「リアリティなきファンタジー」果てしなきスカーレット うにまるさんの映画レビュー(感想・評価)
リアリティなきファンタジー
11月22日に映画館にて鑑賞。
すみません、とても長くなります。
ことさら作品を腐すわけでなく、さりとて持ち上げるでもなく。
感じたありのままを一生懸命レビューします。
シェイクスピアの悲劇「ハムレット」をモチーフとしつつ、「過去にとらわれず未来に向かうために誰かを、何かを許せるか」という青臭くも普遍的なテーマを取り扱った本作は、エンドロールが終わり館内に照明がついた後の私に多くの疑問を残した。
①序盤の布石が弱くないか?
この物語の肝の1つである「復讐心からの解放と許し」というテーマを存分に表現し切るには、スカーレットと生前のアムレット王との絆がどれほど強かったのか、クローディアスがどれだけ卑劣な手段でアムレット王を陥れたのかを丁寧に描く必要があった。そうでないとスカーレットのクローディアスに対する強い復讐心が観客側に共感されにくく、最後に復讐の執着から解き放たれるカタルシスが弱くなるからだ。
しかし、それら重要な序盤の布石はどれもダイジェスト的な見せ方に終始。例えばスカーレットとアムレット王の絆は、似顔絵を片手にキャッキャウフフという極めて記号的でテンプレート感の強い描かれ方しかされていない。
また、クローディアスは隣国との協調路線を打ち出すアムレット王に公然と反発するものの、その激しい反発心の背景が掘り下げられることはなく、イマイチ伝わってこない。さらには、クローディアスがどれだけ卑劣な奸計でもってアム王を反逆者に仕立て上げ処刑台に送り込んだのかも明らかにされない。単にアムレット王の説明的な台詞の中で「クローディアスが自分を反逆者に仕立てあげた」ということが語られるのみだ。
これでは、スカーレットがクローディアスに対して抱く憎悪と復讐心の強さを共感しにくい。脚本家:細田守の中では「ハムレットをモチーフにしているのだから、主人公が叔父に復讐を誓うまでは当然の前提条件」という理屈なのかもしれないが、登場人物の描写があまりにも淡泊過ぎたせいで、最後まで私はこの世界の人物に没入することができなかった
②「設定のための設定」でしかない世界
この物語のメインの舞台となる「死者の国」が出てきてから最後まで、私にはその場所が何なのか一向に腑に落ちなかったために、最後までずっと首を傾げてしまった。
死者の国では砂漠と荒野と廃墟が果てしなく続いているような描写があり、スカーレットには疲れや喉の渇きといった感覚はあるようだが、飢えに苦しむような様子はなく、憎き仇を探して不毛の荒野をさまよい歩くシーンが続く。これを観ながら私は「なるほど死者の国だから、飢えるということはないのか。きっと、強い未練を残してこの世を去った魂が、永久に果たせないであろう何らかの目的のために、未来永劫さまよい続けるような世界なのだろうか」などと自分なりに納得していたら、やがて日本人看護師:聖と出会ったスカーレットは、供連れの旅の途中で、様々な麻袋を馬に積んだキャラバンの隊列に行き合う。そしてキャラバンの集落に身を寄せる場面になったところで私の頭は完全に「?」に支配されてしまった。
このシーンの描写から、死者の国でも取引が行われており、食事をするという行為があることがわかる。ならば、それらを調達するため穀物や植物を育て収穫したり、動物を飼育したりといった、まさしく生きるための営みがあるはずだ。じゃあ死者の国ってなんなんだと、私の頭を浸食した「?」は、終盤に語られる説明でさらに広がっていく。
いわく、この国は生者と死者、過去と未来が混ざり合って存在している場所であり、スカーレットは実はこの時点では死んではおらず、現世で毒により昏倒し意識不明となっていたところを魂だけがこの地に行き着いた、ということのようだ。
…うん?
現世で意識を失っていたスカーレットの魂が、死者の国に一時的に迷い込んだというのは理解できる。クローディアスが死者の国にいる理由も、実はすでにクローディアスが死んでいるという説明が後になされたことで腑に落ちた。ただ、なんでクローディアスの配下一味は揃いもそろって死者の国にいるのだろうか。こいつらも全員すでに死んだか、あるいはみんなで現世では意識不明で死の淵をさまよっていたということなのか。
そして、過去も未来も混じり合っているにしては、死者の国の登場人物は誰も彼も中世ヨーロッパのたたずまいなのはなぜなのか。スカーレットに襲いかかる戦士たちはプレートアーマーで身を固めており、武士や古代ローマの戦士たち、あるいは現代の兵士といった装いのキャラクターは一切登場しない。聖だけがご都合的に現代人として登場するのみだ。
そして、この死者の国でもクローディアスが一大勢力を率いている様子がうかがえるが、クローディアスはどのようにして死者の国で城を構え、強大な軍を保有するに至ったのか。スカーレットは、この広大無辺な世界の中で、徒歩でどうやってクローディアスの所在を突き止め、たどり着いたのか。
さらに、アレキサンダーやチンギス・ハーン、項羽に劉邦などといった、かつて世界の版図を広く塗りつぶした歴史上の偉丈夫たちはこの死者の国で何をしているのか、一切語られることはない。
空を泳ぎ雷を降らすドラゴンも、ただ「ファンタジーぽい世界」の味付け程度の印象しか与えず、「見果てぬ場所」へと続くであろうと思われる閉ざされた巨大な扉の意味も、なんなら「見果てぬ場所」の意味さえ分からない。
つまるところ「死者の国」なるものは、16世紀のデンマーク人であるスカーレットと現代の日本人である聖との時空を超えた出会いというプロットを成立させるためだけにそれらしく存在する、何のリアリティも感じさせない「設定のための設定」の世界ということだ。
