顔を捨てた男のレビュー・感想・評価
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捨てる顔あれば拾う顔あり
言いたいことは分かるのだけど、引っ掛かりが多過ぎて刺さらなかった。
序盤はイングリッドとの出会い以外は語ることもなく、非常に退屈。
顔が治るまでに苦しむ描写は要らないし、それこそモロに特殊メイクを剥がしてる感じで興醒め。
だったらエドワードの生きづらさやイングリッドに惹かれる様子をもっと描いてほしい。
せっかく顔が治ったのに、イングリッドにアプローチせず別人として生きるのも理解できん。
下地もなく数年で不動産営業として成功するのも舐めすぎだし、そもそもどうやって身分偽ってるの?
オズワルドが出てきて少し面白くなるし、同じ“顔”への捉え方の対比というのも分かる。
でもいくらなんでも彼への偏見なさ過ぎないかな。
何でも出来る上に金まであり、エドワードに対しても一切の悪意なく気遣ってくれて…
ここまでくるとファンタジー感が強くて、寓話としてもあまりに極端。
「劣等感なんて必要ない、前向きに生きてればみんなあなたを好きになる」みたいな楽観思想に見えてしまう。
イングリッドは脚本に動かされてる印象で人間味を感じないし、主人公に共感も同情もできない。
終盤に刺すべき相手はそいつじゃないし、台詞で「変わってない」なんて皮肉オチも直接的で捻りゼロ。
天井の破損が伏線なのかメタファーなのか最初の方では分からないし、意味の判然としない描写も多数。
なんだか喩えにならない下手クソな喩え話をずっと聞かされた気分です。
救いが無さすぎる
ルッキズムなんてダメ!話し合えば人間なんだし、多様性の世の中だよ。それが、理想。わかる。
見た目が大事、人は見た目、それがストリートだ!
良いとか悪いじゃ無くてこれが、これが現実でリアルなんだ。
と、逃げる事無く、躊躇することすらない作品であったと感じた。
そして、世間にその貼られたレッテルを、なんとも思わないか、被害者となるか。
この時点で始まる事が、本質なんだと感じた。私だったら、後者だろうし、もう共感してました。いや、ムカつくよ。取られたと思うよ!老害とか言われる世の中だよ。持ってた物が大事じゃなかったのに、それを取られて良く使われたらそりゃ、悔しくてしょうがないだろう!
私は、包丁までは持ち出さないにしても。いや、どうなのだろう。
嫉妬、憎悪、妄想、これは始まった時から決まっている。
変わってないなーと言われることに絶望した。
人生の歯車が大きく狂っていく様子が何だか他人事に思えず
ちゃんとオチてる?
野獣、その後
野獣は王子様になり、お姫様と結ばれてめでたしめでたし、と思いきや。。
理想の外見を手に入れさえすれば人は幸せになれるのか?というのがテーマですかね。
エドワードは野獣の顔を捨て、新たな顔を手に入れましたが元のシャイでやや卑屈な性格は変えられなかったのが敗因?
