どうすればよかったか?のレビュー・感想・評価
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パーソナルドキュメンタリー
記録というものの意義深さ、カメラという武器、カメラをまとった暴力・・・
完全に私的なドキュメンタリーではありましたが、色々と思うことがありました。
自分が気になっていたこと、欲すること、それをカメラにぶつけることができた・・・ふとした強いきっかけから撮影しだした印象でしたが、長い年月ねばり強く記録し続けた結果がこうしてひとつの作品になったということなのでしょう。
ぶっちゃけ、ほとんどがハンディカムのビデオ映像で、しかもほぼ1台だけでの撮影、だから映像の質云々で見てしまうと、非常にもの足りません。なので記録されている内容によほどの衝撃を受けなければ、なかなか作品に対する評価も・・・といった感じです。
とはいえ、じっくりと時間が過ぎ去っていくことをしみじみ感じさせてくれる作品だとは思います。身近で私的な記録とはいえ、なかなかここまでしつこく記録し続けることは大変なことだと思いますから。
(あなたなら)どうすればよかったか?
反精神医学でも精神医学擁護でも見るべき!「どうすればよかったか?」
以下の順番で書いていきます。
①お父さんとお母さんだけを責めることは簡単だが・・・
②単に精神科に行けばよかったのだろうか?
③反精神医学と精神医学擁護のあいだで
①お父さんとお母さんだけを責めることは簡単だが・・・
私自身、この映画の序盤は
お父さんとお母さんに対する怒りみたいなものが、
かなり湧いていました。
私自身は当事者でもありますが、
減薬断薬を試みていたり、
そういう発信もしているので
反精神医学に思わることもあるかもしれません。
ですがこのご両親は
単純な反精神医学論者とも
思えません。
私自身は少なくとも一時的には
薬を飲んだりとか、入院したりとかは
必要だと思っていますし、それは仕方のないことです。
この親御さんは高学歴で、家の映像を観ていても
ある程度裕福な家庭です。
そういう方々の闇のようなものも非常に感じました。
一般的に病気になった娘さんを
世間に晒せないという思いも、
これは高学歴高学歴じゃないに限らず
あったでしょう。
それから、高学歴であるがゆえというか
お父さんもお母さんも自分自身の意見・主張が絶対なんです。
監督が結構色々と病院の話など、話を振ったりしますが。
あまり聞かないというか、特に映画の序盤の方は自分の意見、
主張が全てみたいな感じの方々です。
そこに私も怒り的なものを覚えたのですが、、、
ただ決して悪人ではないわけです。
裕福できちんとしているし、娘さんのことも優しく
考えてるような部分も見られます。
むしろ良いご両親のように見える部分もあります。
おそらく世間から見たら、外から見たら、
そのようにも見えると思います。
そこがある意味闇というか、
だから故に危ういという感じもします。
本当に悪い人だったら、
誰か介入するとかもできるかもしれないけれど、
そうじゃない故に危うい。
しかも世間的に高い地位に見られている、
ご両親なわけですから。
②単に精神科に行けばよかったんだろうか?
この監督はお姉さんは精神科に行った方がよいと
親御さんに伝えたり、
行けるように奔走している部分もあります。
お姉さんが大学時代に最初に緊急搬送された時に見てもらった、
でもお父さんが連れ帰ってきてしまった精神科医にも
会いに行ったりしてるわけです。
そして確かに大声とか、奇声を発しているような
場面も出てきます。
一時的に薬を飲んだり、入院などをして
病状を抑えることは必要だったと思われます。
その頃はリスパダール(リスペリドン)という新しい統合失調症の薬、
非定型抗精神病薬が出てきた時代でした。
でもそれを飲むことが良かったのか?悪かったのかというのは
分かりません。
それにこういった症状、奇声を発するとか大声を
出すという症状は薬を飲んでいても起こりますし、
副作用的な症状かもしれない。
だからこのお姉さんを見ていると、
映画で見ていると、
では精神科に通うことがすべて正解だったのか?
入院し、薬を飲むことが本当に良かったことなのか?
