マリウポリの20日間のレビュー・感想・評価
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この絶望を共有する、これから形成される歴史のために
2年前、ロシアによるウクライナ侵攻の報道を目にした時の衝撃を今も覚えている。以前から火種があったとはいえこの現代に、ロシアのような大国が堂々と侵略行為をおこなうということ。そして、「正当防衛」という首を傾げざるを得ない大義の元に、子供を含めた一般市民が殺されてゆくことにショックを受けた。
本作の監督であるチェルノフ氏らAP通信のクルーが報道機関の中で唯一、侵攻が始まった後もマリウポリに残った。当時私が目にしたその悲惨な映像は、彼らが文字通り命懸けで撮影したものだった。
侵攻開始直後から、まだ学齢にも満たないような子供や、サッカーをしていて爆撃を受けた少年などがあっけなく死んでゆく。たった20日間の記録映像の中で、港湾都市として栄えていたマリウポリは見る影もなく破壊し尽くされた。
都市の秩序を失った街で、市民による略奪が起こる様子もカメラは映し出す。治安の悪化はマリウポリの人々が、明日を生きるための精神的、物質的な拠り所を奪われたことの証左でもある。
以前、ロシア人の気質に関する解釈が書かれた木村汎氏の著作を読んだ。あまりに広大で気候条件の厳しい国土が醸成した諦めの精神、そこから生まれた強権を握る権力者への依存、モンゴルに侵攻されたトラウマからくる領土拡大への執着、そういった主旨のことが書いてあったと記憶している。そのような背景がロシアの大義を形成したという側面もあるだろう。ソ連が崩壊しウクライナが独立した後も、プーチンの歴史観では、ウクライナ人とロシア人は「歴史的に一体」という認識だ。
もちろん、私の浅薄な知識では追いつかないはるかに複雑な歴史や為政者の思惑なども交錯しているのだろう。しかし、少なくとも言えるのは、大義を掲げた戦闘行為ほど人間を残虐にするものはなく、一方でその実、無差別な殺戮を正当化できる大義などないということだ。
この理不尽さを当事者ではない大衆に伝えるのに、映像ほど強力なものはないだろう。だから取材クルーは、撮影を拒まれそうになっても「記録に残さないなんてできません」と訴えた。医師や警官など、危険な状況にあっても撮影を助ける市民もいた。
この惨状を、ロシアの横暴を世界が知れば、何かが変わると信じて。
この映像から2年。マリウポリは、実質的にロシアの支配下に落ちた。各国のロシアへの経済制裁、ウクライナへの軍事支援があってもなおロシアの侵攻は続き、やがて「支援疲れ」という言葉がささやかれた。今年に入ってからはパレスチナ情勢が悪化し、少なくとも日本国内のニュースでウクライナの現状が詳報される機会はますます減った。
そんな今こそ、この映画は多くの人に観られるべきだと思う。この20日間の映像に刻まれた悲惨と絶望は、ウクライナで今も続いている。そしてそれらはおそらく、パレスチナで起こっていることにもどこか重なるはずだ。
チェルノフ監督はアカデミー賞授賞式のスピーチでロシアの即時撤退を求め、「この壇上で『作品を作ることがなければよかった』と語る監督はおそらく初めてだろう」と述べた。実際に映像からは、傷つき死にゆく市民の様子を目の当たりにした取材クルーたちの苦しみまで伝わってくる。彼らを動かしていたのは、この犠牲がロシアによってなかったことにされるのを許さないという、悲壮な使命感だけだ。
彼らが命を賭し心を削って取材しなければ、初期の侵攻の実態を世界が知ることはなかった。つらい作品だが、このつらさは間違いなく、広く共有されるべきものだろう。
なぜなら、「映画は記憶を形成し、記憶は歴史を形成する」のだから(チェルノフ監督の受賞コメントより)。
歯がゆい
歯がゆくて歯がゆくて仕方がない。
いくら全世界に送っても、フェイクで片付けようとするロシア。
ニュースについて真っ向から対立する両国。
マスコミの力ってその程度のものなのか?
