どうすればよかったか?のレビュー・感想・評価
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監督と同じ立場の者として敬意を表します
統合失調症になった監督の姉と、姉に治療を受けさせず家に閉じ込めた両親を20年にわたって記録したドキュメンタリー。
成績優秀だった姉は両親と同じく医者を志すが、医師国家試験を受ける過程で統合失調症を発症、支離滅裂な言動や暴言を繰り返すようになり、占いや謎の学会の活動に傾倒していく。
未だ姉は優秀だと信じ試験を受けさせ続ける父親、互いに責任を押し付け合い姉の病気に向き合わない両親、深入りしてこない親戚、そして、どうにかしたいと願いつつも発言権はなく、自分の人生を前に進めることを優先する弟。
両親が老いて姉の世話ができなくなってからようやく父は弟の意見を受け入れ、姉は治療を受けることになった。しかし母親は認知症になって亡くなり、姉も癌を発症、統合失調症も完治することのないまま父より先にこの世を去る。
残った父親に、弟は20年の記録を作品として公開する考えを伝え、姉に治療を受けさせなかったのはなぜか、そこには恥があったのではないか、そしてどうすればよかったか?と問いかける。父は公開をあっさり了承し、しかし最後まで真剣に向き合うことはなかったように見える。
どうすればよかったか?この問いは両親だけでなく、自分の人生を進める上でこの題材で映画を撮ることを避けて通れなかったという監督自身にも向けられている。
監督と似たような立場を経験した者としては感情移入するところが多すぎてあまりに胸が苦しくなるばかりで、映画やドキュメンタリーとしての質がどうなのかは分からない。でも似た経験がある方にとっては自分の状況を客観視したり整理したりするまたとないきっかけになると思う。これを記録し世に出した監督の決断に敬意を表したい。
観客には監督と同世代と思われる5〜60代の方が多かった。啜り泣いている方も数人。私のような30代やもっと若い世代なら精神疾患への理解も高まっているのだろうが、上の世代は苦しんでいる方が特に多いのだと思った。
どうすればよかったのか?答えよう!原一男監督に撮らせれば良かったんだと思うYO!
宣伝で、統合失調症を患った姉を入院させずに自宅に監禁したという、おぞましい予告編でインパクト充分のこの作品。原一男が監督していれば、名作になっていた筈なのだがー?!
さぞかし、患った姉が暴れるサマを身内にしか撮れないカメラワークで地獄絵図が繰り広げられるに違いない!と、ワクワクしながら、鑑賞していたが、特に監禁されていなく、お母ちゃんが入院で留守の時は、朝食を作っちゃったりする...?
愛のエプロンのインリンの手料理のような、シロモノを期待していたら、おかずが少ないだけで、ふつーの朝飯だった。どんどん、悲惨な料理になる展開を期待していたら、料理は一回だけで終了。
ならば、動いている姉を執拗にカメラは追ったりはせずに、通院の約束をしたが、断り状を書いて通院を拒否するも、その文章は画面には映らない。意外に達筆だったら笑えるのに何故、文章を映さないのか?
両親にインタビューをするも、何故、姉を病院に入院させずに、自宅に軟禁するのかを問い詰める事はせずに、両親から、
貴方の映画は面白そうだねぇー。
と、言わせる。まぁ、親は息子の習い事をdisる事はあんめぇよ?
統合失調症に罹った実の姉を題材にドキュメンタリーを撮るという鬼畜としか思えない企画を思いつくわりには、執拗にカメラで姉を追いかけたりしない。
冒頭から一時間経って、ようやく姉がキレて来客をdisって、自分の部屋に入っても、喚いているが、カメラは姉を追わず、見ざる、関わらず。ミザリー、言わざりー、聞きざりー。
今年は自分の作品が原因で、国から矢をもて追われる監督がいたが、この作品には表現者としての覚悟を全く感じない。ヌルい仕事してんじゃねーよ!?
この映画を見る時間で、悪い夏を見た方が良いです。悪い夏のラストのあのシーンは、アノーラの後半なみに面白かとです。近々、レビューをうPするから、待つがよい!!
