ここ2年ほどの間に観た韓国映画のなかで、もっとも優れた作品だと思う。
本作も、《すべての家族は呪いであり、呪われていない家族などないのだ》という普遍的な主題、その各論のなかでも深刻な事態と言うべき「毒親」、さらにその多数を占める「害毒となった母親」を扱った映画である。
本作は、女子高生死亡事件の謎を追うミステリーとして始まりながら、やがて主題の深刻さを浮き彫りにし、その解決策をも示唆する。
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【以下ネタバレ注意⚠️】
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「毒親」という言葉は、韓国では、まだあまり知られていないと脚本も書いたキム・イスン監督は述べているが、日本では、「毒親」をタイトルに含む書籍やコミックはかなり出ている。
また、タイトルになくとも押見修造の『血の轍』、戸田彬弘が戯曲として書き自ら映画化した『市子』も「毒親」を扱った作品として周知されている。
Wikipedia に書かれている通り、学術用語ではなく、俗的概念だとしても、日本ではある程度普及している言葉であることは間違いない。
韓国系アメリカ人であるセリーヌ・ソンの初監督作品『パスト ライブス』に登場した「イニョン/因縁」というキーワードでもそうだったが、日韓で同じ言葉を使っている場合でも、微妙なニュアンスレベルでの差異があることは充分承知しておく必要があるだろう。
さて、ストーリーは公式サイトなどに委ねたいが、本作は序盤で、女子高生ユリ(カン・アンナ)が年上の男女数人と屋外パーティーで談笑したあと、彼らと自動車のなかで失神したまま息絶える姿を見せている。
だから観衆には、ユリは最初から(理由は不明ながら)集団自殺に及んだことが分かっている。
ところが、発見した警察は、自殺・他殺両方の可能性について捜査を進める。
また、ユリの母親ヘヨン(チャン・ソヒ)は、最初から「娘が自殺するわけがない」と決めつけ、捜査官が自殺の可能性もあることを示唆しただけで烈火の如く非難し始める。
結論的には本作は超名作だとの確信を得たが、何故か、撮影のルックは低予算感が見え見えだ。
俳優陣も、他の韓国ドラマ・映画で観たような顔も脇役にいないことはないものの、それも少なめ。
捜査を担当するオ刑事(オ・テギョン)もカッコいいイケメンなどではなく、どう見ても庶民的な普通のおじさんだ。
だが、捜査が進むにつれて明らかになる母親としてのヘヨンの異常性に気づいたときのオ刑事がヘヨンに言う言葉が良かった。
「お母さん、しっかりしてください。
残された息子さんのためにも、お母さんが娘さんを追い詰めてしまったようなことを繰り返さないように、しっかりしなければならないでしょう」
ちょっと記憶が曖昧になって、かなり違うかも知れない。
だが、オ刑事が、ヘヨン本人は罪には問われないものの、ユリの死の原因となったことをハッキリと本人に告げ、残されたユリの弟のために、それを繰り返してはならないと述べたことは確かだったと思う。
本作の優れている点は、「毒親による娘の自死」という深刻な問題について、ミステリー仕立てで真相に迫る手法を用いながら、それを決してエンタメとして消費するだけに終わらせず、その原因と解決策を示しているところにある。
ところが、映画は、幼いユリの弟に、ヘヨンが一方的に厳しく躾けようとし、耐えられなくなった弟が、
「お姉ちゃんを返して!
お母さんは、お姉ちゃんがいなくなったから、今度は僕をいじめるのだから」
と奇声をあげながら叫ぶシーンで終わる。
もちろん、これは「毒親」という病が、一朝一夕には治せないほど根深く深刻なものであることを示す意図で提示されたシーンだ。
実際には、ヘヨンに、二度と子どもに対して偏った押しつけをしないような児童保護の専門家によるケアや指導が行われるはずである。
ラストシーンの弟の「叫び」は、本作が明らかにした問題点が「未解決」あるいは「解決不能」だということを示したかったのではなく、逆に、ヘヨンに対してはそういう専門的なケアが「必要」であることを明確に伝えるために置かれたと考えたい。
その他にも、ユリが親友となったイェナ(チェ・ソユン)との仲をヘヨンに割かれて、「お母さんはお前を愛しているから、こうしているのよ」と言ったのに対して、ユリが応えた
「愛は、傲慢と偏見を産むこともあるのよ」
という言葉も含蓄がある。
いずれにせよ、充分エンタメとして面白く、「毒親」という誰もが無縁ではあり得ない家族の問題を明らかにし、解決策まで提示した優れた作品である。
弱者を殺人者に仕立ててエンタメとして消費しただけの悪趣味極まりない『ビニールハウス』の非倫理性の対極にある倫理的で誠実な映画だ。