ずっともやもやしていた。
戦争始めたやつは死ねばいい。
本当にそう。
戦争の始まりなんて知る由もないが、静寂から始まるという。
怖い。
たくさんの人に観てほしいので星5つ。
でも本当はこんな映像ない方がよかったのだ。
早く終わって欲しい。
早く。
早く。
遅すぎるけど。
惨劇に意味を持たせるために
そこに映るのは権力に美化され破壊された、人間による人間の地獄の惨状。
怒りを超える何かが、目に、首に、肩に、拳に圧をかける。
一方で次々に流れる涙のように足の先から力が抜け落ちていく。
ネットも遮断される中、同国出身ジャーナリストが命がけで記録したのは事実を世界に伝えるためだ。
極限状態での問いかけに、怯える人々は生きる為に自分が信じたい言葉を振りしぼるように放ち、閉ざされた命は最期の姿でその罪の愚かさを訴えた。
しかし、発信された映像をフェイクだと反論しどこまでも遮る彼らがいる。
いったい人間の心をどこに置いてきたのだろうか。
さもなければ自分が生きられくなるのか?
〝マリウポリはまるで死にゆく人間のようだ。〟
その言葉が示すように戦争は全てを荒さませた。
変わり果てた祖国を嫌と言うほどみつめた彼は言う。
「全てを止めたいが、その力は僕にはない。」
「この異常な破壊の連鎖を止めるためにパパは何をした?…将来娘に聞かれた時、それに対する答えを持っていたい。」と。
陥落したマリウポリの人々はその後どう生きているのだろうか。
そしてリーダーの大義に反対する者は何を思う?
情報は減った。
今はイスラエルの負の連鎖が報道されている。
まだ戦いたい人間たちがいる。
なぜ戦う。なぜ。
気にとめない限り忘れてしまえる遠い国の悲話では済ませてはいけない。
絶望の狂気は他人事ではなく、何より私たちは「同じ」人間なのだ。
ガザもウクライナも
クリミア半島の根元近くの要衝の地、ウクライナのマリウポリにロシアが攻撃を始めてからの20日間、ここで何が起きているのかを命懸けで撮影し続けたAP通信記者の記録です。
本作は、今年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞したのですが、その席上、監督は「こんな作品で受賞したくなかった」と悲痛なコメントを寄せました。その言葉の意味を改めて思い知る事が出来る作品でした。
病院では小さな子供が次々と死んで行き、蘇生処置に当たっている医師も涙を流しています。そして、取材チームに「これを世界に伝えてくれ」と叫びます。砲撃によってサッカーのプレー中に足を失った少年、骨盤を破壊され胎児と共に亡くなった妊婦、幼子を助けられずに泣き崩れる母親。
一方では、破壊された商店から、市民たちが次々と商品を略奪して行きます。そして、
「戦争はまるでX線だ。人間の内部を見せる」
と語る医師。
この映画を観て「だからこそ、日本も軍備を」と息巻く人が居るかもしれません。しかしそんな人は、これをしも「自衛の戦争だ」と語るプーチンのグロテスクさをどう観るのでしょう。自分達もプーチンになり得る事を想像しないのでしょうか。
そして、アカデミー賞授賞式で監督が更に語ったように、この映画からガザへも想像力を働かさねばなりません。いや更に、シリアもミャンマーも、マスコミに報じられていない国々へも。
観るべき作品
これは今、観るべき作品と思う。
かなりきつい内容ですが吹き替えにしてTV放映して欲しい。二度は観れる作品ではありませんが…。