初めてドキュメンタリー作品を「おもしろい」と思えました
もちろん「興味深い」の方です。
自分はドキュメンタリー映画を集中力を絶やさず観るのが難しいタイプだと思っていたのですが、初めて最後まで惹き込まれて鑑賞することができました。
姉の病気を認めてこなかった母親の認知症と死別から、展開が怒涛でした。
そこまで弟の言葉にはフリーズし続けていた姉が、母の監視がなくなったことで投薬治療を受け、普通の人のように返事を返した瞬間、映画館で息をのみ声を出してしまいそうなほどのインパクトがありました。
完治には至らずともそれまでの意思の疎通が困難だった様子が一変し、弟と会話し、柔らかい表情をするようになり、自炊までしてしまう様子に、現代技術の進歩を感じると共に「どうしてもっとはやくこう出来なかったのか」と思わざるを得ません。
そこから父親が倒れ姉も癌を患いますが、季節行事と共に増える車椅子や介護用品に人生の終盤のリアルを淡々と撮影している姿が平穏でありつつも晩年の哀愁に溢れていました。
姉が亡くなり、父との最後の対談シーン。
「姉が病で苦しむよりも母親の気持ちを守ることを優先したのか」という問いかけに「そうだった」と頷いた父親の姿には、妻への深い愛情があったように私は受け取りました。学者夫婦として二人ともプライドが高く頑固で、神経質で。世界中渡り歩いたというお話のシーンで、子供の安全を守るためには日本で過ごすべきではないかという疑念が過ぎったのですが、この夫婦はなによりもお互いの気持ちと研究への情熱を追い求めてしまう気質だったのかもしれないと、この対談の様子で妙に納得しました。
父親に罪の意識はあったでしょう。後悔もあったでしょう。しかし、妻のために妻と共に選んだ選択を「良くないことだった」と言ってしまえば、妻のこともこれまでの自分の人生も否定してしまうことになったのではないでしょうか。
撮影者の問いかけの言葉には僅かに棘があり、「後悔している」という言葉を求めているような雰囲気がありました。私がそれを期待したからそう感じたのかもしれませんが。しかし父親から期待した言葉はなかった。もしもここで父親から懺悔の言葉があったなら、この映画は他の構成で作られたのかもしれないなと思うほど、短いながらにとても良いクライマックスでした。
撮影者的には、懺悔の言葉が欲しかったようにも思いましたが。でなければ「どうすればよかったのか?」なんて題名にはならなかったでしょう。
身内の姿を晒すのは非常に痛みのある行為なはずなのに、作品への昇華の仕方がとても真摯で公平で、まさに「考えさせられる」という作品になりました。この映画のことは、きっとこの先も忘れることが出来ないでしょう。
近年発生したすすきのホテル殺人事件で、犯人は精神疾患を患った女性で、その両親は娘のために病を否定してはいけないのだと、その残虐性にブレーキをかけてやることができなくなっていたそうです。父親は精神科医だったそうです。
専門医でさえ身内の精神疾患、とりわけ溺愛していた存在に対する判断をうまくやりきれないのですから、「すぐに病院へつれていき治療を継続させる」という選択を取れない人は本当に取れない場合があるのでしょう。この作品のご両親がこの選択を迫られた当時は社会風潮的に尚更です。
どうすればよかったのか。その問を過去に投げても仕方がありません。
ひとまずは困難を抱えている様子のある隣人を見つけた際は通院を躊躇無く勧めるしかないでしょう。
通院先の相性はあれど、うまく合致出来さえすれば症状が目に見えて改善する可能性があります。
家族の顛末には哀愁を感じずにいられませんが、私は彼女が弟にした返事に、大きな希望を見た気がしました。きっと何かをするのは、後からでも遅くないのです。
両親の判断が正解!? 社会的議論を巻き起こす2024年最大のドキュメンタリー!
衝撃のあまり、映画館で観たあとしばらく立ち上がれなかった。
まるで統合失調症者を持つ家族の一生分の苦悩と絶望をそのまま丸ごと突き付けられたような映像で、どうにも言葉にならない放心状態に襲われた。
加えて、映画終了後の監督サイン会では「よくぞ映像にしてくださいました」と感謝を述べる当事者家族であろう人々の行列が…。いかに同じような悩みを抱える家族が世の中に多いのかと思い知らされた。
あと、どうすればよかったか?の回答として、驚くべきは「強引な介入をせず、軟禁にとどめた両親の判断が正解」とする精神医療の専門家たちの指摘である。当時の日本の精神医療の問題点を鑑みれば、病院に行っていたら、長期入院でお姉さんの人格は荒廃化していただろうと。
え?ってことは、あの理不尽きわまりないと思って観ていた両親の対応は、考え抜いた末のお姉さんへの愛情だったってこと?
