クラッシュ(1996)のレビュー・感想・評価
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退廃的でありながら、なぜか悲しく美しい。
製作から25年を迎えた今年、“4K無修正版”でリバイバル公開された、デビッド・クローネンバーグ監督の「クラッシュ」は、鑑賞する前までの自分の中のモラルとは何だったのかを改めて問い、破壊してくれる異形の傑作だ。
日本で劇場公開された97年当時、20代前半でこの映画を最初に鑑賞した時の衝撃の記憶は色あせることなく、20数年ぶりに見返してみるとむしろその強度は増し、古さをまったく感じさせない。“4K無修正版”という完全体でよみがえったことによって、映画としての新たな美しさを放ったと言っていい。
カークラッシュ、飛行機の格納庫や車中での過激で倒錯的な性行為、死と隣合わせの危険な快感への目覚め、人体損壊と車体の破損への欲求と美意識という究極のフェティシズムなど、あなたはどのシーン、どの欲望に興奮するだろうか。全編8割以上のセックスシーンを楽しむのか、それとも車体や人体の痛々しい傷跡に恍惚とするのか、はたまたそういった後戻りできない世界にどこまでも堕ちていく主人公たちの姿に共感し、自分の中に眠っていた危険な欲望への扉を開くのかは、あなた次第だ。
自動車事故で障害を負い、一般にもう片輪と言われるひとですが、そのひ...
自動車事故で障害を負い、一般にもう片輪と言われるひとですが、そのひと達が故意に自動車事故を起こし、その後にその二人がもう片輪ですが、その車内でカーセックスをする話ですが、それ以前の自動車事故でケロイド状になった皮膚を愛でる場面もありましたが、inxsのボーカルのマイケルハッチェンスの死亡時の姿が彼の首と彼の男性生殖器とドアノブとがロープで繋がっていたそうで、彼のミスティファイという日本語字幕がなかったですが、そのDVDは観ましたが、そのマイケルハッチェンスが東欧に行った際の私用で、タクシー運転手の煙草のぽい捨て程度のことを注意したら逆に憤られて殴られて、受け身をとれなくて地面に頭をぶつけたのか、それ以降、嗅覚と味覚が感じなくなったそうで、それを他人が見せかけでその気持ちを分かろうと代理してもそれがその本人にしか理解できないことと思いますが、
名監督らしからぬ愚作
大昔に観て以来、久しぶりに観てみましたが、観るに堪えないチープさに言葉を失いました。
複数の女性と、取っ替え引っ替え遊んでいるほど性行為に依存した男は、自身が起こした交通事故により、不自由な体になりますが、別の性癖にも目覚めてしまいます。彼はその性癖の虜になり抜け出せなくなる、みたいな話です。
カークラッシュのシーンや、傷口などの特殊メイクの技量には驚きましたが、性行為に依存しているのなら中盤にブロンドの女性が言っていた、同性での性交には映画の終盤にようやく及びましたが、いわゆる“美女”ばかりではなく、老若男女もお構いなしにあらゆるシチュエーションで行為に及んで欲しかったです。いわゆる“容姿の劣る女性”が登場すらしない時点で、この作品が唯の男性の欲求を満たす為に作られた、駄作である事が分かります。
U-NEXTで観ましたが、下半身にボカシが掛かっているシーンがありました。あれは本当に必要な処置なのでしょうか。人間が生まれながらに持っている性器を見せてはいけない、などと言う日本のルールに甚だ疑問を感じます。
無駄にシリアスな表現、ムーディーな音楽、音量を上げても聴き取れない声など“B級映画”のフルコンボを決めています(笑)
大掛かりなマジックショーと同様、こういった官能的な映画でも苦労させられるのは女性なんですよね。
胸糞わるいだけで観る価値ありません。他の作品をどうぞ✋
過去最高に観るのがしんどかった作品
サンドラ・ブロック出演の「クラッシュ」と勘違いして観始めました
これにジェームズ・スペイダーって出てたっけ?と思ったけど、いつになってもサンドラ・ブロックは出てこずで途中で勘違いに気付きました
その時に観るのやめたら良かった…
あんな世界も実際にあるんだろうし、その世界にいる人達を否定する気持ちは全然ありません
高評価されている方が多いのもわかるような気もします
ただ登場人物全員に全く共感できず、この作品の良さを理解する感性が私にはなかったです
まぁこの作品は登場人物に共感を求める作品ではないんでしょうけど
SEXと死は
近いところにあるものだという感じは分かるが、交通事故と性は結びつかないなぁ。全編通して観て、チラッともエロチシズムを感じなかった。出演してる女優も全員エロくなかった。病的な性は好きじゃないなぁ。明るい性の方がエロく感じる趣味かも。まぁ人それぞれ趣向が違うからね。
実際に居そうな人たち
別に有名な「クラッシュ」を見たことはあったが、こちらは初見。のっけから刺激的な夫婦共に不倫映像。一気に視聴者を性的モードに突入させる勢い。BGMやカメラアングルも、常に性的な刺激を強調するかのよう。
性癖は、人それぞれかと思うが、他の人の性癖を見ていれば、移るものなのか? 人が性的に興奮するのは、禁忌を侵した時でもある。見られると興奮する人がいるように、やってはいけないことを犯すことで、興奮が生じるのでは。傷を負うこと、死に近づくことで、生へのエネルギーが生まれ、クラッシュで壁を取り除くことで、そのエネルギーを全面的に解放できる?という描き方。クラッシュがエクスタシーへのスイッチになっているかのよう。ただ、自分も頭でそういうものだろうと理解はすることはできるが、感覚的には共感できない。
その欲望を追求すれば、死にしか至らないのだが、一部の人間は最後まで追求するのかも。薬物で強烈なエクスタシーを得ようとするのと似ているように見えた。
快感より痛い方が嫌でないかい?
