「時代に見過ごされた性被害に時代の追い風が吹く時」コンセント 同意 ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
時代に見過ごされた性被害に時代の追い風が吹く時
赤子の手をひねるよう、という言い回しがあるが、マツネフにとってヴァネッサはまさに赤子だっただろう。彼にはヴァネッサをひとりの人間として愛する気は最初からなく、性行為を目的に文学少女の有名作家への憧憬を利用し、言葉巧みに籠絡した。
マツネフの振る舞いが終始胸糞悪い話ではある。だが、性被害を受けた人間が被害を自覚し、相手の罪を告発するまでに何年も、時には何十年もかかるのは何故なのか、その理由を本作は垣間見せてくれる。
露骨ではないが、行為のシーンがわりとあるのはちょっと複雑な気分になった。映画のテーマに関係なく、そのシーン目当てに鑑賞する輩が出てくるようでは本末転倒な気がする。彼らの関係のリアリティを求めるとああいう表現に傾くのかもしれないが、難しいところだ。なお、ヴァネッサ役のキム・イジュランは当然成人である。
1970年代から80年代にかけて、ガブリエル・マツネフは挑発的な言動で知られる文学界の寵児だった。作品においては少女たちとの性的関係を体験した通りにあからさまに描くだけでなく、少女が彼に贈った手紙をそのまま引用するという不道徳ぶり。また彼は文壇において自らの嗜好を公言していたのみならず、テレビ出演時にも度々臆面もなく少年少女との性的関係を語った。
しかしこの時代のフランスでは、作家やアーティストのこういったふるまいは、界隈ではむしろ好意的に受け止められていた。性の解放、芸術の探究。タブーを犯すことが芸術的美徳とされた時代だった。
母親は最初こそマツネフとの関係に反対していたが、やがてなし崩しになる。
原作によると、ヴァネッサはのちに自分を守らなかった母親を責めたが、彼女は「彼と寝たのはあなたなのに、私が謝らなければならないの?」と返し、自分を恨むのは筋違いだ、あなたの思いを尊重するしかなかった、自分の思い通りの人生を送らせるしかなかったといった主張をしたそうだ。
子どもの意思を尊重すると言えば聞こえはいいが、判断力が未熟で結果責任を負う力もない子どもにこういった判断を丸投げするのは、保護者責任の放棄と言った方が正確だろう。
マツネフの留守中に、読むことを禁じられていた彼の著作を読んだヴァネッサが自分とマツネフのセックスを傍観するシーンは、ぞっとするが映像ならではの表現だ。彼女が初めて自分たちの関係を客観視し、そのグロテスクさを自覚したことがひと目でわかる。
精神的に荒れ、髪を脱色し真っ赤な服を着たヴァネッサが、マツネフの出演するテレビ番組を見るシーンがある。
あれは1990年に放送された「アポストロフ」という文学番組で、マツネフの主義に反論していた女性はカナダの作家ボンバルディエ氏だ。
彼女は「あなたのしていることはひどいことで、名声を利用して少女を餌食にしているだけだ。文学を言い訳に使うべきではない」と主張したが、他の参加者は誰一人として賛同しなかったばかりか、この発言によりフランスの知識層から袋叩きにされた。
(発言の実際の場面をYouTubeで見たが、映画に出てきたボンバルディエ氏の姿はYouTubeの映像とそっくりだった。実際の映像を使ったのだろうか?)
このような時代に生きた14歳のヴァネッサが、老獪なマツネフの蜘蛛の巣にかかって彼に示した「同意」など、到底フェアなものとは言えない。
ヴァネッサがマツネフの正体を知るまでの彼への恋慕にも似た感情は、実態としては洗脳に近い。少なくとも、対等な恋愛関係からはかけ離れている。
マツネフの所業には、いわゆるロマンス詐欺に近いものを感じた。ただし、一般的なロマンス詐欺の被害者は成人であり騙し取られるものは金だが、マツネフは卑怯にも子どもを騙し、彼らの初体験や年齢相応の人間関係の中で過ごす時間といった、金よりはるかに取り返しのつかないものを盗み取った。
その上、ヴァネッサとの関係が事実上終わった後も、マツネフは彼女との日々を赤裸々に描いた作品「日記」を発表。ヴァネッサは面識のない人間からも奇異の目を向けられた。ヴァネッサが成人になってからも、彼は嫌がらせの手紙やメールを送り続けた。
そんなマツネフに、2013年にはフランスで名誉とされる文学賞のルノドー賞が授与された。
だが、時代の潮目は静かに変わりつつあった。1990年の国連による「児童に関する権利条約」発効、隣国ベルギーでのペドフィリアによる虐待殺人事件などをきっかけにした、子どもの権利についての意識の高まりや小児性愛者へのイメージの変貌。そして2017年から始まった#MeToo運動。
2020年、本作の原作が出版された5日後に、フランス国内の複数の出版社はマツネフの書籍の販売を中止した。政府は、マツネフに支給されていた文学者手当を打ち切った。パリ検察庁は、未成年者へのレイプ罪の容疑で捜査を開始した。
過去の時代の空気を、現在の価値観で断罪することはずるいことだろうか。しかし、当事者のヴァネッサは今も生きて、トラウマに苦しんでいる。
彼女がマツネフの餌食になってから30数年を経て「同意」を上梓したのは、彼への復讐のためではない。マツネフの作品の中で、彼の視点と言葉に縛られて世間に晒され続けた自分の過去を自身の言葉で定義し直すことが、彼女のアイデンティティのためにはどうしても必要だった。
時代の価値観によって被害を見過ごされた彼女に、自分の過去を再構築する勇気を与えたのもまた時代だったのかもしれない。
イギリス、ドイツには規制法があるがフランスは自由。ゲイを隠し妻を処女のまま死なせ、愛人だらけの生活(“女”には子供を産ませている)を自伝に綴ってノーベル賞って奴も居たよね。アンドレ・ジッド 悪い野郎だ。