この撮影された同時期、キーウ方面に侵攻していたロシア軍は反撃に押しまくられていてどちらかといえばウクライナ優勢、という雰囲気だったのですがマリウポリではこんな情勢だったのかと。首都防衛に全振りしてとても救援に手が回せなかったのでしょう。この戦闘でロシア側も多数の死傷者を出していますが、ここまで破壊し、住民のうらみを買っている土地を治められるとは思えない。病院への攻撃はいくらロシアの指揮官でも戦争犯罪になる、と理解しているはずですが露兵たちは本気で戦闘員が潜んでいるか、武器の集積場とでも思い込んで攻撃しているのでしょうか。やがて戦争が終わればどちらに転んでも高い代償を払うことになると思いますが、これはロシアにとっても不幸な戦争だったのです。
自衛という名のもとで行われた殺戮の記録
ロシアのウクライナへの侵攻が開始されてからしばらくして現地での映像がテレビで流れだした。本作でも描かれていた産婦人科への空爆で担架で運ばれる妊婦の映像は衝撃的だった。こんなところまで空爆してるのかと。その直後にこれはフェイク映像だとロシア側が主張していたのも覚えている。しかしこの映画では映像はなかったが、他にも居住地域で遺体が数体道端に転がってる画像なんかもあり、それについてもロシア側は居住地域は攻撃していない、画像はフェイクだと主張していた。しかし後程フェイクの主張自体がフェイクだと明らかになった。
本当にこれらの映像がフェイク映像だったならどれだけよかっただろうか。殺された子供たち、殺された妊婦、それらテレビで流された映像がすべてフェイクだったならどれだけよかっただろう。しかしそれはフェイクではなく現実だった。それを起こした張本人たちだけがフェイクだと叫んでるだけだった。
産婦人科への爆撃で亡くなった妊婦さんの写真は「マリウポリの妊婦」という名でピューリツア賞を受賞したという。だが彼女は身ごもった子供ともに亡くなってしまった。彼女の名前はイリーナ、そして生まれてくる子供にもミロンという名がつけられるはずだった。しかしその子は一度も自分の名が呼ばれることもなくこの世に生まれでることもなかった。
ロシア側が主張するあの妊婦は女優だとか破壊された建物はセットだとか、本当にそうだったらどれだけよかっただろうか。しかし長年待ちわびてやっと子供を授かることができたイリーナさんは赤ん坊とともに亡くなった、彼女は女優でもなんでもなかった。
これらの痛ましい映像は現地で命がけで撮影されたものだった。当然命がけで撮影する人がいなければ我々は現地で起きてることを知ることもできずロシア側の一方的な情報操作に惑わされていたかもしれない。改めて現地取材の重要性が再認識させられる。
これらのロシアによる無差別爆撃で亡くなった人々にはそれぞれの名前があった。しかし、あまりに大量の遺体を処理しきれず彼らの墓標にはその名が刻まれることもない。簡易な十字架だけが建てられ番号だけが刻まれる。そんな無数の名もなき者たちの墓が並ぶ。人生を奪われた彼らには一つ一つ名前があった。
いつの時代も普通の人々の普通の生活を奪ってしまうのが戦争。そんな戦争は過去は帝国主義のもと領土の奪い合いから行われてきたが、現代の戦争は主に自衛という名の下で行われる。
プーチンがウクライナ侵攻をした口実は同じ民族がウクライナから迫害を受けているからというものだった。彼は集団的自衛権行使を主張した。
現在行われてるイスラエルによるガザへの殺戮行為も自衛が発端だった。自衛という言葉はいまや天下の宝刀のように使われる。自衛といえばすべてが許される。しかしその自衛のもとで行われているのは一方的な殺戮でしかない。
自衛という美名のもとではすべてが許される。消防署や病院、産科を空爆することも、サッカーをしてる子供を空爆することも、妊婦を空爆することも、赤ん坊を空爆することも、すべてが許されてしまう。それは今までも繰り返されてきた、中国重慶の爆撃、東京大空襲、長崎広島、そして今もイスラエルによるガザへの無差別攻撃が行われている。