いや~、ムズイ。このドキュメンタリー、すごすぎです。
どうすればよかったのか
現在、どうすればいいか悩んでいる自分にとって、落ち込んでしまう映画。姉は結局、統合失調症を発症後、病院にかかることなく、やっと病院にかかって回復した後、肺がんで死んでしまう。親が病院にかからせなかった理由は、父親によると、母親は、娘が統合失調症ということを極端に嫌ったことにあるといい、母親によると、父親が自分の教え子にみせたら全く問題ない、「父親の壁」を破らなければならないとして父親が原因といっている。どっちが本当かはわからないが、おそらくどちらもほぼ正しいのだろう。見栄、自分自身の自尊心、何より娘のためを思って、精神病院にいれたくなかったという点で、どちらも一致していたのだろう。結局娘の人生はめちゃめちゃになってしまった。
父親も母親も、自分に自信があるのだろう、話し方は論理的でも他者の意見をききいれない態度は同じ。母親は、弟が、姉に話しかけているのに、姉の言葉をがまんしきれず、先回りして嘴をいれてしまう。典型的な過保護親である。
医学部(北大か?)に入るのに4浪したという点、医師国家試験?を受けてもらいたかった?という点も見過ごせない。(監督も北大であり、相当の高学歴家族)親の期待に子がつぶれてしまったのか。やはり、親が過保護だとろくなことがない。
じゃあ自分はどうしたらいいのか。今なら病院に行く一択であるというような意見があるがそんなに単純なものでもない。場面は異なるが介護殺も同じ。親は自分が何とかしなければならないと非常に頑張る。第三者からみれば、病院、施設にまかせればいいのにと思うが、まじめな親(自分に自信があるので頑固)ほどそれを聞き入れない。この作品の親も非常にまじめ。娘が妄想でおかしくなっていても、お正月やクリスマスにはきちんとごちそうを用意してお祝いをしている。
頑張った結果、本人もろとも貴重な人生を無駄に費やし、ひどい場合には殺してしまう。頑張った故に父親は最後まで、自分が失敗したとは思っていない。
監督はこの作品で親を糾弾しようとは思っていない。親が娘のために頑張ったことは監督が一番よくわかっている。当事者にとっては、どうしようもないという側面がある。だからこそ、「どうすればよかったのか」というタイトルなのだと思う。
腰がしっかりと据った力強いドキュメンタリー映画
ポレポレ東中野で単館上映して以来、かなり話題になってきて、年末から上映館も増え、3ヶ月近いロングランになっている。今日も満員でした。まだまだ上映は続きそう。
私も観るか観ないか、ずっと迷っていたのだけれど、やっと観に行きました。
余分だな、と思う映像もあるが、それも含めて30年以上の家族の苦悩が浮き彫りになっている。
凄いと思ったのは撮影時にほぼ100歳の父親が、一連の出来事について記憶を保っていたこと、そしてかなり鮮明な理性で話をしていたこと。その上で、息子の監督がインタビューで妥協せずに本音で迫っていたことも凄みを感じました。
腰がしっかりと据った力強いドキュメンタリー映画だと思います。
ファミリーヒストリー
衝撃を受けた!
重い、けれど心に刺さる。
どうすれば、、とともに原因は何かが頭を巡った、大体分かるけれど。
けれども、どうしようもなかったか、、
ひたすらお姉さんが可哀想、両親は気の毒。
どうなるのか、観ていてずっとドキドキしていた。
〝合う薬〟があって良かった!
お姉さんの表情が劇的に変わった。
監督の弟さん偉い!よく撮り続けてくれた。
子供時代、お姉さんからもらった愛が映画制作のパワーになったのだろうな。
お姉さんを助けたいって。
それにしても時の流れは残酷、みんな、歳を取った。
お姉さんの最後の安らかな顔に救われる。
〝どうすればよかったか?〟秀逸なタイトル。
これはNHKのとは違う、もうひとつの〝ファミリーヒストリー〟だ。
タイトルなし(ネタバレ)
初めに、このレビューを書くにあたっても、映画の冒頭で出てきた誰かを責めるということはここでもしないようにしたい。
だが、あんなに口を真一文字にした険しい表情しかしなかったお姉さんが、お母さんが認知症になったことでお姉さんが病院へ入院し退院すると、料理をし始めたり、カメラにピースで笑顔を向けるようになった姿を見ると、どうしても適切な治療は必要に感じてしまう。
そのためにも、家族の理解はもちろん、家族が安心して治療させられる医療機関の整備も、今の社会では必要に感じる。
この映画でより、精神医学についての関心や理解が広まっていくことを望みたい。
タイトルなし(ネタバレ)
鑑賞して一日経ち,あの家庭においては最大限の結果だったのでは?と思えてきました.
近年は「親ガチャ」という表現がありますが,まさに最悪の親たちで,あの話しぶりを聴いていると知性や愛情など微塵も感じられず,非論理的な見栄や保身や責任転嫁ばかり感じイラつきながら観ておりました.科学から最も遠い思考体系ではないか!と.
しかし弟(監督)は膠着した状況にもかかわらず,姉への愛情を持ち,粘り強くできることを成し遂げました.私などにはとてもできません.
寛解とは言えずとも姉が食事の支度をしたり弟に手を振る姿が見れるとは...
「どうすればよかったか?」との問いには,あれ以上できることなどなかったでしょうと.
弟が為したことに対し反論も対案も誰にもできないと思います.
私はこの映画を,姉へのレクイエム,そして両親への復讐,と捉えました.
ところで晩年の母親は認知症ではなく統合失調症ではなかったのでしょうか?
最近では精神疾患が腸内細菌叢と深く関わっていることが明らかになっています.
腸内細菌叢は母親から子供に受け継がれます.
