どうすればよかったか?のレビュー・感想・評価
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どうすればよかったか
どうすればよかったか、そりゃとりあえず早々に他者を介入させればよかったとはおもうけれども、それだけじゃなく、もしそうできていたとしても、そこから先にも「どうすればよかったか」はきっとあって、それの正解のなさを思うととても苦しかった。
あんなにおおきくて立派なおうちなのに、中はあんなにも煮詰まってしまっているやるせなさよ。
彼女は彼女自身の人生を、どんなふうに感じていたのだろうか。
家族を...
答えはないが広く観られるべきだThere’s no definitive answer, but it deserves to be widely seen.
観ながら、監督とは歳が近いかもしれない
と感じていた。
パンフを確認すると、監督は3つ上。
劇中の日付が、ある意味
自分にとって記憶が明確にあるわけで
それだけに、苦しくなってきた。
自分は両親とも既に鬼籍に入っている。
ただ話の通じなさは
既視感があった。
両親とも仕事では優秀であったと想像でき
故に頼られることが多かったのかなと。
だからこそ、
頼ることは苦手だったのかもしれないし
自力でなんとかしてきたんだろうなと。
そうすると、
自分たちでなんとかなる
なんとか出来るという
【思い込み】の元、
全てが手遅れになっていったんだろう。
研究という分野では
ご両親は、おそらく高く評価されたんだろうが
残念ながらそれは子育てには通用しなかった。
だから自分たちのフィールドである
研究で娘の栄誉をもたらそうとしたんだろうけど
それは流石に無理筋だった。
お姉さんは芸術系に進んだ方が良かったんだろうな
と外野から思ってしまった。
お姉さんが亡くなられた時、
父親が論文を棺に入れている様は
ある種、狂気に映ってしまった。
研究という仕事こそ、
向き不向きがあるし、
それに全てをベットするのは
狂気を孕んでないとできないだろう。
今の視点から、
ご両親の行動は理解できないかもしれないが
あの頃の世間体だとか、
精神を患った人へのイメージ、
ご両親の社会的地位等を鑑みると、
親類も口出しできなかっただろうし
口出しさせなかっただろうな
と想像出来る。
それはひょっとしたら今も変わっていないかも。
だからこそこの映画が公開され
広く観られることの意義は果てしなく大きい。
藤野監督を始め
編集の浅野さん
動画工房ぞうしまの皆さんお疲れ様でした。
As I watched, I felt that the director might be close to my age.
When I checked the pamphlet, I found out the director is three years older than me.
The date in the film had a certain significance for me,
as I have clear memories of that time,
which made it all the more painful to watch.
Both my parents have already passed away.
Still, the incomprehensibility of communication felt strangely familiar.
I imagine that both of my parents were highly competent in their respective fields,
which might explain why so many people relied on them.
Because of that, perhaps they struggled with relying on others themselves,
and simply figured things out on their own.
This led them to a certain belief:
that they could handle everything,
that they could fix anything.
But because of this belief,
everything gradually spiraled beyond their control.
In the realm of research,
I assume my parents were highly respected.
But unfortunately, that excellence didn’t translate to parenting skills.
That’s likely why they tried to bring their daughter honor
within their own field of research.
But that was, frankly, a hopeless endeavor.
I couldn’t help but think
her older sister might have been better suited for an artistic path.
When the older sister passed away,
the sight of their father placing a thesis in her coffin
came across as a kind of madness.
In the field of research,
some people simply aren’t suited for it.
To bet everything on it
requires a kind of madness in itself.
From today’s perspective,
their parents’ actions might seem incomprehensible.
But if you consider the societal pressures of that time,
the stigma surrounding mental illness,
and their parents’ social status,
it’s easy to imagine that relatives either couldn’t intervene
or were prevented from doing so.
Perhaps even now, things haven’t changed much.
This is precisely why this film’s release
and its potential for widespread viewing
is of immense significance.