オズワルドは野獣ですが性格は自信たっぷりでおしゃべり好き、自己開示力に優れており出会う人皆がオズワルドを好きになっていく。
私、エドワードの性格は嫌いじゃないですけれどね。
むしろ容貌関係なく、オズワルドみたいに初対面からグイグイくる方が苦手かも…
アメリカではミステリアスなイケメンてだけじゃ人の心を掴めないのでしょうか。
イングリッドは移ろいやすい人心をやや誇張して書かれたキャラクターですが、コロコロ変わるあり得ない言動もなぜか説得力がありました。
男性におけるルッキズムについて新しい知見が得られるかなと思って鑑賞しましたが、もう少し掘り下げて欲しかったようにも思います。
セバスチャン・スタンの特殊メイクと、メイクの下から覗く自信なさげな演技、さらに変身後の陰のある演技が大変良かったです。
経営者として見た再起と信頼の再構築
『顔を捨てた男(The Man Without a Face)』は、過去の事故によって顔に大きな傷を負い、社会から孤立した男と、落ちこぼれの少年との交流を描いた静かなヒューマンドラマだ。監督・主演を務めたメル・ギブソンの演技と演出には、孤独や再生への強いメッセージが込められている。
経営者としてこの作品を観たときに感じたのは、「一度失った信頼をどう取り戻すか」というテーマの重さだ。主人公のマクラウドは、事故の真相や過去の噂によって偏見にさらされているが、少年との関わりを通じて“信頼”を取り戻していく。その過程は、まさに企業や個人が再起する際の「信頼の再構築」と重なる。
たとえば、私たちが展開を検討しているグローバルワークスという事業においてもそうだ。海外進出や外国人との協業では、過去のやり方が通用しない場面が多い。文化や言語の壁を越えて相手に信頼されるには、「誠実さ」「結果」「継続的な姿勢」が必要になる。マクラウドもまた、少年に対して一切媚びず、まっすぐに向き合うことで信頼を勝ち取っていく。
また、この映画は「ラベルを貼る社会」への警鐘でもある。顔に傷がある、過去に噂があるというだけで排除される理不尽さ。経営の現場でも、経歴や学歴、国籍といった表面的な要素にとらわれすぎて人材を見誤るリスクがある。グローバルワークスのように多様な価値観を持つ人々と協働する事業では、「人の本質を見る力」が問われる。
『顔を捨てた男』は、派手な展開があるわけではないが、一人の男が「過去を受け入れ、未来を築く」プロセスを丁寧に描いている。経営者として、どんな状況でも人の可能性を信じ、再起を支える姿勢を忘れてはならないと強く感じさせられた作品だ。
Contents
A24作品はここ最近不発続きで、今作への期待値もそこまで高くは無かったんですが、セバスチャン・スタンが出てるならなんとかなるかも…?というところに期待を込めて鑑賞。
そんな事はなかったです。いつもの苦手なA24でした。
顔に変形を持つエドワードが治験を受けて全く違う顔を手に入れて人生をやり直していく…といった感じの作品で、決してハッピーな方に行く事は無いだろうなと思いましたが、それでもそういう方向に向かってしまうのか…という期待外れな感じが個人的にはありました。
性格が大人しいからこそ普段の生活で自分をあまり出せないエドワードが隣人に優しくされたりしながら些細な変化があるのかなと思ったら本当にジャブ程度なのでもっと深掘りしてほしかったなーとは思いました。
エドワードもといガイをそこまで辱める必要性はあったのか?ってくらいオズワルドが登場してからの展開は苦しいものがありました。
エドワードと同じように顔に変形を抱えているオズワルドは出会いの時から自身満々で陽気に振る舞っており、事あるごとにエドワードに近づいてきたりと相反する性格のキャラクターを描きたかったのは分かるんですが、シンプルに絡みすぎてウザいというのが強かったです。
顔を変えたはずなのに元の顔に執着してしまったがために、変形した顔の男の舞台にそのまま出てしまったり、かと思いきや変形した顔のまま過ごしているオズワルドに全てを奪われていき、脚本家のイングリッドもオズワルドの中身と見た目にどんどん惹かれていくという中々にNTRな展開に転がっていってしまいます。
