「炸裂する“怒り”と“哀しみ”。インドアクション映画の新たなる金字塔」KILL 超覚醒 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
炸裂する“怒り”と“哀しみ”。インドアクション映画の新たなる金字塔
【イントロダクション】
国際インド映画アカデミー賞5部門受賞(新人俳優賞、悪役賞、撮影賞、音響デザイン賞、録音賞)、世界各国の映画祭を席巻したバイオレンス・アクション。
インドの首都ニューデリーへ向かう特急寝台列車を、40人の強盗団が襲撃。しかし、そこには対テロ特殊部隊の隊員が乗車していた。
監督・脚本は、インド映画界で20年以上のキャリアを持つベテラン、ニキル・ナゲシュ・バート。本作は、監督の若き日の実体験が反映されている。
また、キアヌ・リーヴス主演の『ジョン・ウィック』シリーズで知られるチャド・スタエルスキ監督プロデュースによるハリウッド・リメイクも決定している。
【ストーリー】
インド国家治安警備隊(NSG)の若き隊員アムリト(ラクシャ)は、演習中の為連絡が取れないでいた恋人のトゥリカ(ターニャ・マニクタラ)からメッセージを受信する。トゥリカは父親である大物実業家タークル(ハーシュ・チャヤ)によって強引に見合い相手を決められてしまい、明日には婚約式が行われてしまうという。
アムリトは部隊の同僚で相棒のヴィレシュ(アビシェーク・チャウハン)と共にトゥリカの元へ向かい、ラーンチー発ニューデリー行きの特急寝台列車に乗車する。アムリトは車内でトゥリカに指輪を捧げてプロポーズする。
その夜、列車内に紛れ込んでいた武装強盗団一族が動き出す。強盗団は若いリーダー格のファニ(ラガヴ・ジュヤル)を筆頭に、乗客を脅し金品を巻き上げる。計画は30分で済むはずだったが、ファニは車内にタークル一家が乗車している事を知ると、更なる利益を求めてタークルとトゥリカを人質に身代金目的の誘拐を目論む。
アムリトとヴィレシュは、軍隊仕込みの近接格闘術で強盗団と対峙し、窮地に陥ったトゥリカとタークルを安全な車両へと避難させる。
列車には強盗団のボスでファニの父であるベニ(アシーシュ・ヴィディヤルティ)も乗車し、アムリト達への報復を決意する。
やがて事態は、アムリトらと強盗団一族との全面戦争へと突き進んでいくーー。
【感想】
本作を一言で表すなら「愛と哀しみのバイオレンス」。
愛が哀しみに、哀しみを怒りに、怒りはやがて狂気となって、憎き相手達に襲い掛かる。
インド映画らしい豪華絢爛な衣装や情熱的なダンスシーン、ワイヤーアクションを用いたファンタジックな格闘表現等は一切無く、ひたすらに暴力と殺戮のオンパレード(唯一、アムリトの勇姿を表現する挿入歌はあり)。「本当にこれがインド映画?」となるほどの凄惨さは、成程、ハリウッドがリメイクしたがるのも納得である。
この手のアクション映画好きならば、序盤の舞台設定から「あぁ、はいはい。主人公(とその相棒)は特殊部隊員だから、強盗団を次々と蹴散らして、恋人とその妹を救出する話ね。そして、最後は恋人の父親から結婚を認めてもらうってオチかな」といった具合に、先の展開を予想するのではないだろうか。
しかし、本作はそんな生優しいものではなかった。主人公・アムリトの恋人・トゥリカは、敵の若頭・ファニに無惨にも刺され、まだ息のある状態で列車から突き通されて死亡してしまうのだ。
「え!?この手のアクション映画でヒロインがこんな無惨に死ぬ事なんてあるの!?」と、度肝を抜かれた。
そして、組み伏せられ絶望色に染まった主人公の顔のアップに重ねて提示される『KILL』のタイトル。恐らく、この時点で開始30〜40分程と思われるが、遅めのタイトル表示と主人公と同じ絶望を抱える切れ味の鋭さに完全にやられた。正直、タイトル提示までの“御膳立て”が少々長い事が気になっていたが、なるほどこのサプライズが邦題の副題にあるように主人公の「超覚醒」を促すトリガーとなるのかと思えば、入念な下拵えも納得である。