To Director Fujino,
Editor Asano,
and all the staff at Douga Koubou Zoujima—thank you for your efforts.
突然に淀んでいく日々の中で
統合失調症で別人のようになったまま亡くなったお姉ちゃんのお葬式で、まだ健康な医大生だった時分に彼女が執筆し、未完のままだった論文を、「天国で続きを書けたらいいね」とつぶやきながらお父さんが棺桶に入れる。それに対し、弟(監督)が「本人が書きたかったらね」、傍で親戚のおばさんが「『もう勉強は嫌!』って言うかもねえ」と話す。このシーンに親のエゴと歪んだ期待、そして確実な愛情、さらに第三者の目線が詰まっていたように思う。
優秀な研究者だった両親からしたら、優秀な研究者になることは、イコール生き甲斐のある幸せな人生(自分が体験したから間違いない!)で、そこに何の疑いもないからこそ、姉を閉じ込めた行動は「私たち親が、娘の一時の不調をなきものにしてあげられれば、いつかまこちゃんは元通りになって優秀な研究者になって幸せな人生を送れるはず」という善意から始まった行動だと感じた。
そこに体裁を気にする思いもあったかもしれないが、まず第一に娘のことを考えた末の行動だったのではないか。親が子にかける気持ちというのは「体裁を保つ」という一言で片付くような、そんな単調なものではないと思うから。しかし、いつからかその行動の取り返しがつかなくなった末の「どうすればよかったか」。
これまでずっと優等生だったお姉ちゃんが、大学生活の中でつまづいた後に発病。「自分はいかに優秀な人間か」をしたためた手紙を、大学に何通も送りつけた話と、お母さんが亡くなった際に親戚のおばさんがインタビューで話していた「まこちゃんは賢くて天使みたいな子。お勉強をすごく頑張ってた」という言葉が、すごく重かった。親だけの望みではなく、お姉ちゃんにとっても、研究者になる将来はきっとかけがえのないものだったはず。親戚のおばさんが「自分は外野で何もできなかった」と語る言葉で、他人が考える「幸せ」と、お姉ちゃん、そして両親の考えていた「幸せ」の温度差をありありと感じた。
晩年、投薬により少しだけ症状が落ち着いた?お姉ちゃんが、カメラを向けられておどけてピースしたりポーズ取ったりする。優しくて、面倒見が良くて賢くて、優等生をつらぬいたお姉ちゃん。統合失調症を発病しなかったら、どんな人生を生きたんだろう。
映画の中に、まだ子供だった頃のお姉ちゃんの写真や動画もたくさん出てくる。失礼ながら、もう「中年」と呼ばれる年齢の監督が、家族を「パパ」「ママ」「お姉ちゃん」と呼ぶのが、この4人は温かな家族だったことを示しているようで、まるで自分も家族の一員のような追体験をさせられた、苦しくて悲しい101分だった。
幸福とは?
