エマニュエル : インタビュー
自らの快感を求める女性、人間同士が触れ合えないポストセックス社会も描く オドレイ・ディワン監督&湯山玲子対談
「あのこと」でベネチア国際映画祭金獅子賞を獲得したオドレイ・ディワン監督が、「燃ゆる女の肖像」「TAR ター」などで話題を集めるノエミ・メルランを主演に起用した「エマニュエル」が1月10日公開となる。
今作は、1974年に映画化され日本でも大ヒットを記録した小説を基に、世界的なムーブメントを巻き起こした前作「エマニエル夫人」とはまったく異なるアプローチで、主人公エマニュエルの官能と欲望の目覚めを、謎めいた登場人物たちとのかかわりとともに洗練された映像、音楽で描出する。昨年11月に来日したディワン監督が、著述家・プロデューサーの湯山玲子と対談した。(取材・構成/編集部、撮影/黒坂ひな)
※本記事には映画のネタバレとなる記述があります。
<あらすじ>
グローバルに展開するホテルの品質調査の仕事をするエマニュエルは、オーナー企業から依頼を受け、香港の高級ホテルに派遣される。最高評価の報告書を提出するエマニュエルだったが、ランキングが落ちたことが許せないオーナーは経営陣のマーゴを懲戒解雇できる理由を見つけるよう、エマニュエルにマーゴの粗探しを命じる。ホテルの裏側を調べはじめたエマニュエルは、怪しげな宿泊客や関係者たちと交流を重ねるなかで、自身の内なる欲望を解放させていく――。
▼人間同士が触れ合えない、ポストセックス社会も描く官能映画
湯山:エロス系エンターテイメント映画は、伝統的に男性の萌えポイント視点がほとんどで、女性もそこに乗っかっていくパターンが多いのですが、この作品はフェミニズムからの視点もよく効いており、ポストセックスの感性も入ってくる知的な構造を持った作品で驚きました。二つの表現の方向があったと思うのです。ひとつは、もはやタブーではなくなった女性の性的ファンタジーをエンタメするという映画「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」的アプローチ。
もうひとつは、SNSとITバーチャルが浸透し、出会いの機会や性的快楽の情報があふれ、その追求は当たり前となったが、その一方でハラスメントが深刻化しているリアルを投影した主人公という方向ですが、完全に後者でしたね。かつての「エマニエル夫人」が持っていたようなエロティックファンタジーが成立しない時代の性愛についての作品。官能的だけど、ムラムラ効果はそんなに無い、という作品になっていました(笑)。
ディワン:最初の映画「エマニエル夫人」は、ヘアが見えるとかどうとか、当時のそういう規制がちょっとゆるんだことで、人々の興味が掻き立てられて、映画館に駆けつけたのだと思います。しかし私の「エマニュエル」はそうではなく、あえて枠、構図を狭めて見えない部分を作ることによって、観客のイマジネーションを働かせ、そこに観客も参加してもらうことを求めました。
湯山:エマニエル再来、と来たら、やはり観客はエロティックエンターテインメントを求めるわけで、てっとり早く「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」みたいなSMがお手軽。しかし、監督のあなたはそれは敢えてナンセンスだと思われたんですね。
ディワン:おっしゃる通り、そのように見せないことは、映画監督としてはリスクだったんです。「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」のようなものを期待されて、私はその期待を裏切らなければいけなかったのです。その時に、前作「エマニエル夫人」のエロチシズムのコードのようなものを、今回はフェミニズム的に逆転させようという考えがありました。
