「会えてどーする」大きな玉ねぎの下で キレンジャーさんの映画レビュー(感想・評価)
会えてどーする
原田泰造さん演ずる主人公の父親と同い年の中高年男性の以下レビューです。
※この作品が好きな方はスルーして下さい。
サンプラザ中野のオールナイトニッポンのエンディングだったこの曲が、アルバム発表から少し時間をおいてリメイクでシングルカットされて、爆風の中でも名曲の一つとなった。
もちろん私はこの曲が大好きだったので、観賞後に感じた最大の違和感の要因は、やはりこのテーマとなった「大きな玉ねぎの下で」の歌詞で描かれた世界との差。
いや、もちろん作り手も意図しての構成だとは思うし、別に「この曲の映画化」ではないんだから問題ないんだろうけど、単純にやっぱり
「会えてどうする!」
「結ばれてどうする!」
なんですよ。
この曲が心に刺さるのは、会ったこともない相手に寄せた淡い恋心が、泡と消える切なさ。
そもそも冷やかしだったのかも知れない・体調を崩して急に来れなくなったのかも知れない・ウソの写真を送ってしまって会いづらくなったのかも知れない…
理由も分からず、想像ばかりが広がるけど、玉ねぎの下で待ち続ける自分だけは現実。
「そんな予感もしてただろ?」
「でも信じていたい」
「これで終わり、なのかな」
でも、その後のことは描かれない。
くううううっ!
サイコーじゃないですか。
それを。
ラストで、武道館の前で、この曲流して。
♪僕は一人 涙を浮かべて
千鳥ヶ淵 月の水面 振り向けば
澄んだ空に 光る玉ねぎ♪
で…
会えてどうする。
結ばれてどうする。
え?二組とも?
そういう歌じゃないよな。
二つ目。
主人公の男の子に共感できなかった。
役者さんはみんな好演だったと思うけど、やはり、私の年齢で観る分には「ファンタジーが過ぎる」。
あんな、確実に他の人も読むバイト先のノートで知らない相手と個人的なメッセージ交換始まるとか。
2人が直接会って初めて飲みに行って、お互いのバイト先の話もしないとか。
都合良すぎる。
映画の中では終始、主人公くんの言動が「それはお前が悪いよ」って感じがベースなので、お母さんが危なくなってから(病室には通ってるから心配はしてるんだろうけど)就職面接に行って「時間がないんです」ってのも全然同情できないし、「生まれちゃったからには、生きるしかないでしょ」って、どういう開き直りなんだろう。
三つ目は時代観。
もちろん80年代当時の私の周辺に限った印象として、あの当時交換日記は一部やってる男女はいたが、雑誌などを通じての文通はさすがに当時でもやはりかなりレアだったし、いわゆる「陰キャ」の秘め事、もしくはかなりディープな趣味人たちの交流が主だった。
だから、こんな他人の「なりすまし」みたいな出会いが直接の接点として成立するツールではなかったはずだし、ましてやこんな「なりすまし同士が相手のなりすましを意識して文通する」とか、あまりにナンセンス。
そんな特殊なものをまるで、「当時多用された不便なSNS」や「マッチツールの一つみたいに描くことへの違和感は拭えなかった。
フラワーロック、舐め猫、マジックハンド。(舐め猫ブームはこの時期よりかなり前だよね)
あの頃流行ったグッズを強調する割に、ただの小道具。写ルンですなんかはもう少し話とからんで来るかと思ったのに。
ま、このあたりは「言いがかり」のレベルですな。
もちろん良いところはあって、途中にちりばめたパーツが後半で結び付いくのは楽しかった。
「俺なら先に帰ってるよ」とか
「野菜ジュース」とか
「エース級のナース」とか
「直売所」とか
「店長の自転車」とかね。
前述したとおり、若い方にはラブストーリーとして受け止められたんだと思う(だから評価もされてるんでしょう)のですが、中高年の私にはかなり物語として無理筋という感じでした。
虎太郎は出会えず、それ故に父が丈流の背中を押す、という方が全体としては良かったかもですね。
(大人サイドの話の方が共感性高く好きでしたが…)
本作だと世代を超えて類似のことが起こっただけで、与えた影響は小さかったですし。
丈流の行動・言動もところどころ不快でした。
自分もポイントはそこじゃないと思いました。書いてる事に共感した相手が、既に面識ある嫌な奴だった・・趣味で急接近するのは解らないでもないのですが、正体を知った時の驚きがあっさりスルーされた様で・・好意を口で伝えるシーンもイマイチ。