ここではイングリッドの中身の薄さ、都合が良すぎる考えがかなり嫌いで、そのせいもあって絶対にガイの方が良いだろうとガイ応援隊になっていったのでその後の展開には目も当てられず。
全体的に演劇に繋がる描写がご都合すぎるのも個人的には引っかかりまくりでした。
ガイとしての個人の戸籍をどこで手に入れたのか、まずエドワードの顔面手術の内容がどこから漏れたのか、なぜオーディション会場に吸い込まれるように入っていったのか、オズワルドはなんで勝手に入ってきて受け入れられているのか、偶然とはいえそんなにオズワルドと会えるか?とか作品内のコミュニティが狭すぎるのが違和感につながりっぱなしで仕方なかったです。
まぁガイ自身も立ち振る舞いにそこそこ問題があり、自暴自棄になって自分の元の顔の仮面を被って仕事をしたり、職場で大暴れしたり、演劇に突撃してセットに叩き潰されたりと惨めな目に見事に遭っていてうわぁ…ってなりました。
ルッキズムをメインテーマに据えた作品では直近に「サブスタンス」があり、あちらはエンタメ極振りかつ、整形をする、もとい自分の体を必要以上に弄る事に対しての極端なまでのアンサーを叩きつけてくれていたのに対して、今作は顔を変えたとしても元の顔に縋りたくなるという逆転現象を描いてはいるのですが、どうにも要所要所が淡々としつつ、それでいて内容が回りくどいというWパンチが個人的には相性が悪かったです。
終盤の展開もまぁ蛇足かなといった感じで、介護士をブッ刺して刑務所にぶちこまれたり、出所したかと思ったら偏屈な爺さんに絡まれたり、また偶然オズワルドと会って飯に誘われて引っ越すことを伝えられて、オズワルドの何気ない一言が悪意全開に聞こえて笑って終わるという、この一連の流れでエドワードが何も報われてないのが本当に心苦しかったです。
整形しても良いことは無いという痛烈なメッセージとしても受け止められますが、全体通しても辛気臭い作品だったというのが最終的な印象です。
役者陣の演技やメイクあたりは良かっただけに残念。
鑑賞日 7/14
鑑賞時間 13:10〜15:05
放題はどうなの?
捨てるものを間違えたね。
当事者の気持ちを上手いこと表現しているし第三者の思っている事もよく捉えているね。
色々捨てたかったり手に入れたかったりするけどそんなに簡単に行かないのが人生。
誰もが考えた事があるテーマに向き合い問いかけた作品。
ガガ様のお言葉が全てやね。うん。
まぁ自分の事をキッチリ理解出来たら悩んだり苦労することもないからな。
観ている人にも問うてるよね。顔が醜いのか心が醜いのか自分に無いものを持っている人に思う妬みなのか。
そして本当の自分とは何かを。
現代に語られがちなテーマを極端に示す「A24らしい」攻めの作品
本作における演技が評価され、第74回ベルリン国際映画祭銀熊賞(主演俳優賞)と第82回ゴールデングローブ賞最優秀主演男優賞に輝いたセバスチャン・スタン。続く第97回アカデミー賞においても『アプレンティス ドナルド・トランプの創り方』で主演男優賞にノミネートされており、大変に好調なキャリアを積んでいて見逃すわけにいかず、サービスデイのヒューマントラストシネマ有楽町にて鑑賞です。
顔に出来た腫瘍が大変に悪化し、自身の視野を遮るほどに奇形に腫れあがったエドワード(セバスチャン・スタン)の顔は、周囲を思わず戸惑わせるレベル。その為、普段から無遠慮な視線に晒されたり、不必要に絡まれたりが茶飯事と感じている彼は、極力に他人との関係を避け、常にビクビクしながら生活しています。手の施しようがない病状に、医師はいよいよ「新薬」の試用を提案しますが、副作用を怖がって消極的な姿勢を崩さないエドワード。ところがある日、引っ越してきたばかりの隣人・イングリッド(レナーテ・レインスベ)はチャーミングで人懐っこく、頑なだったエドワードさえも「可能性」に賭けてみたくさせるような存在。と言うことで、意を決して治験を受けることとなるエドワードですが、医師ですら想像を超える劇的効果の結果、「違う顔」を手に入れることになった彼は密かに過去の自分と決別し、“ガイ”と名乗って生き直しを始めます。ところが、イングリッドとの「一方的」な再会をきっかけに、過去の自分を彷彿させる容姿のオズワルド(アダム・ピアソン)の出現など、結局は「過去の自分“エドワード”」に縛られ続けるガイの人生はその後、思わぬ展開が待ち受けています。