4K復刻が多数出てくる昨今。
当時は見れなかったブツを終活時に観れるのは幸せです。
が、原作もブッ飛んでるみたいですが
本作も拙の感覚からは100光年くらい離れている。
最後も
事故った後が良いんだよ!って
ここに快感を求められる方たちも居るでしょうが。
ワタシはないなあ~
60点
アレックスシネマ大津 20210223
【自動車事故により、タナトフィリアに目覚めてしまった男女の姿をメタリック感溢れる映像で描き出した作品。ハワード・ショアによる陰鬱で変態的な音楽も印象的な作品である。】
ー 今作は公開時に、過激な性描写で問題を醸した作品だそうだが、モザイクが掛かっているため、大してエロティックとは思わなかった。”貴方は変態ですか?””ハイ、多分そうです・・。”
それよりも、作品全体に漂う退廃感や、事故により怪我を負った足に装着された器具や、破損した車のメタリック感や、ハワード・ショアによる陰鬱で変態的な音楽の方が余程印象的な作品である。
◆感想
・ストーリーは有ってないようなものである。
一応記せば、
ジェームズ(ジェームズ・スペイダー)は、倦怠期の妻キャサリン(デボラ・カーラ・アンガー)とは互いの不倫を認めあうものの、満たされない日々を過ごしていた。
ある日、彼は正面衝突の交通事故で大怪我を負うが、同時に味わったことのない興奮、タナトフィリアを感じる。
退院後、ジェームズは事故の相手の女性ヘレン(ホリー・ハンター)と再会する。
そして、彼女とカーセックスする。
・印象的なのは、自動車事故を自らの命を懸けて再現する青白い顔の男、ヴォーンである。ジェームス・ディーンの事故死のシーンを再現する件などは、遺族から苦言はなかったのかな。
そして、ヴォーンに惹かれる自動車事故に遭ったタナトフィリアに魅入られた人々の姿。
<世の中には色んな性的嗜好の方がいるようだが、(私の知人の中で爆笑したのは、県内の有名なお茶をわざわざお茶農家に飲みに行く男である。奴はしかも経産婦の女性の方が淹れたお茶じゃないと飲まない。変態さん、いらっしゃいである。)
今作の登場人物達も相当に変わっている。
私が今作を面白く思ったのは、エロティシズムではなく自身の死に性的興奮を得る人たちの姿であり、その独特なメタリックな世界観である。
世の中には様々な変態性溢れる監督が居るが(個人的には、ポール・ヴァーホーベン)矢張りデヴィッド・クローネンバーグも相当なモノである。>
あおり運転
性描写以前に倫理観の崩壊具合の方がR指定。ドン引きする。テーマ性は分かるが、単なるこいつらのフェチで、そういうことではないだろうと、突っ込みながら見てしまう。ジェームススペーダーはある意味ハマり役ではあるが、えらいことさせられてますね。殺人未遂に公然わいせつって。
世界初のテクノロジーポルノという原作だが
1 原作の内容
映画化されたJ・G・バラードの作品は『太陽の帝国』が有名だが、本作の原作はそれとはずいぶん趣の異なるSFである。
その序文でバラードは「もはや作家は何もわかっていないのだ。モラルの根拠すらもない。作家は読者に自分の頭の中身を差し出し、想像上の選択肢とそれを選ぶ自由を提供する」と、災害小説の一種としてテクノロジーによるポルノ小説を提示したと言っている。
ここでいうテクノロジーとは高速度交通の発達を指し、その中で増大する事故や身体の損傷のほうに現実感を感じ、やがて疾走する自動車の車内や部品、損傷した身体でなければ性欲が刺激されない人々、欲望追求のために事故を生じさせ、最後には性的快感の頂点をもたらす事故死を夢見る人々が登場するという警告が、この小説で描かれている。
2 現在から見た原作の評価と読後感
発表後、半世紀近くを経た今、高速度交通はそのようなインナースペースを現出しなかったこと、むしろテクノロジーは性と欲望を光あふれる領域に拡散させ、セックスは20世紀のライトモティーフから転落したことを指摘することは簡単だ。