「最後に聞きたいんだけど、もし機会があるならどうすれば一番よかったと思う?」
父と、母と、統合失調症を患った8歳上の姉と、弟(監督藤野知明)。弟は、早い段階で姉の異変に気付いているし、両親が姉の障害になっていることにも絶望し、この現実を記録していずれ将来は映像化することを決意している。そのくらいしか、自身が姉にしてあげられることがないと察している。なら無理してでも病院に、と他人が言うのは容易いだろう。無理だったと思う。こんな世間体を気にする両親に抵抗するのは。そしてどんどんドツボにハマっていく家族。悲劇的でいたたまれない。せめて、現実を受け止める冷静さと判断力を持った弟がいたことが、この家族のストッパーであったと思う。おそらく、弟という常識の存在が、残りの家族の崩壊を食い止めていたのだろう。父は、見栄(カメラの前でいつもお気に入りのシャツを着ているのがその表れだ)や体裁(娘を外に出そうとしない)で凝り固められ、母は、旦那の意見に異を唱えることさえせず、娘の尊厳を無視していることに気づかない。娘は、心と体が一体じゃない自分を自分自身ではどうしようもないジレンマを抱え、自分自身をコントロールする術さえ知らず、おそらく自分が何者かさえも分からなくなっている。警戒、妄想からくる発狂と無表情。これがわが身、我が家族であったらどれほど困難な人生を送ることだろう。
最後に弟は、この記録を映画にすることの承諾を父に訊ねる。
「最後に聞きたいんだけど、もし機会があるならどうすれば一番よかったと思う?」
父は答える。
「失敗したとは思っていないね」
その言葉を聞いた時に僕は、怒りを覚えた。だからと言って今さら何もできない(他人だからなおさらそうだが)無力さに打ちのめされた。
終映後、公開後ずいぶん経っているのに半分を超える席が埋められた劇場は、だれも言葉を発することなく無言だった。
ちゃんと「映画」だ
個人の雑感です。話題になり近所の映画館でも上映されることになり、久々にシアターでの鑑賞。平日昼間、スクリーン3キャパ60程度で8割ほどの入。かなり壮絶な映画なんだろうと身構えるが、前半は想像以上に淡々と何事もない家族の風景が進む。
必要最低限のナレーションはいあるものの、ドキュメンタリーにありがちな余計な説明がなく、お父さんの喋る言葉も聞き取れないのだが、不思議と退屈ではなく、緊張感もあり引き込まれる。お父さんの家はすっごい金もちだな、とか、お姉さんとても美人だな、髪の毛がクシャクシャで若いときの戸川純みたいだなぁ、とか思いながらじっと見る。還暦でもまだ美人。普通に世に出てればさぞモテただろうなぁ。
投薬であっさり症状は改善するのだが不思議と「ほらだから早く見せてればよかったのに」という感情にはならず、全てがこれはこれで良かったのかもとさえ思えてくる。葬式のシーンではこらえきれず号泣、周りの人たちも泣いてた。そしてエンディングロール後の車内からのお姉さんの手を振る姿でまた号泣。一度も退屈しなかった。これは日曜の昼テレビでやってるようなドキュメントではなくちゃんと「映画」になっている。(面白かった〜)っていう感想ではないが、久々に心が何かで満たされた。
愛情深く、一見、家庭が安定している
愛情があるから父も母も娘を守っているし、大事に関わっていると思う。弟も父と母から大切にされてるから大学も留年できているし、恵まれた家庭環境で、虐待される家庭とは全然違う。支援対象とならなかったから、他者の介入が無かった。
弟も親に甘えている。でもお姉ちゃんを普通にしたいとの気持ちもある。お父さんもお母さんも子供を大切に育てていたドキュメンタリーだと思う。子育てを否定するのは他者なのか?子育ての結果は誰が感じるもの?子供本人と思う。病気の理解につながるので医療系の学生さん達には見てほしい。この両親は子供達2人を大事に思っているのは間違いない。
考えさせられる
場末の映画館でノスタルジーに浸りながら観始めたが、最初から強烈で心がザワザワして、とても落ち着かない気分でした。
100人に1人と言われる統合失調症ですが、まさこさんに症状があらわれた時に精神科で然るべき対応をしていれば、人生の空白はなかったのにと両親のどちらが主導した結果なのか考えながら観てました。
最初は頑なな母親に怒りが沸きましたが、告別式での父親のスピーチにありがちな家庭環境が透けて見えて、これは共犯なんだなと思いました。
家庭の中で子供は大人になっても意見を受け入れられにくい、それはまだ大人の実績がないからか、子供の面影をそこに見るのか。
エンディングの後の映像で、外で待っているまさこさんがピースをした後に丸を手で形取った姿で我慢できず大号泣でした。
まさこさんが治療を受けていたらと悔しい思いが止まらないです。
最後に、カメラを向けられたまさこさんがモデルみたいなポーズをした時、とても可愛くて素敵だと思いました。
あえて酷い親であったと言いたい
監督の藤野知明氏は1966年生まれ。
お姉さんはぼほ私と同じ年齢だと思う。
時代背景を考えると両親の姉に行なったこと、行なわなかったことは同情できる、というのが優しい態度なのだろう。
しかし、
統合失調症と呼び名が変わったのは2002年。
知らなかったとは言わせない。
私は同時期に地方都市に生きたものとして、時代の空気のせいにはしたくない。
父親は最後の最後まで、25年の過ちを母のせいにし、あまつさえ「娘の人生は充実していた」と正統化をはかる。
監督の親に対する怒りは、親の姉に対する態度のみならず、自分自身への親のあり方に対しても向けられていると抑制的なインタビューの端々から感じられた。
皆、それぞれに辛い想いを抱えて来たのだ、無理もないことだ、というのは簡単だ。
しかし娘を医療につなげなかった責任は両親にあるとあえて言いたい。
親も可哀想なのは当然だ。
しかし最後まで見終えて、親の、特に父親の無責任さは強く指摘すべきだと、最後の父親へのインタビューのあとの監督の「カット、カットしてください」に感じざるを得なかった。
ポイントは弟である監督が、姉のことでよい結果を導けなかった忸怩たる想いだ。
責任の一端を負っている身内としての感情だ。
死顔をさらす背景に、姉と弟の悔しさを感じないではいられない。
20年にわたる苦しみは数ヶ月の入院の投薬で劇的に改善されてしまう。
このあっけなさに対する監督の想いをくみ取らなくてはならない。
この映画は「悲しみ」で終わらせてはならない。
「怒り」を伴って観なくてはならない。
25年は実はあっという間の時間だ。
どうすればよかったのか?