ルッキズムをベースに、相手、或いは自分自身に対するアンコンシャス・バイアスが「より極端な形」で描かれる本作。売れない役者だったエドワード自身、このテーマを啓蒙するための「企業向けトレーニングビデオ」に出演していますが、その制作現場での立場を見れば、結局都合に合わせて「消費」されているだけの存在です。
ところが、突如現れる「気になる存在」の出現に浮足立つエドワード。相手に対し自分を如何に良く見せようかと数少ない手札を切り始めますが、そもそも社交性とは対極にいた彼は、自身の「突然変異」が功を奏して俄かにモテ始めるものの、デビューが遅くて下地のない彼はいつまでも自我を捨てきれない「中二病」。更には、そんな自分を形成することの「言い訳」で「防波堤」でもある過去の容姿を、真っ向から否定するオズワルドと言う存在は、本作最大の意地悪さを感じる決定的なアイロニー。最早二の句が継げないほどの突き放し方に、観ているこちらも大変に居心地の悪さを感じます。
本作もまた「A24らしさ」溢れる作品性で、一般的に言う面白さとはそもそも角度が違いますし、観る人によっては「全く刺さらない」或いは「深く刺さり過ぎて辛い」など、賛否両論にまちまちな評価もやむを得ないと思います。かく言う私も正直どう評価をつけるか困りましたが、衝撃的な特殊メイクと、容赦ないアンチテーゼで語るメッセージ、そして難しい役どころを見事に演じるスタンの凄みなど、見どころは多いと思います。
エレファントマンもどきかも‼️❓
サブスタンスのほうが面白かった
これって、ルッキズムの話という解釈でいいのかな。
その解釈でいえば、先日みたサブスタンスのほうが面白かった。
見た目の美醜よりも、心の持ちようで幸せになれるんですよ、って話?
そう単純でもないと思うけど。
映画としては終始もぞもぞしたかんじでちょっと退屈してしまった。
そして、最後まであの女性の気持ちがよくわからなかった。
A24にしては正当なスリラー
A24作品だが、面白かった。見にくい顔だった俳優志望のエドワードが、手術によって顔が元に戻った矢先、順風満帆にいくかと思いきや見にくい顔のオズワルドとの出会いでエドワードの運命が変わる。エドワードの人間模様が見事。A24スリラーにしては怖くない。ただ、終盤はちょっと強引すぎる印象を受けた。悪くはない。初めてのセバスチャン・スタンだが、彼は演技がうまい。これから台頭するだろう。
外見よりも中身が大事ってことであってる?
2025年劇場鑑賞206本目。
エンドロール後映像無し。
チラッとみた情報で、普通の顔の人の所に自分そっくりな男が現れるみたいな感じでしたが、どこが似とんねん!と思いましたし、顔がない男 とタイトルを勘違いしていたのもあって いや顔ないどころか主張強すぎる顔ついとるけど?と思ってみたら全然違ってました。
この映画を観て連想したのが、エレファントマン、芥川龍之介の鼻、逆サブスタンスでした。エレファントマンのジョンは心がとても綺麗でしたし、鼻の和尚は1回巨大な鼻が小さくなって、それが戻った時に安堵しましたし、サブスタンスはこの映画の真逆だなと。ただ、この映画の主人公は残念ながら上記の作品の主人公のどれにも当てはまらず、それ故に展開される物語は見た目より心だよ、とめちゃくちゃ陳腐なテーマを語っているようにしか思えませんでした。もっと深いテーマがあるのなら教えていただけると嬉しいです。
すごく面白い
あとから現れる顔が崩壊しているオズワルドの人柄が最高にポジティブで、やっぱり人柄だなとしみじみ思う。人柄がよくそして、気分がいいこと、確かに彼は投資で成功してお金の苦労はしていないと言うが、あの人柄なら貧しくても楽しく暮らしているのではないだろうか。
主人公はそもそも悪い感じはなかったのに、オズワルドの人柄がよすぎるせいで揺さぶられて狂っていく。それはそれで気の毒だ。
もし自分があの外見でほがらかにいられるかと言うと無理だ。つらい。
テーマの扱いがあまりにも迂闊で、エンタメ性に乏しく説教臭い
【イントロダクション】
