「人間は本当に自由なのか?」蜘蛛巣城 neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)
人間は本当に自由なのか?
黒澤明は『七人の侍』で「理想の秩序」を描いた。だが本作『蜘蛛巣城』では、人間が「選択」を通じて自らを崩壊へと追い込んでいく過程を描き出している。
霧の荒野にそびえる蜘蛛巣城。三船敏郎演じる武将・鷲津は、森で出会ったあやかしから「城主になる運命」を告げられる。しかしこの予言は、未来を決定する予言ではなく、「道を誤らせる甘い囁き」にすぎない。そして背後では、妻・浅茅(山田五十鈴)の冷徹な誘導が、鷲津の背中を押していく。こうして鷲津は、主君を討ち、城を手に入れる──そこから破滅へと転がり始める歯車を自らの手で回していく。
主君殺しという最初の選択によって、以後の選択肢は次々に狭まっていく。親友・三木の処刑。その実行役となった部下の粛清。猜疑心は加速度的に膨れ上がり、自己正当化の繰り返しが「もうこれしかない」という心理状態を生み出す。自らを省みる心(ネガティブ・フィードバック)は消え、猜疑と支配への依存(ポジティブ・フィードバック)だけが肥大化していく。
やがて鷲津は、恐怖と猜疑でしか統治できなくなる。その果てに、予言された「森が動く」現象(部下たちにとっては敵軍の襲来であるのだが)が現実となり、恐怖で硬直した部下たちの裏切りによって、矢の雨に倒れる。
本作では登場人物が極端に絞られている。鷲津の孤独を浮き彫りにする狙いもあるだろうが、志村喬や千秋実を除けば、黒澤映画の常連たちはほとんど登場しない。その代わり、霧、森、鳥、矢といった自然の象徴が、鷲津の内面と運命を語り続ける。
森:迷路のように出口が見えない選択の混迷
霧:判断力の曇り、先が見えない混沌(クラウゼヴィッツの「戦場の霧」)
鳥:破滅の予感(察知されながらも意図的に無視される危機信号)
矢:猜疑心の暴走が最後に己を貫く「粛清の刃」
三船敏郎の鷲津像は、彼が一貫して体現してきた「正義・信義・誠実さ」を裏切る役柄となった。そこに生まれるのは、黒澤映画では珍しい堕落の美・破滅の美である。
黒澤はここで「独裁者の自壊モデル」を実験的に構築している。勝つために支配を強め、猜疑を重ね、純度を高めれば高めるほど、逆に統御は失われていく。まさに「完全なる支配は死をもたらす」構造そのものである。そこには戦後日本の混乱や、黒澤自身の共産主義・スターリン体制への複雑な感情も重ねられている。
黒澤はカオスを描こうとした。しかし彼の職人的な統御志向ゆえに、それは「コントロールされたカオス」に留まってしまう。ここに黒澤の限界と誠実さが同時に表れている。
人は自由に選んでいるつもりでも、選択が次の選択を呼び、猜疑心が猜疑心を増幅し、閉じていくカスケードの果てに袋小路に追い込まれていく。『蜘蛛巣城』は、選択・因果律・破滅を描いた、黒澤明の思索と造形美が極限まで研ぎ澄まされた傑作だ。
4K UHD Blu-rayで鑑賞
94点