医者を目指し勉強していた姉が統合失調症を患う。しかし、両親はそれを認めようとしない。映像制作を学んだ弟は、そんな家族にカメラを向け始める。それから20年の映像記録。ドキュメンタリー映画。
時は否応なく流れ、姉も両親も年老いていく。
映画は息子から両親への告発の様にも見えてしまう。
しかし、彼女を不幸だと思うのは観客のエゴでしかないと思う。幸福感というのは、本人にしか分からない。いや、本人にすら分からないかも知れない。ただ、落ち着きを取り戻した彼女の、弟を真っ直ぐに見詰める穏やかな視線を見るとそんな事を思った。
一応星は付けたが、この映画には点数など相応しくないと思った。
#どうすればよかったか
ドキュメンタリーとフィクションの融合
両親が頑固で頑なに治療を受けさせず、人生を棒に振った姉の物語。画面は完全なドキュメンタリーのようだが、フィクションの部分が散りばめられている。事実ならおかしなところがちらほらあるが、そこはフィクション(脚色)なのだろう。
基本的には弟(監督)なら、どうすればよかったかというと、姉のことを思うなら両親を説得しようとせず姉を自ら受診させればよかった。ほとんど犯罪者のような父だが、映像を記録させているので本人は悪いとは思っていなかったのだろう。また、姉は医学科在学中に発症して奇行を起こして錯乱しても一切治療は受けていないので、卒業どころか進級もできるはずがないのに、卒業できたという設定。さらに悪化してもうろくに意思疎通もできなくなった後、両親が娘の希望を聞く交換条件で医師国試を受けようとする。もちろん、受かるわけはないが、そもそも医師国試を受けるためには精神機能に障害なしという医師の診断書が必要。治療せず10-20年も放置してろくに意思疎通もできない者に、異常なしの診断書を書く医者などいるはずもないので、試験以前の問題である。肺がんの末期を診断されてから、闘病もせずに長生きしているのも不思議である
言葉にならない余韻を残す家族の物語
銀座の映画館で1日1回だけの上映。地味な作品のロードショー3週目にもかかわらず、超満員。これだけの観客を集めるのは、この映画が多くの人々の関心を引き、共感や問いを呼び起こしている証拠だろう。
冒頭、録音された音声だけで始まる家族のケンカが観客の好奇心をかき立て、「一体何が起きたのか」「この家族に何があるのか」を追いかける展開へと誘う。
やがて提示されるのは、優しく優秀だった姉の、精神の病の発症から18年後。映像制作を学び始めた監督が、家族の記録をカメラに残し始める物語。この出発点が家族間の問題の解像度を高めるきっかけとなる。
映画を通じて描かれる両親、とりわけ父親の態度は謎だ。
姉が精神的なバランスを崩した発症直後、両親は一度は救急車を呼び、精神科医に診せている。しかし、その後、医療的な介入を避け続ける。その背景には何があったのか?
監督もこれを後に両親に問いかけるが、明確な答えは得られない。
優秀で子供の頃は「天使のようだった」姉が、望む進路への道を歩み始めたところで精神を病むという落差は、深い痛みを与える。
彼女がその後も家族と共に暮らす。時折見せる爆発的な感情は、何か抑えられた後悔や怒りを想起させる。
ただ、それを「思い通りの人生を歩めなかった後悔」と読み取るのは、勝手な推測だ。病の症状だと考えるべきなのだろう。ただそう割り切れない感情が渦巻くのが本作なのだ。
監督自身はカメラを回すことで、感情的な巻き込まれから距離を置き、冷静さを保てたようにみえる。この冷静さが、家族の話を引き出す手助けとなり、記録を続けるエネルギーとなったようだ。
「どうすればよかったか?」この問いは、観客への問いとして提示される。監督自身も何度も自問自答した言葉のはずだ。「あなたならどうすればよかったと思いますか?」と問うこの映画は、答えを提示するのではなく、問いを共有することで観客自身の中に家族や人生についての考察を促す。
終盤で監督が老いた父に正面から「どうすればよかったと思っているのか?」を問うシーンは、観客に強い衝撃と余韻を残す。
長い年月を経て初めてこの問いを正面から投げかけた監督の姿勢に、彼自身の「これしかなかった」という諦めにも似た思いがにじむ。
同時に、父の答えが「別の可能性はなかったのではないか」という別の疑問を生み、それが観客の中に強い印象を残す。
60年以上にわたる家族の歴史を通じて、この映画は「人生の儚さ」と「選択の難しさ」を深く考えさせられる作品だった。
答えが出ないからこそ、この映画は観客にとって普遍的で心に残る体験となるのだろう。
めちゃめちゃ色んなことを考えさせられた作品
映画を観る前に統合失調症がどんな病気なのかを
ネットで検索して調べ、前情報としてインプットしました。
観ていて非常につらかったです。
しかしながら、監督の思いは受け止められたかなと思います。
・統合失調症であるお姉さんが寛解しているシーン
食事をつくったり、インスタントカメラで写真を撮ったり、ピースサインをしたり、
買い物をしたり、、、というシーンに涙が出そうになりました
・お姉さんが亡くなる直前に聴いていた曲が、ビートルズ「Free as a Bird」であったこと
この歌詞を噛みしめていらっしゃったのだろうなと思うと、涙が出てきます
・監督がお父さんに「どうすればよかったか?」を問うシーン
後悔はしていないというお父さんには、最後まで監督との相互理解はできなかったと
突きつけられた気がしました
お母さんが体裁を気にしていたという発言も、それは事実なのだろうなと思いました
この世代の方の価値観なのかもしれません
多くの方に観ていただき、いろいろと考えてみてほしい作品でした。
2024年の劇場鑑賞はこれで見納めです。
2025年もすてきな映画との出会いを求めて、鑑賞していきます。
父と母の選択は間違えたかもしれないが、しかしそれを弟が咎めることは...