しかし、作家の想像力が読者に訴えかける力は、別に予言の確からしさからではなく、個々の内部に等価物を生み出せるか否かにかかっているはずだ。すると次のような記述は、読者にいかなる夢想を喚起するだろうか。
「彼女の手が右の睾丸を握りしめた。我々をとりかこむ積層プラスチックの湿った無煙炭色は、恥毛がふたつに分かれる陰門の入り口と同じ色あいだった。二人をとじこめた客室は、セックスが造りだした機械、血と精液とエンジン冷却液から生まれたホムンクルスであった。肛門に入り込んだ指が、ヴァギナに包まれたペニスの竿を探りあてた」
小生について言えば、ここから性と自動車構成素材との混同を誘われるような読書体験は、残念ながら得られなかったのである。初期バラード作品にあったような濃密な倦怠感、焦燥感、空虚感は感じられず、むしろ性的表現とそこにむりやり押し込められた工業用語による比喩の乖離を感じたのだった。したがって小生はこの原作をあまり評価できない。
3 映画としての評価
クローネンバーグは原作小説を、猥褻な部分を正面からは描けないことから若干の変更を加えたり、ヴォーンの事故死妄想をかなり省略しているほかは、まずまず忠実に映画化している。
映像としても、原作と同様、男女の裸体と自動車部品を絡み合わせるようにして、不具や工業部品、事故の廃棄物等に性欲を持つような性的倒錯感を表現しようとしていて引き込むものがある。
とくに事故で損傷した下半身の補助装具を身に着けた女性とカーセックスするシーンには、思わず見入ってしまったw
とはいえ十分な性倒錯感を伝えるにはいたらず、したがってテクノロジーの脅威も感じられないまま、結局変わったセックスをする自動車事故マニアたちの自殺願望を描いただけに終わった感が強い。原作同様、高評価するには無理があると感じた。
クローネンバーグ監督
原作がJ・G・バラード、脚本・監督がデヴィッド・クローネンバーグなので、一筋縄では行かないことは覚悟する。
車の正面衝突事故を引き起こした主人公(ジェームズ・スペイダー)、相手の運転手はなくなるが、助手席の女性(ホリー・ハンター)は命を取り留める。
この強烈な経験が体に染み付きクラッシュマニアと化すが、同じ性向の人が多いのに驚く。
究極のあおり運転だ。
自動車事故とセックス
ジェームズと妻のキャサリンが正面衝突の自動車事故を起こした。その事故で相手方の夫を亡くしたヘレンとジェームズは再会しセックス。自動車事故で性的快感を得た者たちの集会でまた事故を起こしセックス、そして・・・という話。
事故して血が流れてる時のセックスって気持ち良いのかなぁ、って思ったが、痛そうで、やってみたいとは思わなかった。
そして、この人達の世界に入りたいとも思わなかった。
男女のセックスだけじゃなく、ゲイやレズまで有り、さっぱり意味がわからない作品だった。
4K無修正版でのリバイバル公開だが、なんだかなぁ、って印象。
キカイと一つになりたい(物理)
キカイ(または金属)と一つになることに、
瞬間的なエクスタシーに似た何がある、と気がついてしまう。
それを交通事故という手段で、達成しようと試みる。
自動車に関するさまざまなことを、性的に例えることは、
ありがちで、ベタなことですよね。
けれど、上記の設定により、自動車に関する全てが、
性的行為に(無理なく)属してしまう。
人間とキカイのファックを追求している彼らは、
人間対人間では、当然満足できない。
求めるものは、決して手に入れられない。
その不完全な心のまま、似たもの同士が求め合い、
どこにも辿り着かない、という物悲しい話。
クローネンバーグしか、こんな映画は撮ることができないと思います。
とはいえ、訳がわからん、というのもごもっともで、
・運転下手すぎ
・即大事故
・無反省、無学習
というあたりを突っ込みながら観ても、楽しめるかと思います。
変態さんパワー凄い!