に明確な答えがあるはずがない。
だからこそ、監督の抑制的な言葉の裏の激しい感情を読み取らずにはいられない。
あの簡易な神棚への礼拝が合理性一辺倒でない一家の闇を深く表してしていると感じた。
結論「どうしようもなかった」
公開以来観に行かねば、と思いながら内容の重さに腰がひけており…やっと観てきました。
途中で何度も胸が苦しくなり、緊張で心臓がバクバクし、並のホラー映画より恐ろしく、悲しみで胃がギュッとなるような、なかなかない貴重な映画体験でした。
観てよかった。
この映画を理解するに当たり。
お姉さんが統合失調症を発症した1980年代半ばは、精神病に対する差別や偏見は今よりもずっと酷かったことを心に留めておく必要があります。
キ○ガイ、気○い、などの放送禁止用語がTVなどでもバンバン流れていた時代です。
2000年代になり、確か皇后雅子様(奇しくもお姉さんと同じ名前…)が適応障害になり、そのあたりから鬱病、新型うつなどの病名が広まり、精神疾患への理解がだんだんと広まっていった記憶があります。
ですので初動に関してはこのご両親を責める気にはなれませんでしたし、途中で何度か弟さんが方向転換を試みようとしたにも関わらず頑なに診療を拒否をされたのは、夫婦揃って医師(研究者)ゆえのプライド、また老齢故の頑固さが勝ってしまったのかなと。
大事な娘に精神病の烙印を押すなんて恐ろしくてできない、両親のその優しさが仇になってしまったんだろうと涙が出ました。
医者にも診せず南京錠をかけて監禁、なんて字面だけ読むと鬼畜の所業のように見えてしまいますが、なりゆきでそうするしかなく、いつの間にかその状態が恒常化してしまったというのが映像を見るとよく分かりました。
母親の認知症をきっかけに支援につながれたことは幸いでしたが、監督ご自身、数十年間にわたり老いていく親と病状が悪化していく姉を側で見ているのはどんなに辛かっただろうと想像します。
父親が姉の葬儀で「彼女なりに充実した人生だったと思う」と述べ、お棺に医学論文を入れたシーンはなんとも言えない気持ちになりました。
父親の欺瞞だ、と怒る人もいるかと思いますが、今自分は子育ての真っ最中ですが、自分の至らなかった点を将来子供になじられたとして、素直に謝罪できる自信がありません。
この父親のように「なかったこと」にしてしまう可能性は誰にでもあるかと。
もう一点、母親と仲が良かった妹さん(監督にとっては叔母さんにあたる方)が語るシーン、「あんな風になってしまって、でも身内だからこそ何も言えなかった、口出しできなかった」みたいなことを口にされていて、これにも深く頷きました。
大事な人を傷つけたくなかったり、関係を悪くしたくないから真実を言えない、ってことは往々にしてありますよね。
残酷な見方をすればお姉さまはご両親の判断ミスの犠牲になったと言えますが、監督がこうしてお姉様の人生を撮影し続け、映画として公開されたことで浮かばれる部分もあるかと思います。
身内の恥部を晒すことはなかなか出来ることではありません。
監督の勇気に拍手を送ります。
「家族」
答えは出ているので、題名がしらじらいという論調もありますが、問題なのは何故両親は、弟の懸命な説得に耳をかさず、受診から遠ざけたままにして、状態を悪化させてしまったのかということにつきると思います。
詳しくは書きませんが、家族の情愛やエゴは得てして、冷静な判断を下せなくする機能を果たすということかと思います。そのような事実が、ごろりと観客に提示されているように思いました。それが観客の自らの経験と化学反応を起こし、ある種の共感を呼ぶのだと思いました。
やっかいな存在。その名は「家族」。
それでも、憎み合うだけというわけではなく、いろいろあったけれど、多分それぞれが大切な存在として意識されていることがうかがわれる点でもよかったと思います。
父母ともに優秀な医師の元に生まれた優秀な医学生だった姉。そんなエリート一家もやはり家族故の情愛やエゴは普通の家族と多分変わらない。
ラストシーンが目に焼き付いて離れません。
どうしようもなかったから、この作品ができた
まず、ドキュメンタリー作品というものについての個人的な前提を記載します。
