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(社会的、あるいは理性的には)無いほうが良い、どうしようもない衝動を抱えている人たちがいる。その人たちがどんなにその衝動を持ったままでいたいと願ったとしても、周りはその衝動を無くすことを推奨する。自分でもこの衝動が正しくないことはわかっている。けれど……。
という映画かなと受け取りました。よく理解できたとは言えないところもある映画でしたが、個人的には割と好きです。
雷に打たれたことで、落雷に性的な興奮を覚えるようになった人間と、同じく落雷に魅了された落雷被害者たちの話ですが、主人公アダの母が自死したことにまつわるシーンが冒頭から何度も挿入されているように、落雷への惹かれは、痛みへの欲求など「無いほうがいい」衝動全般を指しているように思います。それと同時に、落雷という人間(や人間社会)を破壊してしまう自然現象の被害にあう経験が一種の神秘体験であり、臨死体験であり、人間を惹きつけてしまう、ということは大変理解できます。
また、死をもたらす落雷への惹かれが性的な興奮となって現れ、最終的に出産へとつながるという筋(多分)は面白かったです。あの子どもは誰の子どもなんでしょうね。
落雷への衝動は、周囲の人間には否定されます。アダの母に医者であるアダの父が精神安定剤を飲ませていたこと、アダが父の薬は飲みたくないと何度も主張すること、この衝動が、そして母の衝動(希死念慮か、母は「水」や「溺れること」に惹かれる人なのか)も、無い方が良かったとしても、それをどうか抑えつけて無くそうとしないで欲しいという悲痛な訴えであるように感じます。その発露として、アダの母も、アダも薬を地面に埋めるといういわば「子どもっぽい」行動をしていたのが印象に残りました。「正しい大人」にはこんな衝動否定されることも、それでもどうしようもないことも、わかっているんですよね。特に、アダの母の死体を幼いアダはじっと見つめていて、それを父は目を覆って隠そうとするシーンは、まさしく象徴的です。子どもに見せちゃいけないのは正しく、そうすべきだから。
衝動をなくそうとする父と、肯定するフアンの二人の医者は対照的です。
とはいえフアンも、その衝動を肯定してしまうことに対する葛藤は(免許は剥奪されているものの)医者だからこそのものがもちろんあり、肯定してしまったことで自分ではない他人を死などに至らしめることに対してフアンが悩んでいること、それに対してアダが自分たちがそう選んだことだと応えるシーンは、確かに大人同士であれば、ある程度アダのいう通りだな…とは思いますが、なかなか難しい話だなとも思います。大人同士であっても、フアンはある意味で権威を持って落雷被害者たちを導いているわけです。ましてや、自分の子どもの「もう少し海にいたい」を肯定してしまったために妻も子どもも死に至らしめたフアンと、アダの父は本当に対照的な描かれ方がされており、映画としてフアンやアダに対する肯定と「とはいえ」の揺らぎをしっかりと描いていたように思います。
アダの母が自死する前の「どうか許してね、全てを」という語りかけが、思いつめたものではなく、まるで寝かしつけのような、優しく甘やかな声色(だと感じました)なのはとても好きです。罪悪感と、解放を感じて。
そこで、死を選んだ母や、その母とオーバーラップして語られるフアンとは違う道を進んだアダが、最後に楽しげに雷を操るようになる、というエンドも結構好きです。
アダたちの衝動の向かう先は破滅だけではないはずで、その衝動を「飼い慣らす」こともきっとできようというのは、(可能かどうかはおいといて)なかなか優しいエンドに感じます。でも子どもに雷はあてない方が良い。
余談ですが、ツイスターズと同日に鑑賞したため、人間を破壊する自然現象愛好者がブームだ!という気持ちになりました。