最初の公開の時も観たのに、こんなにエロが多めとは覚えてなかった!
有名人の事故を再現する趣味とかの方に度肝を抜かれていた模様。おまけに鑑賞するこちら側もガキでしたからね。
オープニングのメタリックなクレジットがカッコいいなー。
なんて思っていたらいきなり夫婦それぞれのエロシーン。
フェチとか変態とかは趣味が違う人にはなかなか理解できないけど、そのパワーはとにかく凄い!
ハードSMもそうなんだろうけど、命懸けだよね。
こんな原作を映像化させたKronenbourg監督ってやっぱり素敵。音楽も後のツインピークスに引き継がれた格好いい不安ミュージック。私の好みにぴったり。
車同士の追突を彷彿とさせるためか、セックスシーンの体位が側臥位のバックばっかりだったような気がするんだけどね。
予想していた程ハードでは無かった
かなりハードなシーンが連続するのかと思っていたが、想像していた程では無かった。
官能の極北を描くのであれば、もっとハードコアなセックスが必要だと思う。
車のドライビングとセックス、セックスと死が、イメージとしてリンクするのは共感し易いと思うが、衝突事故のクラッシュともなると一寸ハードルが高くなるので、もう少し丁寧に(映像と台詞の両方で)官能を徐々に炙り出し、その末にハードなクラッシュ体験が情欲をスパークさせてしまう脚本にして欲しかった。
それこそセックスにおける執拗な前戯の如く。
そういった意味では、冒頭のシーン、飛行機の流線形ボディにフェティッシュな欲望を露わにしたり、後半の方の洗車マシーンのシーンも悪くは無いのだが、もっと前半の方で、車のボディ(まだクラッシュする前の!)に対する執拗なフェティッシュなどをエロスたっぷりに表現した方が良かったと思う。
ジェームス・ディーンのポルシェの再現シーンだけでなく、もっと他にも、昔のジャガーやフェラーリなど美しい車を登場させて、より一層フェティッシュをエスカレーションさせて欲しかった。
クローネンバーグは凡庸と思ったのかもしれないが、そういう分かりやすさは、とても重要だと思う。
凡庸と言えば、音楽が如何にも90年代の映画にありがちなスコアで、こういうのは凡庸だと本当に駄目。例えば、60年代のホロヴィッツのカーネギーホールの悪魔的な演奏を唐突にインサートするとか、もっと工夫がないと。
しかし、アメリカ人がフロイト好きなのは前々から分かってはいたが、ここまで極端にリビドーを展開させてしまうと、あまりのバカっぽさに何度も失笑してしまった。
どうせなら、もっとブラックユーモアを炸裂させた方が(特にロザンナ・アークエット登場シーンなどで)面白くなった気もするが、どうにもこうにもピューリタンなお国柄の所為なのか、潔癖というか、真面目というか、ヘヴィなテーマに対するユーモアが足りない気がする。
あとラストは、冒頭の方の流れから行くと、まあ、ああなるしかないのかな。
まだ原作は読んでないが、たぶんラストは違うと思うので、早速読んでみたい。
クローネンバーグ流フロイト論
まず、見終わって非常にホッとした。怖いシーンも気持ち悪いシーンも無かったからだ。ホラー映画愛好家以外の幅広い層にも間口を広げておいてくれたらしい。
また、ポルノグラフィーとは違い、観客のセクシャリティーを刺激するようなシーンも無い。共感しにくいように演出されていると思う。
それによって銀幕は「人間の慾動を観察・分析する為の実験室」と化す。観客は、スクリーンというマジックミラーを通して、被験者達の行動や反応を観察出来るのだ。
本作を視聴するにあたっては、フロイトの「快感(快楽)原則の彼岸」を一読しておくのがお勧めだ。(本作に共感してしまった人も、サディズム・マゾヒズムの節にて納得&安心出来ると思う。)
フロイトは、人間の精神活動の大半は快感原則に従っているとみなした。快感原則とは苦痛を回避して、少しでも快の感情を求めようとすることをいう。
しかし、第一次対戦後、反復強迫に悩む患者を多数診察する事によって「人間には不快極まりないとわかっていることへ敢えて向かう執拗な傾向がある」という事を発見し愕然とする。
フロイトはこれを「死の慾動(タナトス)」と呼んだ。生命以前の、無生物の状態を回復しようとする慾動だ。
それに対して、生命体を保存し、より大きく統合しようというのが「生の慾動(エロス)」だ。