と考えてしまいます。
その後には確かに、入院してある程度安定して
実家に帰ってくるという場面も出てはきます。
ではそれが全て正解なのか?かっていうのはわからないですね。
確かに結果論かもしれません。
そのお姉さんだったから、たまたまっていう状況もあり得ます。
個人個人によって症状の出方も違いますので。
それはありますが、お姉さんという人間の個別性も
確かにありますが、
そのお姉さんの家での状況や振る舞いを観た時に私は決して、
単にストレートに精神科に行けばよかったのか?っていうのは
よくわからないな・・・というのが正直な感想ですね。
③反精神医学と精神医学擁護のあいだで
②ともつながる話ですが、
精神科に行って、薬を飲んで、あるいは入院すれば
安定するんだっていう、単純な映画ではないと思います。
監督はそういうことをおっしゃってる部分もありますし、
しかも監督はそういう動きも見せてるわけですが。
でもある意味その意図すら、
そういう意図すら超えている。
ある種意図せず、超えているような映画だと私は感じました。
精神医学擁護でありつつも、
どこかでそうじゃない部分も見えてしまっている。
そんな映画かなと感じます。
少し話は変わりますが、お母さんが亡くなって、
その後理由は書きませんが、お姉さんが亡くなります。
最後にお父さんと監督が残るような状況になるわけです。
そして映画のかなり最後の方に、父と息子が対峙する
シーンがでてきます。
対峙するっていう言い方が正しいかはわかりませんけど。
どうすればよかったんだろうね?っていう、まさにどうすればよかったか?っていうことを問うシーンが出てくるんですけど、
非常にやるせない気持ちになります。
繰り返しになりますが、お父さんとお母さんに対する
怒りみたいなものが最初の方はあったんですけど。
でも最後にお父さんが娘さんの写真をあげている仏壇にお線香を
上げているシーンを見た時に
お父さんとお母さんだけを責めるとか、
精神医学に早くつなげればよかったんだとか、
そういう単純な結論を出す映画ではないし
そういうものではないと思いました。
わからなさ、今の言葉で言えば「ネガティブケイパビリティ」と
言ったりもしますが。
いわゆる「曖昧さに耐える力」という言葉です。
一方向に単純に結論を出せない、胸を抉るような感情を湧き起こす、
だからこそ非常に良い映画だったと私は考えています。
家族だから聞けないこと、言えないこと
実家物語
まさかの大盛況で、パンフは売り切れ。え、そんなに人気あるんだ…ドキュメンタリーを見慣れている私はいいとして、若い人やカップルとかが正月から観る映画なのか??
…と思った感覚は、観終わっても同じです。エンタメ性はないと思います。でも、ドキュメンタリー好きには必見。
年齢や時代、場所設定がさりげなくわかるようになっていて、「あ、監督、私と大学同じ…」「大学実家から通ってた?てことは、ここ札幌?」「私とお姉さんは10歳以上離れてるけど、監督は私と歳近い?」「あ、千歳空港、数日前行ったばかり…」「雪積もってるってことは、正月の帰省か。ここも私と同じ…」「実家、うちより広くて裕福そうだけど、高齢の親と話が通じにくいのは同じ…」「歳とってから生まれた子か…うちと同じ…」
と、お姉さん以外はとにかく設定が自分と近くて感情移入しまくり。
統合失調症という病がテーマであるけど、歳の離れた親(また札幌というなんだか都会でもあり田舎でもある微妙な空間の)との関係を描いたホームムービーでもあると思った。とにかく舞台がほぼこの実家なので、家の構造や家具などが観ているうちにほぼ自分ちのような気になっていく。数日前帰った実家で何十年もそこから出ずに暮らしていた両親のこと、そして「実家」という時が止まったような空間を感じる映画だった。
強さとは、困難を真正面から受け止められること
2025年一発目の映画鑑賞は、「どうすればよかったか?」でした。昨年12月7日に劇場公開されて以降、その衝撃の内容からメディアでもたびたび取り上げられた作品でしたが、それ故に中々都合が良い時間帯にチケットが取れず、遂に年を越しての鑑賞となってしまいました。
ようやく鑑賞できた感想は、何とも身につまされる内容で、本当に「どうすればよかったか?」と自問するばかりでした。20代で統合失調症を発症した姉と、そのことを認められない両親を20年間もの長きに渡って見つめ続けた弟の藤野知明が自ら撮影し、監督となったドキュメンタリーだけに、第三者である我々観客が軽々に論評すべきものではないのかも知れません。でも本作を世に出した藤野監督の思いは、本作を観て観客に何かを感じて欲しい、考えて欲しいということだろうと思料されることから、私なりの感想を述べたいと思います。
