「“監督・脚本/細田守”作品、その1番の成功作だと感じた」果てしなきスカーレット 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
“監督・脚本/細田守”作品、その1番の成功作だと感じた
【イントロダクション】
『時をかける少女』(2006)、『サマーウォーズ』(2009)の細田守監督最新作。監督は本作でも脚本を手掛け、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ハムレット』を下地に、死者の国で目覚めた王女が復讐の旅に出る物語を描く。
主人公・スカーレットの声を芦田愛菜、現代日本からやって来た看護師・聖(ひじり)の声を岡田将生が演じる。
【ストーリー】
19歳の王女・スカーレット(芦田愛菜)は、《死者の国》で目を覚まし、父の仇である叔父のクローディアス(役所広司)への復讐を果たすべく、荒涼とした世界を旅していた。
16世紀、デンマークのとある王国。国王・アムレット(市村正親)は、隣国との関係を対立ではなく友好によって維持しようと務め、国民に慕われる賢王だった。彼は1人娘のスカーレットを可愛がっており、スカーレットもまた父を尊敬していた。しかし、彼の弟であり野心家で軍備拡張を掲げるクローディアスは、彼を叛逆者に仕立て上げ王位を略奪した。
アムレットは無実の罪により、民衆の面前で処刑される事となる。処刑の直前、アムレットはスカーレットに向かって何かを呟いたが、スカーレットはその言葉を聞き取れず、彼の最期の遺志は分からなかった。
19歳となったスカーレットは、王宮での晩餐会でクローディアスに睡眠薬を盛り、彼が眠っている隙を突いて暗殺を試みる。しかし、暗殺を見越していたクローディアスによって彼女は倒れ、強い無念と復讐心を燃やして意識を失ってしまう。
そして、スカーレットは《死者の国》へと辿り着いた。旅の途中、スカーレットは現代日本からやって来た聖(岡田将生)という看護師をしている青年と出会う。「自分は死者ではない」と語り、争いばかりの《死者の国》を嘆く聖の姿を哀れに、そして苛立たしく思いつつ、スカーレットは彼を旅に同行させる。聖は旅の中で出会った敵・味方を問わない様々な人々に手を差し伸べ、治療を施していき、そんな彼の姿に、スカーレットは次第に心を開いていく。
一方、クローディアスは人々が楽園と信じて夢見る“見果てぬ場所”に至る為の山の頂を征服して城を建て、いずれやって来るガートルードを待ち続けていた。そんな彼は、スカーレットが復讐にやって来るという報を受け、彼女を「虚無」にすべく次々と刺客を放つ。
果てしない旅路の果て、スカーレットが辿り着く〈決断〉とはーー。
【前置き】
私は、細田守監督による劇場公開作品は、『デジモンアドベンチャー』(1999)と、前作『竜とそばかすの姫』(2021)を除く、全ての作品を鑑賞している。
そんな私が、細田守監督作品を劇場鑑賞するようになったのは、『おおかみこどもの雨と雪』(2012)からだ。クレジット上は脚本家・奥寺佐渡子との共同脚本という事になってはいるが、実際には彼女は途中降板しており、この時から“脚本・細田守”という流れは始まっていたのだろう。
そして、『バケモノの子』(2015)、『未来のミライ』(2018)と作品を重ねて行くに連れ、私の細田守脚本への期待は失墜していった。だからこそ、前作は劇場鑑賞を見送った。
しかし、そんな私は、本作を肯定的に受け止め、評価したいと思っている。不恰好な作品ではある。しかし、それは今に始まった事ではないだろう。
子育て論に共感出来なかった『おおかみこども〜』、上映時間に対して要素を詰め込み過ぎて散漫化していた『バケモノの子』、そもそも何を描きたいのか(子供目線からの世界だと理解はした)分からなかった『未来のミライ』と比較して、本作は「何を描きたいのか」がハッキリとしており、尺内でそれを収めている。
よって、劇場鑑賞してきた監督の作品群の中では1番好きな作品となった(1番“マシ”と言えてしまうのもあるが)。
【感想】
ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ハムレット』を下地に、物語の主人公をスカーレットという女性に置き換え、泥臭く血生臭い復讐譚として紡ぎ出していく本作は、公開前から度々目にしていた監督・細田守の「挑戦」「意欲作」と言えるだろう。
本作の劇場用ポスター第1弾には、真っ赤な背景の《死者の国》で剣を携えて立つドレス姿のスカーレットの姿が描かれていた。そして、そのキャッチコピーは、「生きるべきか。」である。これは、『ハムレット』に登場する「To be, or not to be, that is the question.(生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ)」という台詞を意識してのものだろう。
実際、作中でスカーレットは父の言葉の真意を求める中で、「復讐を果たすべきか、止めるべきか」と自分に問い掛ける。
そもそも、本作において「死」とはどういう意味を持つのだろうか。《死者の国》と呼ばれる世界に居るように、既に彼らは死んでいるのだから。
ここで重要になってくるのが、存在が完全に消滅する「虚無」という設定だろう。結論を先に述べると、「虚無」とは〈争いや憎しみに囚われ、自分を見失った者が訪れる、もう一つの“見果てぬ場所”〉なのではないだろうか。
作中で《死者の国》の誰もが恐れる存在として、天から雲を割いて現れる雷を吐く〈竜〉が
居るが、あの雷は暴力や憎しみの連鎖から抜け出せない者に下される、“裁きの雷”なのではないだろうか。だからこそ、作中で武器を手にしておらず、略奪も行っていない善良な人々に対しては、〈竜〉は裁きを与えていないのだ。
つまり、《死者の国》とは、「自分を見つめ直す場所」であり、本作が掲げる「“生きる意味”を見つける場所」なのではないだろうか。あそこは正確には「地獄」でもなく、勿論「天国」でもない。生と死の狭間に位置する「煉獄」なのだ。あそこで自分を見つめ直す事が出来るかどうかで、その先の魂の行く先が決まるのではないだろうか。そして、それを見つけたからこそ、スカーレットは生者として生還する事を許されたのだ。
【監督が向き合ったもの】
細田守監督は、「女性を描くのが苦手」な監督なのではないかと個人的に思う。そして、それと向き合うようになったのが、本格的に女性を主人公に据えた、前作『竜とそばかすの姫』と本作なのではないだろうか。
そして、本作を観る限り、監督が女性キャラクターを魅力的に描けるようになりつつあると感じる事が出来た。
冒頭から既に、これまでの作品になかった泥だらけでボロボロの出立ち、泥水を啜り、腹を下して嘔吐するというハードな描写を課している。この必死さは、スカーレットというキャラクターに興味を抱かせるに十分なフックだった。
そして、スカーレットの人生に何があったのかが語られていく。《死者の国》でのスカーレットの心情は、一見するとブレブレに感じられもするかもしれない。しかし、その奥底には常に父譲りの彼女本来の“優しさ”があり、それを“復讐心”という鎖で強引に縛り付けて行動しているからこそ、常に彼女は「どうしたらいいか分からない」という“迷い”を抱えて行動しており、それが彼女の軸の定まっていない印象に繋がっているのだ。そして、それは聖という他者に手を差し伸べる“優しさ”を持つ青年がそばに居るからこそ浮かび上がってくる。
偽善的にすら感じられる聖の優しさに対し、苛立ちを覚えて「現実を受け入れろ!“いい子ちゃん”!」と発する。しかし、聖の優しい姿は、大好きだった父・アムレットと通じるものであるはずだ。そんな相手を“いい子ちゃん”と侮蔑してしまうくらい、彼女の心は“復讐心”という鎖に囚われていたのだ。
もう一つ、細田守監督が向き合っていたのが、“キャラクターの表情”だと思う。私は、細田監督作品のアニメーションに共通してきた、「キャラクターに影を付けない」という描き方を「個性」と受け止めつつも、何処か苦手意識を持っていた。