しかし、もっと先を言えば、今の社会はポストセックス――つまり、肉体的な快感を味わえない、男と女が触れ合えない、そういう現象も描きたかったのです。
▼エマニュエルは、自分の快感を求める女性、ケイ・シノハラは、従来の強い男性像を逆転させた存在
湯山:そこが、見事だったんですよ! 特にエマニュエルが好きになってしまうケイ・シノハラ。日本人男性という設定がさすがなのは、何せ日本人はAVの隆盛、萌え文化という世界に先駆けた、バーチャルセックス快楽の先駆者ですからね。男性の欲情トリガーは、文化的に「支配性」というものが大きいのだけれど、今の時代、そこに自覚的な男性だったら、そこを利用するにはモラルストップがかかるはず。今どきの思慮深くくてイイ男のはずである、ケイはだから面倒くさいことになっているわけですが、その辺はリアルでしたよね。
ディワン:ケイという男性の人物像は、今まで誰もが描いていた強い男性像を逆転させたいと思ったんです。今の時代、エマニュエルも、ケイも欲望は枯れ果てているんです。なぜならば、オ―ガズムを感じないといけないとか、もっと享楽的に楽しまないといけない、そういう逆の抑圧がいっぱいあって、欲望を感じられなくなっていると思うのです。
エマニュエルは、自分の快感を求める女性として描きたかったのです。それは、男性が喜ぶから快楽を感じているふりをするのではなく、本当の意味できちんと快楽を感じる自由さが今の時代の女性に必要である、そういう視点です。
湯山:今は女性も大変ですよね。女性もケイのような男を振り向かせ、性愛に持ち込むには、長い時間をかけて、獲物を追うようにして追い詰めなくてはいけない。これまで女性は、簡単な挑発で男性をその気にさせることができたのに。もはやゲイの男性がノンケの男性を誘うがごとくの手練手管、コストと時間をかけなければなせない(笑)。
▼主演のノエミ・メルランとセクシーな男性俳優陣たち
ディワン:エマニュエルを演じたノエミ・メルランはこの役の時に、私の欲望は途中でもう枯れ果てるんじゃないか、なんて言ってましたね(笑)。
湯山:「エマニエル夫人」のシルビア・クリステルは、色白のグラマラスな肉体で、ポルノ的で欲情させるような美しさが売りでしたけれど、ノエミ役の、ノエミ・メルランは、意志の強そうなキツめの顔立ちで、いかり肩で非グラマー。一般的には色っぽくないルックスです。敢えてのキャスティングだったのでしょうか?
ディワン:はい、私はそれまで男性目線で、こういう女性に欲情する、という先入観や作り上げられた既成概念のイメージの逆を行きたかったのです。そして、私から見れば、ノエミは十分に欲情させる女性です。例えば、フォトグラファーのヘルムート・ニュートンのヌードモデルはしっかりとしたパワフルな肉体を持つ女性が多くて、私はそこがとても魅力的だと感じます。力も持ちつつ、性的な魅力もあるという意味では、ノエミはヘルムート・ニュートンのモデルタイプだと思います。
湯山:その一方で、この作品をエロティックエンターテインメントとして見ると、私は男性陣のキャスティングが逆に当方、女性からの萌えドコロ満載なんですよ。ウィル・シャープ、ジェイミー・キャンベル・バウアーにアンソニー・ウォン、ラストにちょい役で出るチンピラ役までも、よくぞ、味のあるセクシー名俳優たちを起用してくださった、という(笑)。だからこそ、この映画が観念的にならずに魅力的なものになったと思います。
▼香港の高級ホテルが持つオリエンタリズムは、人間のファンタズムを催す装置
湯山:そしてホテルが舞台ですよね。場所が香港であり、欧米資本のリゾートホテル。とすれば、エドワード・サイードのオリエンタリズムを考えざるを得ない。西洋の人々が東洋の人々を偏った見方で捉えようとする態度のことですが、理性を象徴するのが西洋で、東洋とはその真逆の非理性、本能的なもの、快楽的なものを擁する。西洋はいつも東洋にそんなファンタジーを持っている。そういった舞台装置を利用なさいましたか?