そもそもですが、第三者である観客の多くが感じただろうことは、両親は何ゆえに統合失調症を発症した時点で、姉にきちんとした治療を与えなかったのかという苛立ちです。父親は医者であり、母親も医療研究者だったので、一般よりも高度で手厚い治療を受けられた可能性は高かったのではないかと思われます。それにも関わらず姉の病気をないものとして隠蔽してしまい、最終的には家の中で半ば軟禁状態にしてしまう両親の心の内はどんなものだったのでしょう。
初めは自分の子が統合失調症であることを認めたくない悲しき親心だったのかも知れませんが、自らの心の平安と世間体を保つために自らに吐いた嘘が、いつの間にか本当のことであるかのように思いこんでいるように見えた両親の姿には、観ていて心が痛くなりました。
そして感心したのは、しばしば統合失調症の症状が表れる姉に普段通りの態度で接しつつ、両親に対しても冷静に接し続けた藤野監督の心の強さでした。そして自らの家族の記録を20年の長きに渡ってビデオカメラに収め、最終的に父親の了承も得て今回公開したことは、並大抵の人が出来ることではないと感じられました。仮に自分が藤野監督と同じ立場に置かれたら、彼のように冷静でいられるだろうかと想像すれば、間違いなく出来なかっただろうし、どちらかと言えば自らの嘘に依存してしまった両親寄りの態度を取っていたのではないかと思います。
最終的に言えるのは、人の人生には、いついかなる困難が降りかかるか分かりません。その時にその困難を真正面から受け止められるか否かが、その後の人生を決めるのだと痛感しました。自分のような弱い人間が、藤野監督のような態度を取れるかは極めて心もとないところですが、そうした時の糧にさせて貰いたいと感じた作品でした。
そんな訳で、本作の評価は★4.4とします。
家族愛ゆえに陥る「正常性バイアス」
「どうすればよかったか」に対する答えは、監督・撮影者である弟にとって決まっている。同じ答えをどうして両親と共有することができなかったのか、それが本当の問いだ。
精神の病いに伴う恥の意識、医療への不信とともに、次のようなバイアスが働いて両親を治療という選択肢から遠ざけてしまったのではないか。
〇 異変は一時的なことで、見守っていれば元の優秀な娘に戻るのではないか(正常性バイアス)
〇 それには親のプライドでもある研究者としての道を一緒に目指すのが早道だ
〇 お父さんがそう言うなら口を挟まないほうがいい
両親もそれぞれ方針に疑問を持つことがあったようだが、互いに相手に遠慮して口を出せず、家族の中でこれまでの慣例が継続、黙認されてしまう。
レビューのなかには、この家族は愛情をもって娘に接しているからまだ救われるという声もある。しかし実は愛情こそが曲者ではないか。家族としてできることがあるのに専門家に頼ることに対する罪悪感が生まれ、医療や治療という選択肢を選ぶことができないのだ。
実際に、このような親心が働いているうちは問題が好転せず、親が老境に入って諦念を抱き始めたことが入院、薬物療法に結びついたように見える。発症から25年間、対話も成り立たなかった娘は3か月の入院で料理や外出をするなど見違えるように回復する。
できれば知りたかったのは、こうした治療の成果を父親はどう感じていたのかということだ。ラストシーンで監督は「これまでのことを正しいと思ったか」を尋ねるが、これは父親を愛情か治療かという二者択一に再度追い込んでしまったのかもしれない。
それよりも、治療を受けることで見られた娘の新しい表情を、父としてどう思っていたのか、尋ねてみたかった。「愛情ゆえに治療を遠ざける」「専門家を頼るために家族愛を裏切る」のではなく、家族を愛し続けるために専門家を頼る選択肢が広まることを願いたい。この映画でも治療することによって家族として過ごせる時間が増えたのではないだろうか。
なお、家族から半分離れながら家族を問うような監督の姿勢について好まないレビューも多いようだ。しかし、それでは結局「家族でない者が口をはさむな」という理屈と同じになってしまう。必要なのは家族をよく知ったうえで新しい提案をすること、家族と社会の仲介ではないか。
(パンフレットには映画の理解に有益な情報が含まれており、以上のレビューもその内容を一部参考にしています。)
追記:この映画が、答えをオープンにしたまま、みんなで悩みましょうというような話ではないこと。弟の立場から「医療が遅くなって良かったことは一つもない」と、下記のタイトルのWeb記事で語られています。
統合失調症を否定して姉を家に閉じ込めた両親、家族はなぜ25年もすれ違い続けたのか?