極端に変形した顔を持つ男が新薬の実験によって新しい顔を手に入れるが、かつての自分に似た顔の男が現れる事で人生の歯車を狂わせていく不条理スリラー。
主人公エドワードの変形した姿と変身後の姿を『サンダーボルツ*』(2025)のセバスチャン・スタンが演じる。かつてのエドワードに似た容姿を持つ男オズワルドには、実際の神経線維腫症の俳優アダム・ピアソン。
監督・脚本は新進気鋭アーロン・シンバーグ。
【ストーリー】
神経線維腫症の俳優エドワード・レミュエル(セバスチャン・スタン)は、その特異な容姿から社内教育ビデオ等に出演しながら生計を立てている不器用ながら心優しい男。
ある日、自宅のアパートに劇作家志望の女性イングリッド(レナーテ・レインスヴェ)が越してくる。最初はエドワードの特異な容姿に驚くが、2人は次第に親しくなっていく。エドワードの中にはイングリッドへの恋愛感情が芽生え始めるが、自信のなさから行動に移せずにいた。
そんな中、治療の経過観察で病院を訪れた際、医師から開発段階の新薬による治療を提案される。エドワードは治療を受け、次第に顔の皮膚が少しずつ剥がれ落ちながら回復していく。そして、遂にある晩を境にエドワードは新しい顔を手に入れて完全回復する。
エドワードは新しい自分を“ガイ”と名乗り、自宅に訪れた医師に「エドワードは自殺で亡くなった」と嘘を吐き、過去の自分を捨て去る。
しばらくして、ガイはその端正な容姿を生かした不動産販売の営業で成功を収め、裕福な暮らしを手に入れていた。
ある日、彼は偶然街でイングリッドを見かけ、彼女の後を追って舞台のオーディションに参加する。彼女が手掛けた脚本は、かつての自分との体験が如実に反映されたものであり、ガイは「自分の為の役だ」と思いながら演じ、主役に抜擢される。
かつて医師から新薬の治療の際にもらったマスクを付けて稽古に参加するガイだったが、稽古中の劇場に、かつての自分と似た容姿を持つ神経線維腫症の男オズワルド(アダム・ピアソン)が現れる。
オズワルドは社交的な性格ですぐに周囲の人々と親しくなっていくが、ガイはそんな彼の姿に次第に嫉妬心を募らせていく。
【感想】
まるで70年代作品のリマスター版を観ているかのような、意図的に画質を少々荒くしたルック、ジャズミュージックに彩られた雰囲気自体は良い。
しかし、「美醜」というデリケートな問題を扱っていながら、あらゆる面において迂闊な印象を抱いた。
似た題材として、今年はデミ・ムーア主演の『サブスタンス』も公開されたが、年齢による“衰え”という「美醜」を扱い、痛快なまでのエンタメ性をも盛り込んでいた『サブスタンス』と比較すると、本作はよりダイレクトな“見た目”の「美醜」というデリケートな問題を扱いながらも、エンタメ性に乏しく説教臭く感じられ、エドワードに降り掛かる様々な不幸が、単に彼の「自信の持てない性格」を責め立て、惨めにさせるばかりのように感じられた。ブラックユーモアという単語で表現するには、あまりにも鼻持ちならない。
また、上映時間に関しても、あちらが140分に対してこちらは112分なのにも拘らず酷く長く感じられた。
本作は、見様によっては「美容整形や薬剤治療によって、自分の容姿を修正する事は悪である」と言っているようにすら感じられてしまうのだ。なぜなら、エドワードは俳優としての仕事をこなし、人々からの好奇の目に耐えながら、慎ましやかに生活している紛れもない善人だからだ。彼の「自信のない」性格も、自身の病状によって形成されていった後天的なものであるだろう。
そして、そんな生活の中で公園で恋人とデートする男性を羨ましく思う事も、恐らく初めて自身に優しく接してくれた女性であるイングリッドに恋心を抱きつつも、自身の容姿から踏み出せずにいる事も、ごく自然な反応のはずだ。
だからこそ、彼はリスクを伴う新薬による治療を受ける決意をしたのだ。
作中、「辛いのは、本当の自分を受け入れないから」というレディ・ガガの人生観に関する台詞が引用されるが、「ありのままを受け入れて、自信を持って生きていく」事が人生なら、「ありのままの自分から変わって、自信を持てるようになりたい」と願う事もまた人生ではないだろうか?美容整形や薬剤治療とは、その為に存在しているのではないのか?