お姉ちゃんの人生はなんだったのか
精神疾患の原因が遺伝的要素と環境にあるとされて久しいが、晩年の母親が認知症を発症したことを鑑みると遺伝的要素と関連があるのだろうと思わずにいられない、まったく異なる遺伝的要素であるとも思うのだが。とにかく精神疾患に対する知識と対処方法、世間的な認識について考えさせられる作品である。
また、親になるということの責任についても非常に考えさせられる。高等教育を受け社会的に認められている両親が、子どもに期待するのは当然であろうが、子どもは自分とは全く別の人間であるということ、子どもに過度な期待をかけるのではなく子どもの興味・得意なことを見極めてサポートすることが「な心身の育成につながること」を親自身が認識することの重要性を感じるのだ。学問を追求するだけではなく人間的に豊かに生きることを、あの両親が成しえたとは思えない。室内の散らかり様、お互いに責任を押し付け、最後まで事実を認めない思考は、やはり「お姉ちゃん」の人生を良きものにしたとは思えない。
一家の長男であり「お姉ちゃん」の弟である監督が早くに家を出て、第三者的な視点で追う家族の姿は、痛々しくもどかしく切ない。また、終始「お姉ちゃん」に寄り添い優しい対応をしている事にも圧倒される。
母親の死後、医療によって症状が落ち着いたお姉ちゃんは、おどけたポーズをとりピースサインをして写真に納まる。面倒見がよく、活発だったお姉ちゃんの「あったはずの」人生をガンというもう一つの病気が襲い早世したことは残念である。監督の思いと精神疾患に対する固定観念を再考したい。
ホントに…
お姉ちゃん、これから何がしたい?
観てから一週間以上感想がまとまらず今に至る。なぜなら、言語化する感想すべてが、この作品からくらったものより、浅く陳腐なものに思えたからだ。
話はできても対話にならない親。
家族という呪術。
世間の目、その世間のひとりである自分。
弟の苦しんだ時間。
子離れの難しさ。
医療のすばらしさ。
おきている出来事から感じる心のザラザラは、すべてを弟の愛でくるまれた映像により苛立ちへは変わらず、苦しさと悩ましさに変化していく作品。
20年にもわたる撮影期間が産む、映像の変化、フッテージ。映像作品としての魅力も多分にある。
これは、観ないとわからない。
観ればとんでない作品であることはわかる。
また、整理ができればレビューを更新しようと思う
タイトルなし(ネタバレ)
統合失調症の姉と、姉を匿った両親。
その姿を捉えたセルフドキュメンタリー。
医学部進学を目指した姉が突然叫び出したりなどの統合失調症めいた症状を発症したのは1983年頃。
8歳年下のわたし(監督の藤野知明)は、まだ十代の少年だった。
基礎研究分野の医学博士の両親は、他の医者に姉を診察させるも統合失調症などの病気ではないと判断し、以後、姉を周囲から遠ざけるようにした。
家を出、いくつかの変遷の後、映像関係の学校に進学したわたしは、帰省などの折に「家族の旅行などの記念」及び「自身の仕事の習作」の名目で、姉や両親をカメラに収めることにした。
それが2001年のことで、姉が発症したと思われる日から18年経っていた・・・
といったところからはじまり、現在に至るまでが収められている。
タイトルには、監督自身の後悔と仕方がないという納得が詰まっている。
映画は、「どうすればよかったのか?」「××すればよかった。○○すべきだった」といった「べき論」的なことを求めていない。
第三者(観客)にみせることを前提にしているが、第三者視線での「統合失調症発症の原因」や「その後の行うべきだった対処」などは求めていない。