一家族の記録としては価値はあるかも
偏見が自分の子に向くとこうなるのか
娘の発狂を親は一過性のものとしてやり過ごし、娘の未来を担保しようとしたのか。
20年以上も毎年医師の国家試験を受けるよう仕向けるのは異常。自分の共同研究者として一応の社会的地位を与え…娘を匿っているようで、娘から自己実現の機会を奪っている。
どうすれば良かったか…親のエゴと娘の人生は両立しない。娘を一番に考えたら、適切な投薬治療を初めから受けていれば良かったと私は思うけど、家族って共同体で考えると分からなくなるんだろう。夫婦ってだけでもすり合わせてくのは難しいのにね。
最後のシーン、ピースで見送ってくれる姉が愛おしい。
正解はない
逆に言うと家族の数ほど正解がある。
映画を観ていて驚いたのは、家の中が驚くほど綺麗で本人の身なりも整っていたこと。そして未治療でも意外と本人の病状が安定していたこと。精神科医療に携わった人なら同意いただけると思いますが、普通はとっくに破綻していて「そうはならんやろ」、というレベルです。親の愛情、みたいなものが透けて見える気がしました。その愛情が「ズレてる」と言うのは簡単だけど、本人が考えて、考えて、考え抜いた上での行動なので、取り扱いは非常に難しく、「こんなこといつまで続けるつもりなの?」とか、つい投げかけたくなるけど、正論で人間を説得できるなんてのは幻想でしかないんですよね。陰謀論に染まった人を簡単に説得できないのと一緒ですね。
多分、多くの人がこの映画を観て、すぐに医者に連れて行かなかった親が悪い、あるいは傍観してもっと積極的に関わらなかった弟が悪いとかいう感想を抱くかも知れないけど(実際、パンフレットで監督は「両親を説得し姉を受診させるまでに25年もかかってしまったのはあまりにも長すぎました」と回顧)、それは悪者探しをしているだけで、必ずしもどうやってそれを達成するか?の答えにはなっていない訳です(「どうするばよかったか?」の問いには方法論も含まれている)。でも人は、誰が悪かったと言う形でストーリーの理解をしたくなるんですよね、そっちの方が分かりやすいから。でも医療的な視点で言えば、そもそも誰が悪いとかのジャッジはしないんです。そんな事をしても、何の解決にもならない上に事態を悪化させる恐れがあるので。
また同資料には、結局お姉さんは病識の獲得には至らなかったと言うようなことが示唆されていました(=「姉が病気を認めていない以上、実際に発表するのは姉の死後と決めていました」)。結果だけ見れば、強制医療の一択だった、と言えなくもないですが、この25年の課程を経ずにこの穏やかな結末を迎えられたか?は、甚だ疑問だったと思います。フィンランド発祥のオープンダイアローグの例を出すまでもなく、世界的に見て意外と精神疾患に対して強制医療をスタンダードに据えている国は少ないという事実。実際イタリアの精神科医師団が日本に視察に来て、苦言を呈して帰られるとか普通にありましたからね(汗
さてここからが本題です。それにしても弟である監督が凄かった。帚木蓬生氏が広めたネガティブケイパビリティ(=問題を問題として保持する力)の権化のような存在。はっきり言ってこれ、誰にもでもできることじゃないですよ。控えに目に言っても「超人」だと思いました。負担ではあっても、親が子供の面倒を見るのはギリギリ維持されるんですが、兄弟となるとその率がグッと下がります。社会通念では、親が子供の面倒を見るのは当たり前でも、兄弟が面倒を見るのは必ずしも当たり前ではありませんからね。「もー知―らない」と投げ出しても、結構許されるんです。(例えば重大事件の加害者の親に対してマスコミは執拗にコメントを求めるけど、兄弟のコメントはあまり見たことがないでしょう?)普通はそうなるんです。そういった意味から、兄弟から統合失調症を眺めた記録は本当に貴重であり、かつ資料的な価値は高いと思いました。非常に質の高いドキュメントで痺れました。
感想がタイトル通りでした
どうすればよかったか……
統合失調症がどんなものなのか、良く分かりませんが、どんな病気でも、変だなと思ったら病院受診すべきだし、それが本人が判断出来ない、動けないのであれば家族がすべきだと思う。
年代的に世間体とか、偏見とか、色んな問題があったかもしれないけど、おかしいと思ったら親がなんと言おうと、兄弟、親戚が動いて無理やりでも早く病院連れて行くべきだったと思う。
だって、普通に考えれば親は先に居なくなるし、残されて面倒見るのは兄弟だし……