また「性慾動(リビドー)」はエロスに属す強いエネルギーだ。リビドーは他の欲求に変換可能である。
例えば露出慾が自我によって社会的に問題ない形に中和すると名誉欲に変換されて大きな仕事を成し遂げる事もある。支配慾が己自身に向かうと厳格な自己抑制となって優れた倫理観を獲得出来たりもする。
芸術や科学など文化的活動はリビドーが自我によって防衛され変形したものだ。とすれば人の多彩な活動の根源的エネルギーは性慾動だと言える。
(後にユングは、リビドーを「すべての本能エネルギー」の事とした。)
我々の五感は特定の刺激作用を受容するが、過剰な量の刺激に対してはその一部のみしか取り込まないようにして精神を守る防衛機能もある。
この防衛機能があまりに強力な刺激によって破られると精神はみずからが崩壊することを防ぐため、全力で刺激を食い止めようとエネルギー(=リビドー)を備給する。
本作では、自動車での危険走行により精神が生(エロス)と死(タナトス)の境界線に限りなく近づく可能性を描いている。
交通事故という許容限度を超えた不快により、精神は崩壊を防ぐために強い性慾動を発生させる。エロスやリビドーは緊張状態を生むが、この緊張が解除される時に非常に大きな快をもたらす。その大きな快に向かう為に敢えて強烈な不快を選択する精神の状態こそ「反復強迫」であろう。
生の慾動は「他との融合」を求める。
精神的崩壊を招くほどの過剰な刺激であれば肉体自体の性別など問題にならぬであろうし、更に無機物との融合ならばエロスとタナトス融合の境界線へ迫る強烈なリビドーが備給されるであろう。
そして反復強迫が快感原則に勝るのはタナトスがエロスより更に根源的だからだとの仮説が導かれる。
ラストシーンはチベット密教の合体仏や歓喜仏のイメージが重なった。シャクティと呼ばれる力もリビドーと同一か近いものを表しているのかもしれない。
ここまで反復強迫に迫った作品は、本作を除けば「禁じられた遊び」くらいであろう。本作と対象的に純粋無垢な子供達が主役である事も興味深い。
平和な世の中であれば、許されざる危険行為である暴走事故に匹敵する精神状態が「日常」になってしまうのが「戦争」だ。
本作「クラッシュ」に不快感を覚えるならば、決して再び戦争を起こしてはならない。
「愛のロマンス」の美しく物悲しいクラシックギターソロと、ハワードショアのこれまた美しくも不気味さを孕んだエレキギターアンサンブル&金属系パーカッションも好対象である。
【エスカレートする倒錯世界】
公開当時は性的表現などが問題視され、それを観たくて映画館に足を運んだのを思い出した。
今、改めて観てみて、別の意味で問題…というか、これを撮るのは難しいだろうなと思う。
(以下ネタバレ)
理由は、自動車事故を通してエスカレートしていく倒錯世界の延長線上に、事故で障害を負った人の性的欲求や、同性愛が描かれているからだ。
エクスタシーの無くなったジェームズとキャサリン夫婦のセックス。
お互い公認での別の相手とのセックス。
自動車事故を通じて感じた興奮。
ジェームズ自らの事故で亡くなった相手の妻ヘレンとのセックス。
有名人の事故死の再現による興奮。
多重事故による重症者や死者を目の当たりにして得られる興奮。
交通事故で障害者となったガブリエルとのセックスやレズ行為。
そして、事故を再現するヴォーンとのホモ行為が中途半端に終わり、ヴォーンもジェームズも自動車事故をエスカレートさせる試みを身近な人に向けていくが…。
エンディング、ジェームズがキャサリンに繰り返し言う、
「次はきっと…。」
「次はきっと…。」
何を意味しているのだろうか。
こうした行為はもしかしたら、精神疾患のひとつとされるパラフィリア(性的倒錯)の中の病的サディズムやマゾヒズムなのかもしれない。
これは、所謂、SMクラブでの女王様遊びや、サックスの時に縛ったりする行為と区別して分類されるものらしい。
この作品は、こうした現代ならではの病理にフォーカスしたものなのだろうか。
「次はきっと…」
僕は、止まることのない僕達の世界の欲求も皮肉っているように感じる。
「次はきっと…」
もう、僕達の世界は病的と呼べる段階にあって、真剣に治療しないと取り返しがつかないのかもしれない。
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