ペパーミントソーダ : インタビュー
1960年代パリの女子校、男の子やセックスに興味津々の女子たちの日常と揺れる心を描く ディアーヌ・キュリス監督に聞く
「サガン 悲しみよこんにちは」(2009)や「年下のひと」(2000)で知られるディアーヌ・キュリス監督は、フランス映画界の重鎮だ。その彼女が初めてメガホンを握り、1977年の公開当時フランスで大ヒットとなった「ペパーミント・ソーダ」が、4Kに修復され、47年の時を経て日本で初めて劇場公開を迎えた。
1963年の女子校を舞台に、男の子やセックスに興味津々の女子たちの日常、揺れる心を掬い取った本作は、当時としてはとても新鮮で、まだ女性監督も少なかった時代にキュリスはこれ一本で大きな注目を浴びる存在となった。ウェス・アンダーソン監督もファンだというのが頷けるパステルカラー調の色彩や、ノスタルジックな魅力あふれる本作の誕生秘話を、キュリス監督に振り返ってもらった。(取材・文:佐藤久理子)
※本記事には作品のネタバレとなる記述があります。
――本作はあなたの初長編監督作です。それ以前は俳優でいらしたのが監督に移行されたのは、何がきっかけだったのでしょうか。
「女優をやっていて、とてもフラストレーションがたまっていたからです(笑)。自分には才能がないと思っていたし、楽しくなかった。それで自分の感じることを語りたいと思い、脚本を書いたのです。それが『ペパーミント・ソーダ』になったのです」
――つまり本作はとても自伝的な作品なわけですね。
「自分の思春期の記憶です。姉とふたり、リセ(高校)に通っていたときの思い出を頼りに書きました。書き始めた当時は15年後ぐらいだったので、まだ記憶が鮮明でした。誰にでも多かれ少なかれある思春期の感情を、人と分かち合いたいと思ったのです。結果的に多くの人の共感を得ることができました」
――映画学校には行かれていないと思いますが、初長編で困難だったことはありますか。
「おっしゃる通り、映画を学校で学んでいたわけではありません。ただ俳優としてキャリアを始めたので、カメラの前で俳優がどんなことを感じるか、また俳優から見るカメラの動きなどはわかっていました。監督となってカメラの反対側に回ったわけですが、俳優としての経験がとても役に立ちました。セリフを書くことも、あるいは監督として感情の適切さを見つけるのにも役立った。初めてだったのでとにかく情熱に溢れていて、困難というよりはすべてが新鮮で楽しく、未来だけを向いていました(笑)。まだ見習いの時期ですが、自分なりの表現方法を見つけようとしていました。映画は映像、物語、音楽、すべての要素を伴います。そういう多彩さが面白かったし、ぜったいユニークなものになるだろうと思っていました」
――姉妹役のエレオノール・クラーワインとオディール・ミシェルがとても瑞々しく魅力的です。ふたりとも新人だったと思いますが、オーディションで見つけたのですか。
「はい。撮影は夏のバカンス中で、7月頭にパリに居たできるだけ多くの女の子に会いました。学校の生徒役として多くの子どもが必要だったのです。そのなかで会ったオディールは、すぐに姉のフレデリック役に向いていると思いました。一方、妹のアンヌ役はとても難航しました。ぴんと来る女の子が全然いなかったのです。そんなとき誰かがエレオノールのモノクロの写真を見せてくれたのです。でも連絡を取ると『彼女はすでにバカンスに出ていてパリにいないから、パリには戻らないだろう』と言われて。でもどうしても会いたいと思い、粘って交渉して、パリに来てもらったのです。事務所に入ってきた途端、彼女だ!と思いました。セリフを読む前からわかったのです。エレオノールは内向的でどこかミステリアスなところがあり、それがこの役にぴったりでした。この映画にとって彼女の功績はとても大きい。オディールもエレオノールも、本作のあとしばらく映画を続けて、その後オディールは演劇の方に行きましたが、エレオノールは家庭を持って引退しています」
――新人の彼女たちからどのようにあの瑞々しい演技を引き出したのでしょうか。何か思い出深いエピソードはありますか。
「彼女たちができるだけナチュラルにいられるように、気を配りました。演技をするというより、彼女たち自身でいて欲しかった。もちろんセリフは練習して覚えてもらいましたが、できるだけフレッシュでいられるよう、テイクを少なくするなど工夫をしました。わたし自身も俳優たちも、みんな若かったし、バカンス中の撮影だったので、どこかみんなでバカンスを過ごしているような気分でした(笑)。撮影はわたしが実際に通っていたリセでやりました。夏のあいだ誰もいないので自由に撮影できました。ふだんのリセは牢獄のようですが(笑)、撮影は楽しかった思い出しかありません」