親を責めるような映画に思えたけど、撮ってる弟にも責任がある……と私は思う。
何が目的で映画にしたのだろうか?私には分からない。
分かったことは、もっと早く病院行って、薬のんで、普通に生活させてあげれば良かったのになぁ……
どう受け取ればよかったか
「どうすればよかったか?」という問いを姉への対応のことを指すと受け取れば、答えは明らか。症状が出た時点できちんと精神科に通わせること、あるいは入院することしかなかった。
しかし、この父と母が捉えられていたものにどう対処するか?という意味で取るならば、確かに「どうすればよかったか」としか言いようがない。
偏見や差別意識をや内面化してしまった人をどうするか?それもあるだろうが、実際はもっと複雑だったはずだ。なぜ姉を治療しようとしないのか、この父母に20年前に聞いたとしても答えは出なかったのではなかろうか。
家庭は社会の矛盾が端的に露呈する場でもある。監督にそんな意図はないかもしれないが、これは単に他人の家庭を撮ったドキュメンタリーではないと多くの人がどこかで感じているからこれだけの反響もあるのではないか。
お姉さんのピースサインがわずかな救い。
映画を観終わって…
まず最初に
「弟よ、君が両親を押し切ってでも
病院に連れて行けなかったのか!!?」
でした(涙)
が、しばらくして
弟も両親も
そして、本人も皆んな
苦しんだんだよな
もう少し早く薬を飲んでれば
お母さんとも
女同士の会話もできてたろうになぁ〜
オシャレやメイクなど…
コレはエリート出の両親の
プライドが邪魔したとか
もう今となっては過去です
ただ…
少しの間でも
薬を飲んで
穏やかな生活に
戻れただけでも
良かったのではないか
そしてお姉さん本人が
笑顔を見せてくれてたのが
何よりもの救い
(逆に「ならもっと早く…」って
思う人も多いだろうけど)
悔しいけど
誰のせいでもないよ
鑑賞してて
とてもツラかった映画でした
自分の家族を出し
この作品を作って
公開まで辿り着いた
監督 (弟)さんを
称賛します👏🏻
籠の中の加護。
よくまとめたな
これは難しいですね。
当時を思えば、分裂病=犯罪者レベルの扱いでしたから。
最初は病院へ連れて行かないご両親に対して自分たちのエゴから連れて行かないだけだろうと思ったり、弟にもグダグダ言ってないで病院へ連れて行けよと思わなくもなかったのですが、冒頭にある通り当時の扱いを思えば、ご両親は分かっていても認めたくなく、認めないことにより病気ではない=娘は健常者と思いたかったのではないかと。一時の気の迷いだから、この先には今まで通り、優秀な娘に輝かしい未来があると思いたかったのだろう。もしも、病気と分かればお姉さんだけでなく、弟の将来にも傷がつく。分裂病の姉がいるところに嫁が来るはずがない。子供たちの未来が…とも思ったのではなかろうか。
ご両親お二人とも裕福な家庭なんだろうな。エゴと言えばそうかもだけど、私には確かに親の愛を感じました。
発症は、恐らく最初の大学受験に落ちたあたりから病気が進行していったのではなかろうか?
病院へ連れて行って適切な治療を受けていれば、医師という未来はなくても、また別の未来があったのにと思うと重く感じました。適切な薬を見つけてからのお姉さん、一気に年が進んだように感じました。
その後、彼女は何を思い考えていたのだろう?
思うことが沢山ありますが予測でしかない。
どうすればよかったのか?分からない…
価値観
両親が本当に体裁を守る事だけを考えていたら
ずっとお姉さんの面倒を見ていられないと思う。
深い愛情があったからこそ、向き合い寄り添い
一緒に生きたんだと思う。心の底からこれが正しいと思っていたからこそ、お姉さんの人生がある意味では幸せだったとお父さんは言えたんだと思う。自分の子供が、自分とは別の意思を持つ人間だと割り切れない親は多い。この映画は冒頭にもあるが、病気についてや、病気の原因を考えるものでもなければ、どうすればよかったか考えるものでもない。どうすればよかったかは私たち他者には簡単にわかることだから。ただ、どこにも行けなかったお姉さんの生きた記録を残し、チャーミングなお姉さんを私たちに会わせてくれた事に、弟さんである監督と、お姉さんを産んだご両親に感謝したい。#ビール#イカリング
ドウシヨウモナイ私
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