ディワン:オリエンタリズムは自覚していましたし、最初の映画「エマニエル夫人」でもそれは存分に使われていると思います。私の作品では高級ホテルが持つオリエンタリズムが、すべての人々のファンタズムを催す場所、装置として発揮されています。
香港の高級ホテルは客を迎え入れる場所として完璧ですが、一旦外に出て、労働者が働いている場所にはやっぱり裏の顔がある――そういうこともきちんと見せたかったのです。
湯山:西洋文化の歴史の中で、高級ホテルとは格式がありながらも、貴族やブルジョワジーの秘め事、生々しい欲望の現場でした。今回の主人公、エマニュエルはそこの調査員という設定が効いていますね。快楽の主人公でありながら、観察者でもあるという。
ディワン:私にとって現代のホテルには、人工楽園、人工的に作られたパラダイスという側面があると思うのです。全てが整然として、完璧で。エマニュエルもそういう点を査定します。現代の人間の快楽は1つの定義しかなく、これこそがだれもが感じる幸福感、それを体現したのが高級ホテルである、そういう考えです。
でも、エマニュエルはそれが人工的なものだと気づいて、息苦しくなってホテルから出ていきます。ホテルとエマニュエルという存在を平行に映し、両方とも全て完璧を求められているという意味では、同じではないか――そう見えるよう編集しました。ホテルの完璧さ、ノエミの完璧で毅然とした背筋をあえて対比させたのです。
▼セックスの商業主義への批判も
湯山:ホテルも含め、ポルノ産業もセックス関係のエンターテインメントも現代では全て商業主義化されてしまったことになったことに対する、批判精神も入れたのですね。
ディワン:はい。そして現代社会にはちょっとした偽善がありますよね。この映画で言うと例えばホテル内での売春も、見過ごしてあげましょうというような。見過ごす、ということは、許可されていることではない。そういうすれすれのところを、肉体的な快楽と言う部分で現代人はうまく泳いでいるのではないでしょうか。
(劇中で客を相手に売春する)ゼルダは私にとっては自由を象徴している女性として描きました。彼女は何の束縛もなく、自分で自由を追い求めることができる女性として登場させています。決して消費される立場ではないのです。
湯山:確かに。その一方で彼女は「嵐が丘」の愛読者でもあります。ヒースクリフは荒ぶる男というか、旧体的なマスキュランの象徴みたいなものですよね。そこが面白い。自由を求めながらも女性の性的ファンタジーは別腹というか、マッチョ好きなところがありますからね。
ディワン:その通りです。
湯山:音楽も面白かった。ロマンチックではなく、ちょっとアブストラクトで。ヨルゴス・ランティモスの作品での常連音楽家、ジャースキン・ヘンドリクスのよう。物語を底上げしない、パラレルで、ちょっと冷静にさせるような音楽ですね。
ディワン:余談になりますが、私の次回作のプロデューサーはランティモスのプロデューサーなんです。今回は、音楽そのものでというより、五感をサウンドで表現しようと試みました。その匂いや色、触感を感じさせるサウンドを用いたのです。エマニュエルがマスターベーションをする時も、彼女のため息が漏れるときは音楽をカットして、それが終わったら音楽を再開する――そのように感じてもらうことを目指しました。
▼日本人が得意なイマジネーションの性の快楽が描かれる
湯山:驚いたのが、作品に描かれた性の快楽が、ものすごく日本的だということ。エマニュエルが愛する男性が日本人という件はともかく、寝取られ、のぞき、行為を見せあったりだとか。マスターベーション的なセックスは、日本人は大得意で、AVがこんなに広く深く流通している国は他にないほどです。江戸時代の春画もそういう役割だったという説があります。他人とのコミュニケーションではなくて、自分の快楽だけのセックスで、イマジネーションだけが好き、そんな感じ。
ディワン:そうなんです。私もこの映画が完成した時に、これは日本映画だなと思ったんです(笑)。あなたがそうおっしゃってくださったのがとても面白いのですが、実は私のルーツはレバノンなんです。地中海に面した中東のレバノンは日本とは真逆な文化を持つ国です。でも私は日本人の考え方もよくわかるのです。
湯山:なるほどね。世界の趨勢はそっちに行ってる気もしますね。特に若い世代が。
ディワン:そう、もう他人に触れたくないという。
湯山:そうそう、特にコロナ禍後は。最後に少しだけファッションのことをうかがいます。エマニュエルのドレスは背中が空いてましたよね。
ディワン:我々の文化ではデコルテ(胸元)の前開きを大事にしますが、逆に背中を開けました。
湯山:なるほどね。それがね、すごくノエミが演じる、スクエアな仕事人のエマニュエルの建前とホンネみたいで、効果的でしたね。