しかし民間人は自衛のすべを持たない。妊婦や子供たちはただ自衛の名のもとに殺されるしかないのだ。
自衛という詭弁で始められる戦争、あるいは本当に自衛で始めた戦争がやがて抑制が効かなくなり過剰防衛にまで発展するケースなどそれぞれだが、自衛のための戦争という言葉に踊らされてされてはいけない。
9.11後のアメリカも対テロ戦争の名のもとに暴走した。彼らは自衛を拡大解釈して大量破壊兵器があると決めつけイラクに侵攻した。
今の日本もこの自衛の名のもとに敵基地攻撃能力だとか先制攻撃まで辞さないような勢いだ。しかしどんな理由にせよはじめられた戦争で起きる結果がこの作品で見ることができる惨劇なのだ。どんな立派な理由を掲げようとも起きる結果はいつも同じだ。普通の人々の暮らしや生活が破壊され子供や妊婦、罪もない人々の名もなき墓が建てられるだけなのだ。
戦争を起こさないための抑止力が必要という言葉にも疑念を持つべきだろう。果たして戦争を起こさない唯一の手段が抑止力なのか。かつて米ソ冷戦時代、両国は抑止力という名のもとに核兵器を増産し続けた。いつ核戦争が起きてもおかしくない恐怖に世界が包まれた。そして起きたキューバ危機。あれこそ偶発的に何が起きてもおかしくはなかった。あれこそが抑止力の名のもとに核武装を進めた結果起きたものだった。抑止力の緊張の糸が切れたときいつ暴発していてもおかしくなかった。運良く起きなかったが。
それに抑止力なるものが一番あてにならないということはこの日本自身がよくわかっているはずだった。かつての太平洋戦争は国力が十倍以上あるアメリカに対して日本が戦争を仕掛けたものだった。アメリカが有する強大な軍事力が抑止力として戦争の歯止めになっただろうか。抑止力があてにならないことを身をもって経験したのではなかったか。にもかかわらず今南西諸島では対中国戦略のための南西シフトがしかれつつある。防衛費倍増で中国による台湾の武力による統一を抑止できるという考えだろう。
しかし軍事費倍増させるだけで肝心の外交はどうなっているのか。一番大切なのは抑止力ではなく対話だ。政治家が命を懸けて行うべきものは対話なのだ。防衛費倍増、基地の整備。これらは相手国のことなど関係なく自国だけでやれるから楽である。楽な方へ楽な方へ流れていき、困難な外交には力を入れようとしない。
近所づきあいと同じだ。隣同士普段挨拶もしない、隣はどんな奴か何を考えてるのかわからない。隣から聞こえる生活音にいらいらする。そこからご近所トラブルに発展する。普段から挨拶なり会話があれば決して起きることのないトラブルだ。
アメリカのご機嫌をうかがうだけで中国とは会話もしない。でもアメリカは狡猾だから裏でこそこそ中国と交渉している。威勢よく打倒中国なんて言ってたらアメリカにはしごを外されてしまうなんてことにもなりかねない。
自衛のためといえば国民からの支持も取り付けやすい。しかし自衛のための戦争は侵略戦争と紙一重だ。
為政者たちはとにかく他国からの侵略の危機を煽っては国民の不安を煽り立てる、このままではいけない、こちらも武装せねばと思わせる。
対話を忘れ武力に走れば、これからも多くの妊婦や子供たちの犠牲はなくならないだろう。
命を懸けて伝える
マリウポリで見た
戦争の現実を
命がけで
知らせようとした
ドキュメンタリー映画
苦しくて
悲しくて
嘆くことだらけの映画
その中で
己の身を厭わず
患者を助けようとする
病院スタッフや救急隊員,
急ごしらえの穴に
せめてもの埋葬を続ける
市の職員もいた
ジャーナリストが
命の危険をおかしてまで
戦場の現実を撮り続けるのは
その人たちと同じで
人としての良心,仕事の志なのだと
理由が分かるような気がした
美しい街並みと絶望感
