「過渡期の想像力の現代的な意味について」光る川 文字読みさんの映画レビュー(感想・評価)
過渡期の想像力の現代的な意味について
2024年。金子雅和監督。1958年の岐阜県長良川の上流域。さびれゆく集落の再生のために、人々は神聖な山を切り開こうとしている。しかし、そこにある青い池には古くからの言い伝えがあった。紙芝居でそれを知った少年はその物語にのめり込んでいき、という話。
1950年代はある意味現代社会とはいえ、田舎では言い伝えがリアリティをもっているという前提がある(日本はまだ第一次産業従事者が多数だったはず)。青い池の悲劇やそれを元にした伝説はまだ生きている(祖母の世界)。しかし、近代的な懐疑もお金儲けのために仕方がないという資本主義優先の思考も一般化している(父の世界)。そのうえで、少年はフィクションを通して、フィクションを信じる力を梃子にして、伝説の世界へ飛び込んでいくことで、現実の世界を変えていく。この全体が1950年代という過渡期の物語だ。
2025年の現在、そもそも言い伝えがリアリティをもって受け入れられる素地はない。だから、それへの懐疑もないし、資本主義的思考は当たり前すぎて取り上げられることさえない。この世界では、劇中の少年のように、フィクションを信じる力を梃子にするだけでは伝説の世界に飛び込んでいくことはできないし、現実の世界を変えることはできない。では、この映画はなにをしているのか。
グローバルな価値観が隅々までいきわたった現代社会における文化相対主義的な抵抗、とひとまずはいえそうだ。文化相対主義が持っているアイデンティティ政治の危うさも含めて。相対化の度合いが増えると普遍化の度合いが減る。この映画では「愛」が普遍的なものとして追及されていないのもそのせいかもしれない。
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