「私にとって「ゆるせ」は「恕せ」。でも難しい。」果てしなきスカーレット スノーバンビさんの映画レビュー(感想・評価)
私にとって「ゆるせ」は「恕せ」。でも難しい。
考えさせられることの多い素晴らしい作品でした。私は細田監督作品は「サマーウォーズ」一作しか観ていません。監督に対する先入観や思い入れが無かった分、作品単体として楽しむことが出来たのだと思います。
この作品には、悪が改心したり、復讐が成就して留飲を下げる、といったカタルシスはありません。映画館を出た後も「あれはどういう意味だったのだろう?」と考え込んでしまうシーンが多々ありました。細田監督は、あえて回答を映画の中で示さず「皆さんがそれぞれ考えて下さい」と「問い」を置いて行ったように感じました。
一番印象に残ったのは、父が謀略で処刑される際に残した「ゆるせ」という言葉です。私がこの言葉を聞いてすぐに思い出したのは「恕せ」でした。日頃使わない言葉だと思います。「赦せ」や「許せ」ではなく「恕せ」。私のかつての知人が「恕平(じょへい)」というお名前でした。その意味は「どうしてもゆるせないことであっても、寛大な心でそれをゆるすこと」だそうです。
しかし、人間は本当の意味で復讐の相手を「恕す」ことなど出来るのでしょうか?江戸時代の「仇討ち」は「国家が処罰を行う」ことと引き換えに禁止されました。それは決して「恕した」からではありません。また日本人は原爆を二発も落としたアメリカを本当に「恕した」のでしょうか?ひょっとしたら「恕した」はずの感情は消えることなく、心の奥深くに沈殿しただけで、いつかどこかで爆発してしまう恐れはないのでしょうか?
「復讐と恕し」というテーマを扱った小説では、菊池寛の「恩讐の彼方に」が記憶に残っています。しかし「果てしなきスカーレット」の仇であるクロ―ディアスは、最後まで救いのない悪党のままです。スカーレットは「復讐に取りつかれた自分自身をゆるせ」と解釈しますが、その解釈も今一つ腑に落ちません。この「ゆるせ」の解釈にも本当の正解は示されていないように感じます。
そして議論の多い渋谷のダンスシーンと、それに至る長いワープ。私は戦いに明け暮れる中世から現在までの、人類の戦いを減らすための長い思索の歴史を思いました。スカーレットの時代から聖の住む現代日本までには400年以上の時間が経過しています。その間に誕生した数多の哲学者と人権思想。アメリカ独立。フランス革命。植民地主義。王制から共和制への転換。そして先の戦争を経てのグローバリズムと多様化・包摂の時代へ。その膨大な時間の流れが、あの評判の悪い「長すぎるワープ」に込められていたように私は感じました。
まあ、勝手なことをつらつら書き連ねましたが、あくまで私の一つの解釈に過ぎません。しばらくは「酷評の嵐」はやみそうにありませんが、数年後にこの作品が「細田守監督の隠れた名作」として再評価されることを願っています。
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