侵略が始まってしばらくした頃、マリウポリの場所がわからず、Googleマップで調べたことがあります。附随する写真を見たところ、風光明媚な所で、とても美しい街でした。花は咲き誇り、楽しそうな遊園地がありました。今もあの写真は残っているのでしょうか。
この映画の中には、侵攻当日のまだきれいな街並みから、全てが破壊された街へ変わっていく様子が記録されています。
この映画に撮された人々のうち、何人が今も無事に生き延びているのでしょうか。
見るには勇気が必要な映画ですが、見るべき映画です。
追記
2回目の鑑賞。Googleマップを確認してみたら、ストリートビューは見えなくなっていた。
このような映画を見た後で、必ず「知るだけでよいのか」という話が出るが、やはり「まずは知ることから」としか言えない。知って、お金に余裕がある人は寄附をする。時間とお金と体力に自信がある人は、ポーランドで国境を越えてきた難民の手助けをする。国内で何らかの組織で動ける人は、例えば日本にいるウクライナ人の手助けをする。そんな、自分にできることを無理せずする、ということでよいのではないかと思う。
ニュースでは報道されないウクライナの現実
戦争が静寂から始まる・・というくだりが、すごく生々しく恐怖でした。
爆撃される建物や市井の人々のシーンが中心なのかと思いきや
特に病院のシーンが多く、
そこでの生死がかかった医師の向かい合い方に緊迫感がビリビリと伝わってきました。
ニュースや報道では、ここまでの深刻さは伝わっていないと感じましたし、
あらためて戦争の惨さをつきつけられた気がします。
政治家・権力者は、人の命を何だと思っているのか、
この戦争の現実を多くの方に観ていただきたいです。
面白くはないが、知らなければいけない現実
ロシアによるウクライナ侵攻開始から20日間、東部の重要な港湾都市マリウポリの様子を記録したドキュメンタリー。
2022年2月、北京冬季オリンピックが閉幕した直後、ロシアがウクライナへの侵攻を開始した。東部ドネツク州の重要な港湾都市マリウポリへも侵攻してきたので、AP通信のウクライナ人記者・チェルノフは、取材のため仲間と共に現地へと向かった。ロシア軍の攻撃によりマリウポリの東部、北部、西部は陥落し、南は海のマリウポリはまたたく間に孤立してしまい、水や食糧の供給は途絶え、通信も遮断されてしまった。海外メディアのほとんどが現地から撤退したが、チェルノフたちはロシア軍に包囲されたマリウポリ市内に留まり、戦火の人々の惨状を命がけで撮影していった。破壊されつくしていくマリウポリの姿と凄惨な現実を世界に伝えるため、撮影した映像を持ち、市民たちを後に残し、ウクライナ軍の援護によって市内から決死の脱出を図った。その数時間後ロシア軍マリウポリを完全包囲し脱出は不可能となった。
チェルノフが現地から配信したニュースや、通信が遮断された後に撮影し運び出したマリウポリ市内の映像をもとに映画として完成させた作品。
ほんの数時間脱出が遅れていたら、この貴重な映像はロシア軍に没収され全世界の人たちの目に触れない事になってい教育が行われてただろうと思うと、よくやった、と賞賛するしかない。
一歩間違えば死が待っている戦場カメラマン?記者?という職業は、死と隣り合わせなんだとよくわかった。撮影した映像は、公開されては不都合な側からしたら絶対奪いたい物だろうから、なんとか持ち出せて、こうして映画として公開でき、劇場で鑑賞できた事に感謝したい。
決して面白い作品では無い。しかし、観なければいけない、知らなければいけない、そんな作品だ、と感じた。
そして、現在のマリウポリはどうなっているのだろう?ロシアの掌握が続き、ロシアの領土として統治され、ロシアの教育が行われているのだろうか?