監督が提示しているのは、「わたしの家族は、このとおりだった」ということ、それだけなのだ。
ここが観ていて苦しい。
見ていて苦しい、心苦しい。
もっと言えば、観ることに「後ろめたさ」や「疚しさ」を感じてしまう。
それがどこから来るのかがわからなかった。
観終わってすぐ思ったのは、「あぁ、自分の家族も別の事象だけれど、ほんとうにひどかったなぁ」という心苦しさだったが、「観ることへの後ろめたさ」を感じる要因とは別のものだ。
「観ることへの後ろめたさ」を感じるのは、姉及び両親を撮りはじめる際に監督自身が言っていることに起因している。
撮影の名目は「家族の旅行などの記念」であり、「姉及び両親の生活の実像の記録」ではない。
端的にいえば、「真の目的を隠匿したうえでの隠し撮り」であり、そこに映し出されているのは「秘密の姿」なのだ。
その「秘密の姿」を観ること・視ることに「後ろめたさ」を感じてしまったのだろう。
さて、問題は、視てしまった観客としてのわたしだ。
安易に「べき論」的なこと感想を口にすることは決してできない。
監督と同じく、「仕方がないけれど納得するしかない」のかもしれない。
両親の愛情と監督の下心
公開日から一週間後に鑑賞。
公開館数が少なくて上映回数も少ないのに話題沸騰なため、満席だらけ。
クレジットカード不所持でオンライン予約出来ない人間には、チケット購入難易度が最高峰だった。
上映時間よりもかなり早めに映画館に行ったら、映画館自体はまだ開店前だったのに列ができてて、チケットを購入するために列に並んで購入。
映画チケットを並んで購入なんて、下手したら2011年の東日本大震災で映画館がしばらく休館後、再開した時に映画館に人が殺到して、『塔の上のラプンツェル』のチケットを買うために一時間並んだ時以来かも。
事前に聞いていた話だと「20代で統合失調症を発症した娘を、両親が世間に悟られないようにするため、25年間監禁し続けた話」と聞いていたが、観た後は「そうかな?」という感じがした。
結果的には両親の行いは間違っていたことになるが、両親は世間体を気にして娘を家に閉じ込めていたわけでは無く、本気でその方が娘のためになると思っての行動のように思えた。
もし両親が自己保身ばかりで娘に愛情がなかった場合、お金は稼いでいそうなので、精神科の施設に送り飛ばして終わりな気がする。
そうでなくても娘への対応がもっと雑だったり虐待チックだったりしてもおかしくなさそうだけど、そうは感じなかった。
家に南京錠をかけて娘を軟禁していた件も、一人で外出させた時に過去に警察沙汰を起こしていたことがあるわけで、娘を守るための行動としては仕方ないような気がした。
一方、弟でもある監督に対しては、映画を観るにつれて不信感が募っていった。
※ここから「お前何様?」と思われても仕方ないぐらいの監督批判が永遠と続き、気分を害させる可能性大なので、閲覧しない方がいいかも。
監督は「お姉さんを救いたい」みたいなことを言っていたが、実際にとった行動は「社会人になったのをきっかけに実家のある北海道を離れて神奈川で一人暮らし」→「30歳を超えて映画監督を目指す」→「実家の様子を録画し始める」という流れだが、行動だけ見ると「家の面倒に巻き込まれたくなくて実家から離れたが(この行動自体は責められないと思う)、映画監督を目指すようになり、身近にドキュメンタリーのネタがあることに気付き、本腰入れて家族の問題に直視するようになった」と感じた。
ひねくれた見方かもしれないが、映画を観ていると「お姉さんを救いたい」気持ちよりも「ドキュメンタリーを作りたい」気持ちが優先されているように感じる場面が多々あった。