しかし、本作では従来の2D表現に加えて、新たにCGによる3D表現も取り入れ、スカーレットや聖の回想=生者の世界は2Dで、《死者の国》での旅は3Dで表現している。その試みが全て上手くいったとは思っていないが、そうした新しい「挑戦」をした事で、特にスカーレットの表情のバリエーションが抜群に増えており、喜怒哀楽様々な表情を見せるようになった点は成功だと言えるだろう。
【「ゆるせ」という言葉の意味】
アムレットの遺した「ゆるせ」という言葉。
それは、憎き相手を“赦せ”と言っているのではなく、憎しみに囚われ、使命感で自らを縛り、誤った道を進んでしまったスカーレット自身に“自分を許せ”と言っていたのだ。最期まで娘の人生を、その幸福を願う、「親の愛」の言葉だったのだ。
私は、この真意を好意的に受け止めている。肉親の仇すら“赦せ”というのなら、それは単なる偽善だろう。しかし、「憎しみの連鎖を断ち切るのは自分自身だ」として、復讐に囚われてしまった“自分を許せ”というのなら分かる。
だから、スカーレットは決してクローディアスを赦したわけではない。「私はあなたを許せない。許せるわけがない。でも、もう止める」と語るように、彼女は「自分を解放する」為に、憎しみの連鎖を断ち切る〈決断〉を下したのだ。
スカーレットは、まだ19歳の少女である。本来、やりたい事が他にいくらでもあったはずだし、(現代的な物差しで測ってしまうが)年相応の恋すらしないで生きてきた事だろう。
だが、物語序盤でクローディアス派の人間達に騙されて負傷した際、堪らず「もう嫌だ。こんな事」と弱音を吐いてしまう程、その中身は強がっているだけの等身大の女の子なのだ。もっと言ってしまえば、クローディアスを薬で眠らせ、短剣で刺し殺そうとした時すら、躊躇いから彼に破れ去ってしまう。あれほど積んできた鍛錬も、いざ本番となると脚がすくんでしまうくらい、戦いに向いていない子なのだ。
父を殺され、圧政に苦しむ民を目の当たりにしてきた中で、「復讐すべきだ」という念に囚われ、自分を縛り付けては奮起させて訓練し、そこから抜け出せずに「どうしたらいいか分からない」という雁字搦めの状態に陥っていた少女なのだ。
本来ならば、あのまま《死者の国》で「虚無」となっていたであろう。しかし、聖の存在が、出会った善良な人々が、彼女を正しい道へと導いた。そして、通り魔から子供達を守って命を落とした聖のような犠牲者を未来で生み出さない為に、自分の時代・世界で「より良い世界」を目指すと近い、女王となって民衆を導く決意をする。
【老婆の正体とは】
度々スカーレットに肩入れする老婆。スカーレットにクローディアスが《死者の国》に居る事を告げ、彼女を奮起させ、クローディアス派の兵士達に捕まった際は、まさかの“ハナクソ爆弾”で助ける。その様子は、一見すると都合良くも映る。
しかし、この老婆が最初からスカーレットを導く事を目的として、その為に聖という青年を《死者の国》に招いていた、そもそも《死者の国》という空間すら、その為に用意された舞台だったのだとするのなら、説明は付きはする。
つまり、スカーレットの時代で彼女が女王として行う治世こそが、その後の人類史を二分するものであり、彼女の存在は「分岐点」なのだ。とすると、老婆は人智を超えた力でスカーレットを導き、争いの絶えない最悪の未来を回避しようとしていた「未来人」だったのかもしれない。
【総評】
細田守監督の最新作は、良くも悪くも完全に「人を選ぶ」作品となっているのは間違いない。また、酷評されるように失敗している点も多々ある。
しかし、それでも私は「憎しみに囚われず、自分らしさを見失わず、生きろ」と告げる監督・脚本の細田守が本作に込めた「願いと祈り」を嫌いにはなれない。
非常にストレートで、愚直にすら感じられる普遍的、悪く言えばありきたりなメッセージだが、そんなメッセージを真剣に作品に込めて世に放つ、監督の泥臭いダサさは嫌いではない。
今後、本作に関する評価は更に賛否両論が加熱していくと思うが、何だかんだで賛否両論巻き起こす細田守という作家の「個性」こそ、彼が酷評続きながらも次回作を作れる所以なのだろう。
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