「難解なのか厄介なのか?」あるいは、ユートピア R41さんの映画レビュー(感想・評価)
難解なのか厄介なのか?
タイトルと最後のシーンは、この作品そのものを表現している。
しかし、これはかなり厄介な作品かもしれない。
そもそも難解なのかそうでないのかの判断が難しく、仮に難解でない場合、この作品は作品としての価値を著しく失うように思う。
物語の描写がそれそのものである場合でも表面には何らかのモチーフがある。
特殊なモチーフは見る人の興味を誘うのにもってこいだ。
特殊なモチーフには歴代順位の様なものがあって、似たモチーフの登場で比較対象にされる。
しかしテーマを変えることで作品は全く別の表現となる。
この作品から想像するモチーフは「ミスト」に似ているが、「アレ」と表現される巨大生物の様態は、主人公マキの不思議な幻想の中に出てくるダイオウグソクムシのようなものだけしかいない。それそのものは登場しない。
そしてすべてが、ホテルの中で完結される。
隔離された状況
さて、
冒頭から人々は二分される。
「出来事」が発生したために逃げる人と、そうではない人
この「そうではない人」の理由がクローズアップされる。
それは、死にたいわけではないが、生きたいとも思わないこと。
この作品のテーマの一つだ。
この一般的ではない人々が12人いた。
彼らにはそれぞれ特徴があり、
ホテルの会長と支配人
作家
女優とマネージャー
不倫
家族に捨てられた男
自殺サークルの3名
自衛官
それぞれにそれぞれ事情がある。
この中で最も心の闇が深いのは、不倫の女性ヤナギ 「赦し」で怪演した松浦りょうさんだ。
彼女の人生の逃亡がどこから始まったのかは不明だが、物語から鑑み「流される」自身に対する減滅感があるのだろう。
彼女もまた、人間というものの一側面を表現している。
しかし不倫相手の執拗な脱出劇を最後は拒み、逃げ帰ってカギをした。
その事がミヨシを殺してしまうことになる。
自己憐憫のループにハマった彼女は自殺場で自殺しようとするが、山本に止められてしまう。
彼女はこれで山本とカップルになってしまう。
流されつつも、自分を心配してくれる山本に寄り添うことで自分を保つことができていた。
最後のシーンはどう見ても「最後の晩餐」だ。
この読み解きは難しい。
イエスを含めた13人の絵画
それに呼応する10人
そもそも作中にイエスは存在しない。
2名は死んだ。
最後だから単に構図をそうしたかっただけなのだろうか? それ以外何もわからない。
救助と同時に起きる笑いは、ここがユートピアでも構わなかったのに、現実に戻されるというジョーク、またはブラックジョークに対する笑い。
これ以上耐え切れなくなったヤナギが自殺した。
マキは自衛隊に向かって拳銃の引き金を引くが、弾欠。
マキユウイチロウ
最後に自分の正体がバレてしまう人物。
彼は作家になりたかっただけの人物
「何かになりたくて、何にもなれなくて」
これは多くの人の言葉を代弁しているセリフだと思う。
平山の自殺と遺書「意味はない。亡骸は喰わせろ」
プロットでは平山はマキの正体を知ったことでそうした事になっているが、この世界のすべてに「意味はない」と言いたかったのかなと思う。
つまり、人間が勝手に意味付けしているに過ぎないことが、実は「理」なのではないかと問題定義したのかもしれない。
仮にそうであれば、これこそが監督が言いたかったことなのだろう。
ここを掘ると奥が深くなり、つまり何でもよくて、何でもそれで説明できてしまう。
このマキ、彼が提案した三原則の一つである非暴力
あの感情の剥き出しはユートピアを脅かす存在に向けた行為だろう。
彼はなりたかった作家に、この場所ではなれたと思っていた。
それを破壊されたことに対する怒り。
さて、
この作品で最も不可解なこと。
なぜ、マネージャーの交換した枕の中に「本」など入っていたのだろう?
この不可思議な話からマキの正体がバレていく。
当然マキの自作自演ではないし、誰一人マキの正体を知っていた者はいない。
会長だけがそれを知っていたと思われる。
会長が自殺前にリネン室に仕込んだ可能性はあるだろう。
でも死ぬのにこの勿体ぶったやり方は必要だったのか?
この時の皆のセリフが取って付けた感があるので、単に物語を進めるためでしかなかったと考えられるが、そうであればこの作品を深掘りする価値も半減する。
最後に皆強制退去させられるところでエンドロール。
自分たちで作ったユートピア
それにはかつて日常だった常識とは少し違うものの考え方があった。
自分たちが住みやすいように作った三原則
その均衡を破った自殺
その真意を巡って起きた疑心暗鬼
しかし誤解が解けて調和を取り戻す。
だが結局は外部からの侵攻を受け、他人の価値観というディストピアを受け入れるしかなくなる。
この他人と生じる価値観の相違問題は、少数であれば解決可能だが、大人数ではほぼ不可能だろう。
そこで折り合いをつけるしかないのが、現代社会だということを、監督は言いたかったのかな???
しかし、もしかしたら、
これこそがマキの書いた小説そのものだったのかもしれない。
時折挿入される暗いシーンは、彼の心の中の蠢きを描いているのかもしれない。
人は皆訳アリで、誰にでも「私=マキ」と同じ部分がある。
本人が主人公になる彼の小説
彼は自分の正体がバレることを想定している。
また設定のいくつかは不可解で、それが追及されることもない。
自衛官の設定は特に変だ。
なぜ彼はホテルに残ったのか?
隠れた理由 いじめとトラウマ 暇なときに起きること それが答えでも変
無線での救助 あれは自衛隊の無線ではなく防災無線
それを知らないはずはない自衛官の山本
最後に来た自衛隊員の中にいた白人 アメリカ軍が来たのかと思ったら自衛隊だった。
しかしなぜか山本の表情がクローズアップされず、ヤナギの自殺が起きる。
同時に起きている風景の描写ができない。
売れない小説 下手な設定
これこそがこの作品が表現した物語なのかもしれない。