例えば、台所の場面。
お姉さんが洗い物をしている最中、夕飯の残り物を冷蔵庫にしまうことを思い付き、洗い物を中断し、残り物の入った皿にラップをかけようとするが悪戦苦闘。
その間、水道の水はずーーーっと出っ放し。
動画を撮っている監督はただ静観。
ドキュメンタリー監督として「被写体に関与しない」姿勢は正しいのかもしれないが、目の前の女性は「被写体」である前に「実の姉」。
仮に監督がお姉さんに「水、出っ放しだよ」と声をかけ、それでお姉さんが蛇口を閉めたとしても、観客には「お姉さんは忘れっぽい」という情報は伝わると思うのだが、なぜ監督が声をかけなかったかといえば、それは「お姉さんの異常性を際立たせる」ためですよね?
他にも、お姉さんのキレてる場面が何度か出てくるが、ほとんどの場面が「キレてるところから」の映像で始まっているのも疑問に感じた。
もしかしたら正当な理由で怒っているかもしれないのに、この作りだと「お姉さんが突然キレ出した」ように見える悪意のある編集に感じた。
もし本当に突然キレ出したのだとしたら、キレる少し前の場面から映像を始めた方が、家族の大変さがより伝わったと思うのだが…
この映画の始まりがお姉さんの喚き散らす音声から始まっているのも、後から考えると問題な気がしてきた。
映画の掴みとしては抜群だったかもしれないが、監督が本当にお姉さんに愛情を持っていたとしたら、お姉さんのみっともない音声を掴みに使ったりするものなのだろうか?
監督がお姉さんに話しかける場面も気になった。
ガン無視されているように見えたが、気のせい?
別に姉弟で仲が悪いのは珍しいことではない。
普段からそんなに仲良くなかったのに、お姉さんに声かけて無視される理由を「病気のせいでこういうリアクションになっている」ように編集で見せていたとしたら悪質だと思った。
「お姉さん、子供の頃、可愛がってくれたよねえ」なんて、記憶喪失じゃないのにそんなことわざわざ言うかなあ。
途中に出てくる、お姉さんを病院に連れていくように、監督が母親を説得する場面も酷いと思った。
あれだと説得ではなく詰問。
相手のダメなところをあぶり出して否定しているだけ。
最近の言い方でいえば「論破」。
本気でお姉さんを病院に連れて行きたいんだったら、「どうすればよかったか?」なんて言ってないで、「本」でも「人に相談」でも「YouTube」でもなんでも良いので、もっと人への説得の仕方を勉強すべきでは?と思った。
「人の心を動かす」能力って、映画監督には重要な能力だと思うのだが。
まあこれからは、子供が統合失調症になっても病院に連れて行かない親がいたら、この映画を観せればOK。
本作は統合失調症だけではなく、引きこもりや介護の問題も内包していると感じた。
そういう意味では、最近耳にするようになった「8050問題」を描いた映画として捉えることも可能といえなくもない。
最後まで観終わって、2014年公開映画『6才のボクが、大人になるまで。』のことを思い出した。
たとえ途中にいろいろなことがあったとしても、幼い女の子が白髪混じりの老人になるまでを一続きで見せられたことで、「人生って尊いんだなあ」と感傷的な気分になった。
疲れ果てた親の姿に
タイトルなし(ネタバレ)