私は、本作のハリウッド・リメイクのプロデュース権を獲得したチャド・スタエルスキ監督による『ジョン・ウィック』シリーズや、デンゼル・ワシントン主演『イコライザー』シリーズのような、「愛する者を失い、再び殺人マシーンに戻る」系主人公が大好きであるのだが、それらの作品は、あくまで「過去に失った」立場であるのに対し、本作ではまさに今目の前で「愛する者を奪われる」という強烈なフックが描かれる。そして、それによって本来の特殊部隊員としての“立場”という箍が外れ、ファニの台詞にあるように「軍人(ラクシャス)じゃなくて鬼(ラークシャス)」、いや鬼神の如く怒りを爆発させ復讐を果たしていく。
アムリトとヴィレシュは、特殊部隊員という「人々を守る立場」から“暴力”を用いりながらも、目的はあくまで“制圧”であって“殺害”ではない。しかし、その姿勢が結果的にトゥリカの犠牲に繋がってしまい、アムリトの「覚醒」へと繋がっていく。この立場の提示と、その箍を外すまでの過程が丁寧に描かれていたからこそ、その先のアムリトの「覚醒」に我々観客は全力でライド出来るのだ。
また、そうした容赦ない犠牲やアムリトらが度々窮地に陥る点から、最後まで先の読めない緊張感が持続するのも素晴らしい。我々観客も列車が終着駅に着くまで、決してこの究極のソリッド・シチュエーションから降りる事は許されないのだ。
【敵味方問わない、個性豊かなキャラクター達】
主人公のアムリトの腕っぷしの強さと頼もしさは、演じたラクシャの体作りとトレーニングの甲斐もあって説得力に満ちている。若々しくも髭を蓄えた姿には威厳もある。
しかし、アムリトは決して「無敵の殺人マシーン」などではなく、作中幾度となく敵から反撃を喰らい、傷を負い、窮地に陥る。物語が進むに連れ満身創痍となっていく姿もリアリティがある。だからこそ、この復讐劇が無事に果たされるのか、最後まで目が離せなくなるのだ。
そして、「覚醒」後の容赦のない殺戮無双ぶりは、1秒たりとも飽きさせない。パンフレットによると、途中強盗団のメンバーの頭を消化器で殴打して潰す際、脚本や監督からのディレクションでは「2回殴れ」と支持されていたそうだが、ラクシャのアドリブによって「5回」殴っている。トゥリカを失ったアムリトの怒りを表現するには、2回では足りないと判断したのだそう。
そんな危ういアムリトを度々援護するヴィレシュの良き相棒っぷりも素晴らしい。個人的には、本作のMVPは彼だと思う。アムリトより深い傷を負いながらも、最期まで人々を守る事を諦めなかったその姿勢に、私は漢気を感じた。演じたアビシェーク・チャウハンの優しい顔立ちと特徴的なちょび髭もポイントだ。
強盗団が一族経営という点も興味深かった。日本では今年の5月に公開された『ヴィクラム』(2022)でも、巨大麻薬カルテルは一族経営をしており、親兄弟親戚が大勢居たのだが、インドは大家族が多いのだろうか。
中でも特筆すべきは、やはり強盗団の若き狂犬、ファニを演じたラガヴ・ジュヤルの熱演による圧倒的な悪役描写だろう。国際インド映画アカデミー賞で悪役賞(そんな部門まであるのか)を受賞するのも納得である。彼の存在感もまた本作の魅力の一つだ。
飄々とし、トゥリカに一目惚れしつつも、彼女からの反撃によって負傷して、容赦なく彼女を刺し、列車から突き落とす姿は強烈。加えて、クライマックスではヴィレシュまでも手に掛ける。彼の戦闘スタイルは、ククリナイフを用いたストリート仕込みのフリースタイルだが、それでアムリトらを追い詰めるのだから見事である。
そして、忘れてはならないのが、衝撃の途中退場を遂げるヒロイン、トゥリカ役のターニャ・マニクタラだ。個性豊かで男臭い面々の中で、彼女の存在感は一際輝いていた。特徴的な大きな瞳は、ややギョロ目がちではあるが、美しく健気なヒロインという性質がその眼の演技にも現れており、アムリトを鬼神に変えるトリガーとして抜群の説得力を持つ。また、列車からは退場しつつも、その後もアムリトによる過去回想や幻影として度々登場するので、ヒロインとしての存在感は退場後も維持され続ける。
【逃げ場のない閉鎖空間を舞台に展開されるアクション設計】