「ファンタジーにリアリティもクソもねぇだろ」と思うかもしれないが、この2つは相反しない。たとえファンタジーの世界であっても、ポップコーンとドリンクを片手に座席に座る観客をスクリーンの向こうの世界に引っ張り込むには、「自分がその世界にいたら」を実感させるに足るリアリティというものが不可欠なのだ。
こうした没入の仕掛けをポイポイっと捨て去っているとしか思えない細田監督にとって「ファンタジー」とは、クシャクシャに丸めた物語を勝手に整然と畳んでくれる魔法の風呂敷か何かなのだろうか。暖かい紅茶とシナモンチュロスを片手に本作を鑑賞していた私は、意識が現代の渋谷へと行き着いたスカーレットのようには自分の座席からスクリーンの向こう側へと突入することはできなかった。
私の勝手な意見だが、映像の美麗さ等を抜きにして、ストーリーをかみ砕くという点において「果てしなきスカーレット」はあまり映画向きの作品ではないように思う。映画は「その時間、集中してその作品を観る」という時間なので、観る側の集中力が非常に高い。だから、心を動かされるときの感動はひとしおだし、逆におかしいと感じるところはずっと引っかかってしまうものだ。どちらかというと、ネット配信や金曜ロードショー等で放送されているのを、家事をしたり趣味をしたり携帯電話を片手に「ながら」視聴をする方が、細かい設定が気にならずにスッと物語の世界観を受け入れられるのではないか(作品の程度の良し悪しの話ではなく、視聴媒体の向き不向きの話として)。
※余談だが、スカーレットが山頂から透明な階段を上っていくシーンで「カイジやんけ!」と私は小躍りし、さらに見果てぬ場所へと続くであろう巨大な扉の場面では、「きっとクローディアスがこの扉を開けた瞬間に気圧差のビル風で佐原よろしくはるか彼方に吹っ飛ばされるに違いない」と、この映画を観ている時間の中で一番ワクワクした。
③登場人物に台詞で説明させるのはやめないか
最近特に顕著な現代アニメの傾向、すなわち「心情、状況などあらゆることを登場人物に語らせて説明する」という演出は本作でも健在だ。細田守が誰をターゲットにこの映画を作っているかは知らないが、少なくとも鬼滅の刃よりは一回り上の年齢層、中学生以上がメインターゲットといったところではないかと推察する。であればもう少し、「演出でもって受け手に感じ取らせる」という手法があってもいいように思う。台詞での説明はクドさ、しつこさがどうしてもついて回る。
個人的にザワついたのが物語の終盤、消えゆく聖がスカーレットに「生きたい!」と何度も言わせる場面。おそらくハムレットの有名な台詞、"to be, or not to be, that is the question."(「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」という言葉だが、物語の文脈から「復讐をするべきか、すべきでないか、それが問題だ」という風に訳される)を踏まえてのシーンだとは思うのだが、私には散々焦らされたM女がドS気質の彼氏に早く絶頂に導いて欲しいと懇願しているようにしか見えなかった。
そしてその少し前、仇敵クローディアスを目の前にスカーレットが復讐を果たすべきかどうか激しく心中で自問自答する場面は、どうしても鬼殺隊の長男を思い出してしまい笑いをかみ殺すのが辛かった。
大体にして、スカーレットの中をあれほど支配していた復讐心が、クローディアスのあの程度の懺悔で簡単に揺らぐという心情がにわかには理解しがたい。
④終わり方はそれでいいのか
ここまで長々と書いた結びにひとつ、どうしても納得がいかない演出がある。物語のラストのラスト、スカーレットが歌を口ずさんでエンドロールへと移行するシーンだ。
観ている側はここまでの流れで、「結局のところスカーレットの体験は、現世で意識を失っていた間に観ていた夢物語だった」ということを理解しているのだが、それでもその夢物語の中で聖と出会い、スカーレットは復讐に執着していた自分自身を許し、未来に向かって生きることを学んだ。聖は消えてしまっても、聖との出会いで得たものは確実にスカーレットの中に生きている・・・
そうした2人をつなぐ絆の象徴のひとつが、キャラバンの集落で聖が教えてくれた歌(「以下「聖ソング」)のはずではないのか。それがなぜ、物語のラストでスカーレットが口ずさむのが、まったく関係のない歌なのか。このシーン、スカーレットに歌わせるべきなのは聖ソング以外に何があるというのか。
「スカーレットが口ずさんだのは聖ソングのAメロで、エンドロールが進むにつれて二人が歌ったあのサビが流れてくる」と思い込み、「ベタだけれども、良い終わり方だな」と先走って納得していた私は、曲がサビに移行したところで聖ソングとは全然別の歌だと分かり、思わず「えぇ・・・??」と声に出してしまった。
⑤結びに
こうして、映画「果てしなきスカーレット」の鑑賞を終えて照明が点った館内で、私は噛んでも噛んでも飲み込めないホルモン焼きがずっと口の中に残っているような心持ちのまま席をたった。
ただ、少なくともこの作品で何を表現したかったのかはハッキリ伝わるし、美麗な映像は映画館の大スクリーンならではの迫力ということもある。その意味で、有象無象のYoutuberたちが視聴回数を回したいがために酷評するほどには駄作というわけでもないと私は思う。ただ、「何を表現するのか」よりも「どう表現するのか」という点で大きな課題を残した作品だと思うし、だからこそ余計に脚本家:細田守の限界が改めて浮き彫りになった作品だったなぁというのが、全体的な私の感想です。
我ながら嫌になるほど長いレビューを読んでくださった方、ありがとうございました。
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