これは、所謂ドキュメンタリーなのだと思うのですが、そのような映画を観るにあたり、「ドキュメンタリー=現実」ではないと思うことが大切だと思うのです。つまり、ある現象や事実を映像化するということは、製作者がそこにある物事を、「個人的な思想」に基づいて映像化しようと「思った」訳ですので、正確にいえば「ある現実を、テーマ性を持って切り取った記録作品」ということなのかな、と思います。そうなると絶対に映像の方向性は恣意的になり、製作者の思想が「編集」というかたちで自然に織り込まれて行きます。そしてもう一つ、「自分がこの人たちだったら」という考え方に取り込まれない方が良いとも思いました。単純に、自分たちはその人たちではないし、例え環境が同じになっても、その人たちにはなり得ないからです。そう思わないと、少なくとも私は「共感」ではなく「同情」(これは共感から最も離れた意味を持ちつつ、最も誤解されやすい感情だと考えます。)を抱いてしまうからです。ニュースでもそうですが、それら製作者の思想を、まるで現実そのもののように取り込むことこそが、昨今のテレビ業界や週刊誌を「叩く」という現象における原因の一つにもなっていうのかな、と思います。あくまで原因の一つだと思うだけですが。まず、こういう前提があるとこの作品は考えやすいかな、と思いました。何故なら、このようなドキュメンタリー作品は「○○が絶対に悪い」という善悪二元論か、「答えがない」という類の答えに行きがちで、モヤモヤしたまま終わってしまい、「なんかすごいものを観た。」で終わってしまうと思ったからです。もちろん、そういう「答えが出ない」系の感想が悪いのではなく、むしろ悩むこと自体が人間として大切なことだと思うので正解なのだと思いますし、善悪二元論も言うまでもなく間違っていない考えだと思うのですが、折角なら「自分なり」の答えは出せた方が良いな、と個人的には考えたため、上記のようなことを長々と書きました。
次に、わたしの感想を、わたしの中にある前提も含めて書かせていただきます。
まず、全体をとおしてわたしが思った、極々個人的な感想は、「どうしようもなかったから、この作品ができたのだろうな。」ということでした。
パッと見、このような事態には誰しもがなるかも知れない、と思ったのですが、わたしとしては、「このような事態」になるには多くの前提がなければならないと思い、自分の中にある前提を解体してみました。
結果として、わたしが最初に思った「このような事態」のほとんどは「統合失調症の家族」と「現実を認められない人間の社会性」という二つの要素だけでした。確かに、統合失調症が家族に症状としてあらわれたら、わたしは単純に「怖い」し「不安になる」し、要するに「どうしよう」と思うのです。それは、監督含め、このご家族にも当てはまると思いました。
一方で、もう一つの「現実を認められない人間の社会性」については、所謂「自分の失敗」を隠すことで周囲への体裁を整えたり、見栄を張ったりするために使うことが多く、恋愛や仕事、家族関係などで上手くいかない時に心の中で自分以外の他人や環境のせいにすることにより露呈するものだとわたしは思っています。
こう思った時に、単純に「統合失調症の家族がいる」という事象と「現実を認められない人間の社会性」というテーマは結びつかないな、とわたしは結論づけました。実際、これは全ての当事者の方々がそうであるとは思いませんが、統合失調症が家族から出て、それを家族で協力し合って治療している方々もいると思うからです。そして、そういう人たちが所謂「善人」だったから家族の病気にも向き合えたとも思いません。つまり、「致し方なかった」というところも多分にあっただろうと思うのです。
このドキュメンタリーを観てわたしが思い出したことは「座敷牢」です。「私宅監置」という言い方もあります。わたしは、その前提として「自宅に牢を作ったり、自宅である人を監置できるような環境(資金力など)がある」ことが第一に挙げられると思っています。このご家族も、お父様の海外でのお仕事に乗じてエジプトなどに家族旅行に行けたり、1950年代から記録映像を残せるほどの資金力に恵まれていることが分かります。また、中盤辺りで統合失調症のお姉さまだけでなくお母さまも、ほぼ1年間自宅から出来いない状態になっているという事実も分かりますが、これも要するに「家族が約1年間自宅から出なくても良いような経済環境」だとも思えてしまいます。監督ご自身も9年間大学に在籍できたり、お姉さまも大学合格まで4浪もできていたりします。例えバイトをして学費を稼いでいても、9年間も大学に通えたりすることはそうないとわたしは思いますし、4回も大学受験をさせてくれることもなかなかないのではないかな、とも思いました。そういう意味で、まずこのご家族は経済的に「恵まれてしまった」と思いました。これが、わたしが考える「どうしようもなかった」理由の一つです。