現在もウクライナの悲しみは続いているのだろうと思った。
日本の記者はどう思うのか。
ウクライナ侵攻を他人事とは思えない。日本も隣国との関係が良いとは言えず、兵力も多いとは言えない。
日本が同じような立場に置かれたら…という目でこの戦争を注視してきた。
この映画を見て、自分がニュースで見ていた映像(情報)がどんな状況でどんなふうに、どんな気持ちで撮影されたのか知ることができた。
一つは必要があると判断して撮影される戦争犯罪に関するもの。あまりの惨劇を目の当たりにした時はこちらにも動揺が伝わってくる。特に後半は本当にギリギリ、まさに命懸けで撮っている。
もう一つは、市民とひとまとめにするのも辛いが、出会った人々の状況や心境を撮影したもの。カメラを向けてもよいのか、悩みながら撮影している。ここにもこの映画の大事な部分があると感じた。
撮影者の残された人々に対する気持ちは言葉で言い表せないだろう。観ているこちらも辛すぎて想像できない。
感謝だなぁ、すごいなぁ、と思いながら、日本が同じ状況になった時には日本の忖度ジャーナリスト達は一目散に国外へ逃げそうだな…とも感じて、なんとも情けない気持ちでいっぱいになった。
野蛮。人類の恥。
最初の遺体の女の子の名前は
エヴァンジェリカだった。
《平和の福音》という意味だ。
余りにも悲しい皮肉だ。
記者はひとりひとり、生存者の名前を、避難民の名前を、そして遺体の名前を訊ねて、その人に呼びかける。
骨盤が砕けて死んだ臨月の母親と胎児の名を ―。
足を吹き飛ばされたサッカー少年の名を ―。
自宅の前で叫ぶスカーフの女にも、リアカーを引く男にも、「姓」と「名」を言ってもらってそれをカメラに収める。
けれどもその名も知られずに、墓標はナンバーリングだけの土葬の地平が、累々と映し出されてしまうのだ。
庶民は「認識票」を付けていない。
だから、男も女も、老人も赤ん坊も、
庶民は殺されてしまえば、
彼らは名無しの土葬となる。
あれが超大国ロシアの、世界に誇るプライドと政治理念なのか?
恐怖で人間たちを抑え、恐怖政治を貫けば、自国民も他国民も必ず言うことを聞くだろうというあのポリシー。あの狂気。
その自らのポリシーを「いずれ世界が従い、最後には全ての国が到達すべき理想郷の姿」だと信じるプーチン。
その人間不在の全体主義。
・ ・
重い足で映画館を出てみると、
外は静かな宵闇だった。
シネコンの映画館も、駐車場の前のイトーヨーカ堂も、周囲のマンションも、あのマリウポリの町並みとそっくりなので、何とも言えない気持ちになった。
立ち止まって ぐるりを見渡す。
でもここには、ミサイルが命中して崩れたはずのビルの右上の角の景色も、ガラスが全て吹き飛んでがらんどうになったアパートも無い。
燃えるカーテンを黒煙の中で外に投げ捨てようとしている人影も、それを下で抱き合って見上げる母子もいない。
97分間、ずっと、あの様を見続けていたから、すっかり綺麗に掃除されていて、石ころ1個すら、どこにも瓦礫が落ちていないこの歩道が、現実とは思われないほど異様に見えてしまう。
戦争は、その第1日目は、静寂のうちに始まるのだと言っていた。背すじが凍る一言だった。
バイクで家へ戻り、酒を飲んで寝た。
この作品と同時代を生きる者として、できるだけ多くの人々に観てほしいと願わずにはいられない一作
2022年のロシアによるウクライナ侵攻は多大な犠牲を払いつつ現在も続いています。ウクライナ侵攻直後に激戦となったマリウポリの状況を、現地にとどまったAP通信の記者たちが、文字通り命がけで取材して得た映像が、本作を構成しています。
大局的な情報は一切省いて、一般市民、そして記者個人の視点でとらえるマリウポリの状況は筆舌に尽くしがたく、おそらく配信での視聴だと最後まで観通せないのでは、と思うほどでした。
病院や住宅ですら無差別に攻撃を受ける状況を前に、怒りを覚える以前に恐怖心で体がこわばり、作中の証言者が語っていたように、「今観た記憶を脳内から消したくなる」感覚に陥ります。