途中までどうしてお姉さんがそうなったのかとかいまいちわからなかったんだけど(冒頭で姉がこうなった理由の説明をするためのものじゃないですってあったけど、やっぱり精神病は理由が症状とか行動にけっこう出る、病気の大半を占めると思うので理由を考えてしまう)国家試験のあたりからなんとなく察した。精神病なのに医師の国家試験なんて受けられないだろうな。統合失調症ってこういう症状がでるんだ。単語はちょくちょく聞き取れるのに何言ってるか全くわからなくて別の言語話してるみたいだった。途中のお母さんとのやりとりが既視感ありすぎてああ‥ってなった。口喧嘩になって堂々巡りなのにまた別の日には同じようなことばっか繰り返してる。あと本心では薄々わかってるこの雰囲気。向き合っていこうとしないことに苛立ちが来るんだよなーって思った。プライドの問題だろうな。部屋の外から撮ってて、お母さんとお姉さんの叫び声が聞こえてくるところ、どこの家でもヒステリックの仕方は同じなんだなって思った。ちょくちょく自分の家と同じところがあって、親近感あったんだけど、南京錠と紐で括った荷物がドアにくくりつけてある場面が異様すぎてびっくりした。怖いとか感じる前に?がきて戦慄する。入院して合う薬が見つかったあとの様子が凄かった。手を頭に当てる動作だけでこんなに違いが分かるとは。薬ってすごいなって思った。それからは段々楽しそうな姿が見られるようになってちょっと安心したけど、25年もかかって色々なものを失ってしまったことへのやるせなさを感じる。もっと早く繋がれてればな、って感じた。間取りとか家のパーツがうちと似てるから他人事に感じられなかった。研究部屋とかドイツ留学で両親がどっちも医者とかはブルジョワすぎてうおってなったけど。昔は精神病はスティグマを貼られてたんだなって改めて思った。それでも最期が楽しかったのなら勝手にこっちはちょっと嬉しくなれる。下品なことをいうと、この家庭は結構お金のあるお家だったと思うんだけど、そうじゃない似たような家庭は更に酷くなるなって思った。最初の金切り声とか特にキツくて、こっちまでしんどくなった。胃が痛くて、気持ち悪い?耳鳴りみたいのがしてきてこれ以上体調が酷くなったら映画館出ようと思ったぐらいだった。ぶっちゃけ映画館入る前からちょっとお腹痛かったんだけど映画の雰囲気に引っ張られてすごい底のほうまで引っ張られた感じがした(気分が今まであんまりなかったレベルまで急降下した)
答えは
体裁を気をしていた両親の罪は深い
統合失調症の姉を父母が有効な治療を受けさせずに監禁していた話、と聞...
統合失調症の姉を父母が有効な治療を受けさせずに監禁していた話、と聞き鑑賞。
確かに玄関に南京錠はかかっていたが、他の窓から出られる環境下にあり、監禁にはあたらない。外出しようと思えば容易に外出できる状況にあった。
有効な治療を受けさせず、姉にとってイタズラに時が流れていったのは確か。ある程度知識があって、平均以上の知能を有していても、自身に不都合な真実を直視し受け入れるって難しいことなのだな、と思う。もしくは、頭が良くても正しい判断ができるとは限らない、ということなのかも。
薬物療法でコントロールされた状態であれば、現代社会のルールの枠内で生きるという選択肢もあったかもな、と思う。一方で、枠からはみ出した人間をそのまま許容する度量は我々の社会にあまりないんだよな、とも。実際隣に絶叫する人が住んでいたら引っ越すな、私は。
また、姉は両親の庇護下ではあっても日常生活は送れており家族との生活を享受できていた。幸不幸ってどこで判断するのか、とも思った。
本作の姉よりももっと深刻な病状の人は多くいて。その人たちの多くは世の本流からは遠く離れた場所で生きている。この作品の更に奥にある現実、彼ら彼女らの現状にも、光が当たればよいなと思う。
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