次にご家族のパーソナルについて、わたしが考えた前提を書きます。まず、上記のような経済状態になれたのはどうしてかというと、単純にお父様とお母さまが大変優秀なお医者さんだったからだと思います。その努力の積み重ねが社会に認められ、結果としてこの家庭を作ったのだと思いました。そのようなお父様とお母さまですので、医学の知識や関連する機器などについては大変詳しく、お年を召してからも論理的に物事をお考えになっていることが分かります。一方、そのようなお二人ですので、自分の人生についてはプライドも持っているでしょうし、「絶対に~だ。」という認知的な歪みもあったのかも知れない、と思いました。そのようなご両親ですので、基本的に成功体験が多く、大体のことは「やればできる」と考えてしまい、お姉さまや監督の言葉や普段の状態にも、ある種鈍感になっていたかも知れません。そして、お姉さまが統合失調症になってもその現実を認められず、何かしら理由や理屈をつけて現実と向き合うことから逃げていたのかも知れません。監督とのインタビューの中で(特にお母さまが)、監督からの強いご指摘に対して極端に話をすり替えようとする場面(お母さまが「じゃあパパに死ねっていうの?」と監督を責め返そうとするなど。)から、わたしはそう考えました。
次にお姉さまですが、映像記録を観たり、監督ご自身のナレーションを聞くと、大変人懐っこく、可愛がられたことが分かります。また、占いを信じたり、たった一つの不安を拡大視してしまうような(学生時代にガンで死んだ同級生を引き合いに出して、お姉さまがかつて「自分はガンかもしれない。」と言っていた、というエピソードを監督ご自身がナレーションされていました。)感受性の高さも伺えます。一方、これらの要素は「夢見がち」で「現実逃避的思考」になりやすかったり、思い込みが強すぎるという、これも一つの認知の歪みであるとも個人的には考えます。それらを踏まえて考えると、お姉さまはもしかすると、優秀なご両親のご期待に応える「べき」だと思い込んで思考的視野狭窄に陥り、占いなどが好きな自分よりも両親という「他人」を自分の人生の中心に据えてしまい自己肯定感が損なわれる要因を作ってしまったのではないでしょうか。更に、何度も受験に失敗し、その感受性の高さにより実習でも上手くいかないことで必要以上に傷付き、「みんなが自分を責めている」と現実をネガティブな方向へ拡大させてしまったのかも知れないと考えました。
そして監督ご自身について、大変家族思いで、特にお姉さまに対しては強い愛情を感じました。一方で、映像作品を志したところからも、やはり感受性が高いことも推測できます。お父様やお母さまへインタビューする際に、たまに感情が乗ってお姉さまへのご両親の所業を尋問口調で責めるところからも伺えました。わたしが気になったのは、監督ご自身がお姉さまに何度も話し掛けるある場面で「パパとママに復讐したい?」という趣旨の質問をしたことです。お姉さまは何も答えなかったのですが、これは監督ご自身がご両親に絶対的に非があることを確信するとともに、お姉さまも「絶対に」ご両親のことを恨んでいると「思い込んでいる」ように思えてしまい、個人的に認知の歪みであると考えます。しかし、それでも結局、監督ご自身が2008年まで四半世紀もそのようなご家族の状況を打開できなかったのは、当然ながらお姉さまだけでなくお母さま、そしてお父様も含めてご家族を愛していたからだと思います。それと、9年間大学で、その後は神奈川で就職するなどして、家族の抱える事実からある意味で最も「逃避していた」という事実(これは監督ご自身がナレーションで「とにかく家にいたくなかった。」という趣旨を神奈川への就職について話す件で話しているので、そう推測しました。)による罪悪感も、なかなか踏み出せなかった要因なのかも知れないと思います。
上記のようなご家族のパーソナルがあった結果、お姉さまは統合失調症になり、ご両親はそれを否定して家に軟禁し、監督ご自身もなかなか踏み出せないまま、25年もの歳月が流れてしまったのかも知れません。
これが、わたしが考える「どうしようもなかった」理由のもう一つです。
以上のことは、しかし、一つ一つはよくある状況、よくいる人たちだと思います。わたし自身も、極端な考え方をしたり、無遠慮に人の心に踏み込もうとしたり、自分本位なところの多い人間なのですが、こういう状態にはなっていません。また、上記の条件二つが「表面的に」当てはまったとしても、そうならないご家族などたくさんいるのでしょう。
わたしが考えるに、上記にある「環境」と「家族という構成員のパーソナル」は、拳銃でいうところの「銃筒」や「弾倉」、「トリガー」を構成する「誘因」でしかなく、最終的にそのトリガーを「引く」のは、言語化出来ない、その家族そのものが持つ「個性」なのではないかと考えます。ですが、逆に言えばそれらの個性を持っていても上記のような「誘因」を防いでいければ、違う未来もあるのかも知れません。
ですので、誠に勝手ながら自分のことだけ想定して考えると、「経済的環境は社会に助けを貰わないと生きていけない程度の生活をして、家族ともなるべく向き合いつつ、しっかり自分の人生を自分のものとして生きるのが大切なのかも知れない。」という結論に至りました。
