「“ありえるかもしれない未来”」シビル・ウォー アメリカ最後の日 JUNさんの映画レビュー(感想・評価)
“ありえるかもしれない未来”
この映画の設定としては、レッドステート(共和党支持者が多い州)のテキサスとブルーステート(民主党支持者が多い州)のカリフォルニアが手を組んで、大統領に反旗をひるがえすという驚くべき設定となっている。
保守派、リベラル派、右とか左とかでは無く、第三の敵として民衆が権威主義的な大統領・政府に立ち向かう(この設定は共和対民主の戦い、それとどちらかに支持されている大統領と言う現実的なイメージを外す仕組み)。
陥落寸前のワシントンD.Cだが、そんな中で長きに渡って意見を述べていない大統領にジャーナリスト・チームがインタビューにいくと言うロード・ムービー。
分断は世界中に広がっている。
我々は驚くべき情報空間の中で生きていて、そんな中で我々は一体誰と戦っているのか?
分断で注意しなければならないのは、黒か白かの二項対立では無い。
大切なのは中間のグラデーションの部分だ。
今迄以上に、お互いをより良く知ろうとする努力が大切だと思う。
昨今ジャーナリズム環境が大きく変化していて、アメリカでも70年代の様な肌骨溢れるジャーナリズムが(機関・大資本に)去勢されてしまった様に感じるが、「人間にとって医者が必要であるのと同じように、政治を暴走させないためにもジャーナリストは必要だ」
とガーランドも言っている。
以前にリーからアドバイスされたように「記録に徹することが大切」と。その大切なショットを撮る為には、カメラの中で亡くなるのも、仲間(リー)が亡くなるのも同じ覚悟が必要。
そして身を挺してジェシーのショットを守ったリー。
それも違った形のリーの最後のジャーナリズム魂だったのかも知れ無いですね。
そうですね。
自国で内戦が起き、過去に数々の実績が有りながら、無力化していく著名なベテラン報道カメラマンのリーと、彼女に憧れている徐々に報道カメラマンとして覚醒してくる若いジェシー。
そんな二人の対比で描かれているが、ジェシーは次第に戦場報道カメラマンとして、目の前の悲惨な状況を世の中に伝える役目の厳しさに気がついていく。
資本と権力に骨抜きにされたジャーナリズムの推移は、仰るとおりですね。後はインターネットメディアの発展で、個人の発信力の拡大と人間性の変化、従来のマスメディアの弱体化が大きいかと思います。
ベトナム戦争ではメディアの活躍により反戦運動が盛り上がり、徐々にアメリカは撤退に追い込まれていく。
アメリカ軍は「メディアのせいで負けた」と言っていたが、フリープレスを理想に掲げるアメリカ政府は、ある意味ではアメリカ自ら掲げる自由の理念に負けたとも言えるだろう。
60〜70年代迄は「大統領の陰謀」で映画化されたウォーターゲート事件でも、体制・権力を恐れず不正を正すジャーナリズムの気概が感じらた。
残念ながら今のジャーナリズムは大資本や権力に飼い慣らされ、昔あった崇高な理念を忘れて堕落してしまった様ですね。もしくは無力化してしまったのかな。
よりキャッチーなもの求める時代を生き、死体をアップで撮る中年主人公カメラマンは、最後に死を恐れながらも、自分の嗅覚に負け、自分を死地へ向かわせました。そして被写体側になりました。
政治を暴走させないジャーナリストは必要だが、本作はそれが失われつつあると、ジャーナリズムが死につつあると言ってる気がします。
気骨のあった時代を生きた老ジャーナリストは、死の直前美しい風景を見ながら亡くなり、埋葬の用意までありました。
60年代のジャーナリズムの意識が高かった頃は、有能なジャーナリストの報道に触発されたアメリカ市民がベトナム戦争の実態を目の当たりにして、アメリカ政府の矛盾点に目を向け世の中を変えていこうとしました。
主人公が戦闘員では無かったので、戦争に近付いたり距離を置いたり、この辺もグレーと言えるのかもしれません。
ジャーナリストは医者とはちょっと違う気がします。予防なら解るんですが、手術の力は無いと思います、有ったら逆にアブナイ。