先ずはアクション監督を務めた韓国のコーディネーター、オ・セヨンと、インド映画界のベテラン、パルヴェーズ・シャイフのアクション設計に惜しみない拍手を贈りたい。
走行中の列車、しかも寝台列車という非常に限られた空間内で展開される、アムリトら軍人の近接格闘術と、強盗団のストリート仕込みのフリースタイルの対比が見事。
アムリトの駆使する、イスラエルの“クラヴマガ”と、フィリピンの“ペキティ・ティルシア・カリ”を組み合わせた近接格闘術は、改めて劇場で細かく確認したいと思った。
そんな論理的な構成で紡がれるアクションシーンがあるからこそ、アムリトの怒りが炸裂する消化器による殴打やナイフによる滅多刺し、敵の中華包丁で首半分を切断するシーン、ジッポライターのオイルを口に突っ込んで火を点けるといった、論理ではなく感情の爆発による報復表現が際立つのだろう。本当に本作のバイオレンス描写の数々は「素晴らしい」の一言に尽きる。
また、アクションとは異なるが、アムリトが仕留めた強盗団の亡骸を両寝台の手すりに縛り、まるで食肉工場の冷凍豚のように吊り下げるシーンの、まるでホラー映画の如き演出も見事。パンフレットの解説によれば、あれは単なる怒りの発散だけでなく、敵の戦意を奪い、挑発する為の心理戦要素でもあるのだそう。実際、吊り下げられた死体の中に親族を見つけた者は悲しみ、またある者はその光景の以上さに恐怖し、またある者は挑発に乗って報復に向かおうとした。一見外連味溢れる残虐シーンの裏にも、しっかりとロジックがあるのも素晴らしい。
【暴力の限りを尽くして描かれるからこそ、その先に見えてくる“哀しみ”】
本作では、徹底して「暴力の虚しさ」「復讐の哀しさ」を登場人物達に“行動させる事”で描いてみせている。途中、息子を失った悲しみからアムリトに強力を申し出る一般人に至るまで、誰一人として「暴力の果てに報われる事のない」立場なのである。
それは、いくらクライマックスでアムリトが妻の仇であるファニを殴り付けようと、いくら息子を殺した憎き相手をハンマーやクリケットのバットで殴り付けようと、「愛する者は決して戻らない」という、覆しようのない“事実”が突き付け続けられるばかりである。ファニを殴るアムリトの脳裏にトゥリカの笑顔が浮かぶ度、相手を殴打する度、「行動すればする程に哀しみばかりが募っていく」という描写に、思わず目頭が熱くなった。
【事態を解決した英雄が、最後に辿り着く景色】
ラスト、駅に停車した列車から降りて満身創痍でベンチに座り込むアムリト。本来、こうした「列車を舞台にした作品」は、「列車に乗車している状態」が“非日常”として描かれ、「列車を降りる事」で“日常”へと戻ってくるものである。
しかし、最愛のトゥリカを亡くし、相棒のヴィレシュを亡くしたアムリトには、列車を降りたところで最早“日常〈帰るべき場所〉”など無いのである。
アムリトが復讐を果たした先にあったのは、ただひたすらの“無”である。そして、そんな現実から逃避するかの如く、彼は最後に恋人の幻影を見る。彼女は優しく「私はあなたと生きていくの」と語り掛ける。一見すると、残酷な物語の後味を少しでも良く見せようとしているかのように映るかもしれないが、これは「全てを失った哀しみから逃れる術は、幻想の世界に逃げ込むしかない」という、これ以上ない程の残酷な“現実”の提示に他ならないと私は思う。
そう、これは立派な「バッドエンド」だ。
そんな容赦のない切れ味鋭いラストまで含め、私は本作の全てが愛しくて堪らなくなった。
【総評】
インド映画界から現れた究極のエクストリーム・バイオレンス・アクションは、アクション映画好き、バイオレンス映画好きの私にとって「忘れられない一作」となった。暴力の根底に流れている“哀しみ”の表現に、まさかバイオレンス映画で涙しそうになるとは思わなかった。
ハリウッド・リメイク化で本作がどんな転生を見せるのかも楽しみに待ちたい。
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