彼らが20日でマリウポリから脱出したことは知ってはいても、日付のカウントがあまりにも遅く感じ、「はやく20日間経ってほしい」と思わずにはいられませんでした。しかし監督も語っているように、ここに生きる人たちの苦しみは20日間なんてものではないんですよね……。
今現在ウクライナやガザ、そして世界各地で起きているであろう悲劇から目をそらさないためにも、非常に辛い映像であることは承知の上で、できるだけ多くの人々が観るべき映画であろうと思いました。
本作でアカデミー賞長編ドキュメンタリー部門を受賞したミスティスラフ・チェルノフ監督の、「こんな作品でアカデミー賞を獲得したくなかった」という発言は痛切です……。
暗く辛い
初めて感情移入をしてはいけない、と自分自身に訴えかけながら観た映画。
惨い、惨すぎる。
神もヒーローも現れない特撮映画の様だった。
市民が生活を送っていたマリウポリの街はあっという間に戦場となり、本物の血が流れる。
戦争が始まりしばらく経過したことで、ウクライナへの意識が薄れつつあったが、改めて彼らの事を想わなければならないと思わされた。
凄絶な戦争被害のドキュメンタリー
負傷して命を落とす人、破壊される建物、喪われていくインフラ等、戦争の凄惨さを伝えるドキュメンタリー映画。中盤で女性の上着の中に抱かれた小型犬が、全身でガタガタ震えていたのが印象的だった
ウクライナ戦争の始まりの頃、地下室で「私は死にたくない…」と泣いていた少女も、このAP通信社のスタッフがとらえた映像
「この戦争、どうなると思う?」と問いかけられた40歳くらいの女性が、ロシアが勝って早く戦争終われと恐ろしさのあまり口にするかと思ったら、「戦争は終わってほしいけど、ロシア人にはなりたくない。ウクライナ人として生きたい。ただ普通に暮らしたい」と怯えながらも決意を込めて答えていた姿に、とにかく戦争の残酷さに怯えて映像として見ているだけの傍観者の自分を恥じた
ドキュメンタリーだが、音楽も付き、所々ナレーションで説明もあり、編集もなされているので、主観的すぎてよくわからないということは無い
ただ気になったのはドローン撮影なのか、マリウポリの街が次第に廃墟と化していくのが分かる上空からの俯瞰映像が所々に入る点。民間人でも狙撃されてしまうような戦場で、ドローン撮影可能なのでしょうか
(こういう点がロシア側がフェイクニュースだ、と決めつける点なのでしょうけれど)
映画冒頭は美しい東欧の街だったのが、ラストシーンはまともな建物など無い、煙をたてて燃える廃墟の市街地が広がっていました
現在はロシアが統治しているマリウポリ
破壊の限りを尽くされた市街地をこれから復興しようにも、瓦礫の下から名も無き犠牲者たちが次々と発見されることでしょう
名前が分からずただ数字のみが記されただけの粗末な墓標が建てられた丘、溝を掘って遺体をそのまま投げ込むしか手段がなかった集団墓地…
この映画が触れることがなかった、マリウポリ製鉄所で最期まで戦ったウクライナ兵士たちもいました
こんな悲劇がまだ何処かで繰り広げられてると思うといたたまれません
紛争解決手段として戦争することの非道徳性の記録
作品の中でも語られますが、"見るに堪えない"映像の連続です。しかし、同時に人類必見の映像だと感じました。
子供が傷つき、亡くなっていくシーンには涙が止まりませんでした。
ウクライナ人のAP通信記者が、ロシアによる激しい侵略行為開始により、ほとんどの報道関係者が去ったウクライナの都市マリウポリで、20日もの間現地に留まり記録した映像を、記者本人のナレーションとともにまとめた作品です。
現地での取材開始後、初めて会話した民間人(第一村人)の老女から、ロシア軍の攻撃が怖いがどうすればいいか教えてほしいと問われた記者は、「民間人は攻撃されないから自宅に戻るのが良い」と回答。しかし、ロシアは民間人やその住宅も無差別に砲撃。まさかそんなことをする国家などあるわけがないという前提が崩れさりました(ロシアの異常性が明るみに)。
誤ったアドバイスをしてしまった後悔や、後日出会うことができた老女から自宅をロシア軍に破壊されたことを聞き誤ったアドバイスをしたことを謝罪したことが語られます。