――映画に出てくる教師たちは、みんなお堅くて厳しいですね。当時はあれがふつうだったということですね。
「そうです。今日の先生たちはきっともう少しクールだと思います(笑)。映画を公開したとき、観客の方からよく、わたしの学校も先生がみんなこんな感じだったと言われました。当時は女子校が多く、先生たちはとても威圧的でした。その後1968年の5月革命を迎えてずいぶん変化しました」
――ただ、セットはパステルカラー調でとても可愛らしいです。装飾し直したのでしょうか。
「いいえ、あの色調はありのままです。60年代というのは、まさにあんな感じでした。ベージュ、淡いグリーン、茶色の家具など。ジャン=リュック・ゴダールの同時代の映画もあんな感じでしょう? ただわたしが通っていたあのリセは、建物自体がとても美しかったのです。9区にあるジュール・フェリーという学校で、もともと修道院だったものを改装して1913年から学校になりました。ステンドグラスなどもあり、いまは歴史的建造物に指定されています。まるで美しく彩られた牢獄のようでした(笑)。脚本を書いている時からここをイメージしていたので、この場で撮影できたことはとてもラッキーでした」
――「ペパーミント・ソーダ」(フランス語の原題は同じ意味のDiabolo Menthe)という題名がとても粋です。当時は食べ物の名前を映画の題名にすることはあまりなかったのではないでしょうか。
「そうなんです。でも色彩や匂いや味、見てくれなどがこの時代の子どもたちを象徴するものにしたくて、記憶のなかでそういうものがないかと探していたのですが、突然このドリンクの名前が浮かんだのです。フランスでは夏になるとみんなが飲むとてもポピュラーなドリンクだし、色がヴィヴィッド。味もスカっとしてぴったりだと。でも配給会社の人から飲み物の名前を題名にするなんて、と反対されました(笑)。でも頑固に押し通した。この題名も、映画のヒットにとても貢献したと思います。ユニークで新鮮でしたから。自分はそこまで確信があったわけではありませんが、英語の題名もペパーミント・ソーダになって、いい反響を得ました」
――ウェス・アンダーソン監督も本作のファンだというのはご存知ですか。
「聞きました。まだ彼に会ったことはないのですが、いつか会って話してみたいです。わたしも彼の映画が大好きで、この映画と通じる世界観を感じるので。彼の映画にはどこか子どもっぽいところがあって、きっと子どもが好きなのだろうと思います。ある種のシンプルさがあるところも惹かれます」
――当時はこれほど子どもを瑞々しく描いた作品がまだ少なかったのではないでしょうか。
「男の子を描いたものは少しありました。でも女の子のものはあまりなかった。少女たちのとてもフェミニンな話ですから。それにノスタルジーに満ちています。当時は『アメリカン・グラフィティ』など、ノスタルジックな作品が流行っていて、そこが観客にも響いたのではないかと思います」
――女性監督もこの時代はまだ少なかったのではないでしょうか。
「はい、フランスはもちろん、他の国でも少なかったと思います」
――そんななか、一作目で成功したことは大いなる勇気を与えられましたか。
「もう俳優をしなくてもいい(笑)、これからは自分が語りたいと思う話を作っていけばいいのだ、という安心感を得られました。もちろん自信も得ることができました。突然、自分で撮りたいものを撮っていいのだという、正当性を得られたというか。ちなみに本作の2年後の『Cocktail Molotov』(1979)も、自分の二十代をもとにした自伝的な話で、3本目の『女ともだち(1983)』はわたしの両親の話です。自伝的なものが多いですね」
――あなたの作品はカテゴリーにとらわれず、とても自由で多彩さに富んでいると思います。
「ラベルを貼られるのは嫌いです。自分では『エモーションの映画』だと思っています。わたしは映画を観て泣くのも笑うのも好きです。どちらかには偏りたくない。人生と同じでさまざまな感情が混ざっているべきだと思うから。生きていればいろいろな感情が湧く。だから映画もそういうものであるべきだと思うのです」