が「外から呼びかける」のは、本人の意思で「呼び込まない」限り、建物のなかには「入ってこられない」からだ(本作と似たような「魔の越境」を描いたエストニア映画の『ノベンバー』(2017)でも、そういう描写があったはず)。
だからこそ、オルロックはエレンをしきりに呼び求め、エレンが「Come!」と行ったからオルロックはやって来られたわけだし、トーマスがサインをしたから街まで入って来られたわけだ。
一方で、この「合意」については、ストーカーとしてのオルロックがエレンを襲うに際して「性的合意」を取りつけている、あるいは幼少時に「守護天使」と勘違いして彼を呼び入れてしまったエレンの行為を「性的合意」と詐称している、というふうにも解釈が可能だろう。
●ペスト(疫病)の象徴としてのノスフェラトゥ
旧作でもそうだったように、ノスフェラトゥはネズミと密接に結びつけられ、街に疫病をもたらす存在として「象徴」のように描かれる。かつてペスト(黒死病)は、かかれば最後の恐ろしい伝染病であり、人口の半分が亡くなるような人類最大の恐怖の一つだった。
ロバート・エガース監督は当然ながら、19世紀の産物であるドラキュラ譚に、同じく「東から来た厄災」であるコロナのパンデミックを重ねて見ているはずだ。
●近代的な科学とオカルト的な錬金術の相克
科学が勃興してきたとはいえ、瀉血や拘束など「誤った医療」がいまだ幅を利かせていた時代を背景に、あえて「錬金術」研究に脱線して大学を追放されたフランツ教授(=「ヘルシング教授」)をヴァンパイア・ハンターとして活躍させる。ロバート・エガース監督のシンパシーがどちらにあるのかは、意外にわからない。もしかすると「女性や精神障碍者を抑圧するような科学」ならば、「太古の邪神につらなる知恵の体系」のほうがまだマシという感覚なのかもしれない。
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映画のなかでのエレンの扱いには、どこか複雑なところがある。
彼女は、決して観客が共感できるキャラクターとしては描かれていない。
とくに、自分に親切にしてくれた一家に対してよくあんな口が利けるものだというのは、観た人全員が感じることだろうし、エレン自身も、自分の感情や発言をちゃんとコントロール出来ていないような気配がある。
夢想的で、感情的で、性欲が強く、ロマンティスト。
態度がころころ変わり、発言もころころ変わる。
巫女体質で、影響を受けやすく、腺病質。
要求は多いが、他人に感謝できない。
夢遊病。てんかん。ヒステリー。
魅力的だが、面倒くさい。
いるよね? 身近にも。こういう女性。
ここまでじゃなくても。
こんな感じの人。
失礼承知で女優さんの名を挙げるなら、広田レオナとか、真木よう子とか、遠野なぎことか……。
これは、普段はあまり正ヒロインを務めないタイプのこういう「面倒くさい」女性を、敢えてヒロインに抜擢した映画なのだ。
自分自身でもヒステリー体質を抑えられなくて苦労していたなかで、セックスの出来る相手を見つけていったん落ち着くという話も、やけに生々しい。いかにも「抑圧された性衝動」のせいで異常行動に走っているといわんばかりの設定(笑)。まあ、幼少時の性的なPTSDのせいで、いろいろ身体と心の調子がくるっているという解釈なんだろうね。
彼女は19世紀の抑圧的な社会からはバリバリに浮いていて、幾多の苦難を味わうことになる。オルロックに魅入られたり、夢のなかで犯されたり。医者にしばりつけられたり、腕ぶっさされて血抜きされたり。街の人たちから白眼視されたり、言ってることを誰にも信じてもらえなかったり。で、みんなに言うことをきかされそうになる(最近はやりの「ガスライティング」ってやつですね)。あまり幸せな人生とは、到底いいがたい。
とはいえ、結局は「彼女を気にかけて、優しく庇護した一家」の経験する悲惨な末路を見れば、エレンが「本来的には関わったもの皆を不幸にする女」「近くで気になっても手を出したらえらい目に遭う女」として描かれていることも十分理解できる。
そう、これは「美女と野獣」の型に紛れて隠蔽された「ファム・ファタル(運命の女)」の物語でもあるわけだ。いわば、ホラーを偽装した「ノワール」。
若い女に執着して、身を持ち崩すのがオルロック伯爵で。
ダメだと思ってても、朝までアニマルみたいに頑張っちゃう。
で、燃え尽きちゃう。身も、心も。
ね、よくある話でしょ?(笑)
乱暴だけど結論を述べよう。
『ノスフェラトゥ』は、「腹上死」の物語である。
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その他、寸感を。
●これ、ジョニデの娘のやってるヒロインって、もともとはアニャ・テイラー=ジョイがやるはずだったんだってね。それはそれで観たかったなあ。
今回、リリー=ローズ・デップも「舌芸」を妙に頑張ってたけど、たしかアニャも舌芸が得意だった漠然とした記憶がある。
●オルロック伯爵役のビル・スカルスガルドの顔をパンフで見て驚愕。あんな野人メイクしちゃったら、こんな美青年にやらせる意味まるっきりないじゃん!(笑)
しかも、彼に決まるまではダニエル・デイ=ルイスやマッツ・ミケルセン、結局教授役をやったウィレム・デフォーなどもこの役で検討されたとのこと。なにそれ、ぜんぜん違うじゃん、オッサンばっかじゃん!!(笑)
いうなれば、内に魂を込めた人形のようなもので、オルロック伯爵のあの外見のなかに「繊細で細面の美青年の魂」が宿っているというのが、ロバート・エガース監督の考えなんだろうね。まさに「美女と野獣」のビーストだ。それを「表面には表れない配役」で表してる。
あと、スカルスガルドの放つ低音は、脳をゆさぶる美声だった。
●この映画で一番恐ろしいのは、実はノスフェラトゥ=オルロック伯爵ではない。
当たり前のように、街の平和のためなら生贄にエレンを捧げるしかないと結論付けて、あまり逡巡したり苦悶したりする様子もなく、「オルロックにエレンを抱かせる」NTRつつもたせ計画を実行に移す、教授と医者のコンビのほうが、よほど怖い。
要するに、「正義」もまた「悪」の一形態にすぎないってことなんだろうなあ。
●ノスフェラトゥが支配しているシーンのみがモノクロ、それ以外のシーンが彩度を極端に抑えたカラーというのは、よく考えられた象徴的な演出だ。総じて美術や撮影のすみずみにまで監督の美意識が張り巡らされていて、ゴチック的な映像美を存分に堪能できる。
また、影を用いたドイツ表現主義的な演出は、旧作への限りない愛慕を込めたオマージュとしてしっかり機能していた。
決して怖くもなければ見やすい映画でもないとはいえ、少なくともとても美しい映画ではあったと思う。
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