作品の終盤、お母さまとお姉さまは亡くなってしまいます。もしかすると、お姉さまはずっと軟禁され、ちゃんと運動する機会に恵まれなかったことが肺がんの遠因の一つかも知れませんし、お母さまの認知症もお姉さまのお世話による心労がたたった結果かもしれません。お父様と監督が最後に対峙するリビングには家族の象徴であったソファはなくなり、一時期は汚くなった部屋も綺麗になり(寂しくもなり)ました。監督の叔母は「(お姉さまを)愛しているから閉じ込めたのではないか。」という趣旨をインタビューで語り、お父様も「失敗したとは思わない。」(成功と失敗が価値基準ということですね。)と、自分たちの半生を映像化することに意外なほどあっさりと快諾しました。そこに何の落ち度もないかのような実父の笑顔に、年を経てすっかり丸くなった監督は、疲れとも後悔とも、諦めとも分からない風情を背中に宿しながら「カット」と言い、画面が暗転します。
わたしは、この作品が「お姉さまの生きた証を残す」ための作品であると同時に「ご両親への復讐」なのだとも思いましたが、ひょっとすると、「監督ご自身が何も出来なかった自分なりの贖罪行為であり、懺悔の具現化」なのかな、と最後は思いました。なので、とても強烈な作家性が感じられ、その執念ともいえるものに呆然としましたが、個人的にはご両親だけでなく家族という構成員の一人であった監督ご自身についての心情を見せていただきたかったため、星を一つの半分除きました。
最後のお父さんの言葉に胸が詰まりました。
なんとも言えない気持ちになりました。家庭のビデオで日常を追っているのですが、壊れていくお姉様。それを認めないご両親。最初に診察を受けた、医師の病気でないとの言葉だけを寄り処に医療を受けさせず、大枚をはたいて、名鑑に名前を掲載させてみたり、論文を書かせてみたりして、何とか病気ではないと思い込もうとなさる両親がもどかしく悲しかった。お母様が亡くなりようやく医療につかながり、回復の様子が見え笑顔が戻ったお姉様。何故もっと早く。と思わずにはいられませんでした。最後にお父様が、間違ってなかったとおっしゃったこと。もしそう思わなかったら自分、お母様、娘様の人生の否定になってしまうので、無理にでもこれがベストな方法だったと思い込んでおられたのかと思いました。ご自分の尊厳にかけて本当に思い込んでしまったのだと思いました。どうすればよかったのか?これでよかった、これしかなかった。とお父様は思われたのでしょう。見せていただいたものとしては、もっと早く医療につなげたらよかった。とおもいますが、本当はどうすればよかったのか、、、と考えさせられました。
なにがしたかったのか?
見終わったところです。ドキュメンタリーであることと、主要な登場人物が高齢のため、台詞が少し不明瞭で聞き取りにくいところがあったのが残念でした。おかげでラストの父親の一言がよく分からず、少しモヤモヤが残りました。(エンドロールを見たら、整音はやってはいたようですが)
さて、こう言えば身も蓋もないないけど、あれが正解だったのでは。発症の時期が時期だけに、発症した時点で精神科にかかったら、たぶんそのまま病院で…。一緒に暮らしていた両親、特に母親への負担は大きかっただろうけど、どうも母親が通院を望まなかったようだし。(父親の弁を信じればだけど)
統合失調症の患者がどうなのかを記録した、あまりない映画なのは評価できると思います。私も勉強になりました。(一般の方々が想像しているのは、別の病態の統合失調症なのかな?)
両親を責めるための映画
統合失調症の母を持つ身としては他人事とは思えず感情移入しすぎて見ていられなかった。
私の場合は病院に連れて行こうとしない父と、病院に行きたがらない母を無視して民間救急に依頼し、無理やり入院させたので、なぜこの息子は家を出て、自分は安全な場所で両親の説得だけなんだと終始イライラしっぱなしでした。本当に姉のことを思うなら実家に残り自分で病院に連れて行くはずです。
最初、タイトルのどうすればよかったか?は自分自身に問うているのかと思いましたが、最後にどうすればよかったか?と父にきいています。
暗に父に失敗だった。なぜ病院に早く連れていかなかったのかと責めています。
これは父を(母も)責めるための映画なんだと思います。そんなもの撮ってる間に自分で行動に移せばいいのにと思ってしまいました。
でも映画としては良い映画だと思います。
こんなに感情を揺さぶられる映画はなかなかないし、統合失調症のリアルな症状やその家族の大変さなどがわかる、家族自身が撮影しているドキュメンタリーは他にないと思います。
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