「SFとジャーナリズム」シビル・ウォー アメリカ最後の日 ミカエルさんの映画レビュー(感想・評価)
SFとジャーナリズム
A24という製作会社の存在を意識したのは最近のことだが、今まで鑑賞した作品群を眺めてみると、鮮烈な印象を残した作品が多い。「ライトハウス」、「ミナリ」、「パール」、「ラム」、「ボーはおそれている」などがお気に入りであるが、作家性が強く賛否両論分かれるような作品でありながら、興行的にも十分に成功しているところがすごい。
A24が史上最大の製作費を投じた本作は、現代アメリカで内戦が起きたら、という「もしも」を描くSF作品としての側面と、ジャーナリズムを問う側面の2つがベースにある映画である。
この映画は、他国で戦争を繰り返した末、ついには戦争自体を目的として自国で内戦を始めたアメリカを描いているが、なぜそうなったのかは明かされていない。それは、その理由が重要なのではなく、戦争を続けていると身を滅ぼすという愚かさを伝えたいからだ。
ジャーナリストは死にそうな人がいても助けずにシャッターを切り続けなければいけない。どちらかに加担すればその敵側に殺されるし、報道の中立も保てない。しかし、助けなければ非人間的だと揶揄される。最後には結局、ジェシーの人間性は戦場でシャッターを押す興奮によって崩壊してしまったように見える。自分のヒーローであり命の恩人でもあるリーをその場に放置して決定的な写真を撮り続けようとするジェシーは尋常ではない。
リーがジェシーを過激派から救おうとした行動はジャーナリスト的ではないかもしれないが人間的であった。ジェシーがリーの死体に心を動かされずに写真を撮り続けるのはその逆で、ジャーナリズム精神かもしれないが非人間的である。リーは自ら命をかけて最後に人間に戻り、ジェシーはジャーナリズムの狂気にどっぷり浸かってしまったのである。
独立戦争、南北戦争を経て政府を作り直してきたアメリカにとっては、「シビル・ウォー」は極端な空想の物語ではない。不当な政府は武力を使って打倒する。よくも悪くもこれが米国の精神なのだ。そして、祖国に警告を発しているつもりのジャーナリズムは戦争を止めることはできない。メディアが持つ力はそう大きくない。