その後映し出される数々の被害者の姿は、まさに見るにた堪えません。ドラマ「コード・ブルー」のような緊急案件が、本当に連続して起きるのです。
戦争に至るまでに、その意志決定や準備に関わる人(有権者、政治家、軍需産業従事者)には視聴を義務付けてほしい作品です。
作品が進むにつれて、攻撃してくるロシアに対する憎悪が増しますが、もう一つ憎むべきことが出てきます。
戦火の混乱に乗じて、ほぼ無人になった街で盗みを働く人間が出現するのです。憎しみを外に向けるだけでなく、内にも向けなければならない悲しさ、虚しさ。
当地の医者は、戦争をX線(レントゲン)に例えて、「こういう場面に遭遇したときに善人は善行を行い、悪人は悪行を行う。そうした人間性を映し出すのだ」と言ったそうです。
作品後半では、自宅を破壊され、全てをあきらめて、リアカーを引いて無装備かつ徒歩で避難する男性が出てきます。彼は、ポジティブな可能性を全てあきらめざるを得ない状況ですが、その中でもできる最大限の努力と生き残るための賭けをしているのだと感じられ、私には彼に対する強い尊敬の念が生まれました。
戦争が情報戦であることも作品を通じて強く訴えられます。
ほとんどの人はロシア化など望んでいない様子でしたが、あらゆる情報網を遮断された市民の中には、マリウポリでの攻撃をロシアではなくウクライナ自身が行っているなどという荒唐無稽な話を信じている人がいました。
記者がロシア軍に捕まるようなことがあれば、強制的に映像データがフェイクだと言わされるだろうから、なんとか無事に紛争地域を脱出して、世界に映像とそれが映し出す現実を届けてほしいと願う現地の協力者たちもいました。
作品の最後には無事当地を脱出したことが語られる一方、大勢の取材対象者を現地に残さざるを得なかったことに対する罪悪感などが率直に語られます。
この感覚は、テレビ番組「徹子の部屋」で、第二次世界大戦の経験者が語る、当時の疎開とか、兵役を通じて生じた人と人との別れと共通するんだろうなと感じました。
咀嚼できない
本格的なドキュメンタリーは初めての鑑賞です。
鑑賞前に飲酒していて体調が万全でなく、本作を観るには自分の心構えが不足していたと反省しています。
市民たちの声は悲愴で、医師たちの声は鋭く強烈な印象に残っています。
途中何度も涙がでますが、共感や感情移入というよりも、ただただ衝撃的で驚愕したためのような気がしています。
戦車の砲口がこちらを向こうとするところは内臓がキュっとなりました。
正直をいうと、本作をフェイクだとは思わないにしても、リアルだとも感じられなくて、フィクションだといわれても納得できてしまいそうな自分がいます。
これを観た後、自分が何を行動できるか見当もつきませんが、ひとまず赤十字への募金は続けようと思いました。
あまりにも知らなさすぎた現実を見て
どう感想を残したらいいか分からない。
とにかく悲しかったし、怒りが湧いた。
せめても涙を流さずに最後までしっかり観ようと努めたけれど、あまりの理不尽さに涙が溢れて、胸が苦しくなった。
劇場内の人も、みんな泣いていた。
同じ時代に生きて、こんな戦禍にある場所もあるのに、それを知りもしようとせず平和ボケしていた自分が恥ずかしくなった。
そして今はそんな気持ちなのに、この現実を知っても数日経つと、またいつもの日常の中で、ウクライナの現状を憂うことが薄れていくんだとも心のどこかで分かっている。
どうしたらいいんだろう。
知ること自体が大事だとよくいうが、知るだけでは胸がかきむしられる想いにただただなるだけだ。
この記者の人が、娘から「この戦争(マリウポリ)のために何をしたの?」と聞かれた時に、何と答えられるだろうか、何を伝えられるだろうか、と
触れる場面があった。
自分はこの現実を見て、何ができるだろうか。
ただただ忘れずに祈ることしか今は思いつかない。
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