これが、エドワードがイケメンに生まれ変わった事で、周囲に対して傲慢に振る舞うようにでもなっていれば、オズワルドとの出会いで破滅していく様にも説得力が生まれたと思う。非モテを拗らせて山ほど女性に手を出すとか、営業成績で自分に勝てない同僚を見下す等だ。だが、エドワードはガイとなってからも、根底にある「自信のなさ」を払拭出来てはいない。一度形作られた性格は、容易には変えられないのだ。
そして、本作のラストで、エドワードはオズワルドから「君は変わらないな」と言われてしまう。オズワルドに悪気はないが、我々観客にとっては、この台詞は痛烈な皮肉として突き刺さるようになっている。先述した、まるで「容姿を変化させる事は悪」だと感じられるような作品全体の主張に対して、「性格を変える事は善」だと言っているようにも聞こえる。最後まで変われなかったエドワードに対して、「変われば良かったのにね」とトドメを刺しているかのようだった。
そもそも、オズワルドはエドワードの対比とはならない人物なのだ。オズワルドは若い頃に株で大当てしたからこそ、就職せずに趣味に没頭出来、それ故に様々な技能を獲得している。仕事をこなしつつ慎ましやかに生きてきたエドワードとは、人生のコースがそもそも違うのだ。それは、本作の原題である『A Different Man(違う男)』というタイトルにも現れている。監督の狙いとしては、そうした別人に自己投影して嫉妬し、破滅していく様をこそブラックユーモアとして描いたのだろうが、極端過ぎるオズワルドのキャラクターは、現実味が無さすぎてかえってエドワードを惨めにさせるだけのキャラクターになってしまっている。
また、エドワードがオズワルドにかつての自分を重ねて破滅していく以上、エドワードにとってオズワルドは「別の世界線の自分」なのだ。そういう意味では、エドワードとオズワルドを対比させる事は必要不可欠になってくる。だからこそ、オズワルドはあくまで「容姿のせいで辛い経験もするけど、それでも明るく生きた方が楽しいよ」というバランスのキャラクターに留めておくべきだったのではないだろうか。例えば、バーで歌を披露するシーンも皆が皆彼の歌に聴き入るのではなく、野次を飛ばす人間だっているのが自然だ。だが、オズワルドは持ち前のポジティブさで野次にジョークで返して爆笑をさらう等だ。エドワードが善人であり続けた以上、オズワルドの存在によって極端に惨めな思いを経験すべきではなかったのだ。
本作の狙いを的確に表現するならば、あくまでエドワードは自らが育んできた歪んだ自意識や嫉妬心から、周囲の善意や真意を受け取り損ねて破滅していく物語にすべきだっただろう。
また、一晩で劇的に顔立ちが変わってしまった以上、周囲に自分の正体を告げられないのは「信じてもらえないかも」というマインドが働くのが当然なので、徐々に変化させて周囲に変貌を周知させた上で、その上で尚も過去の自分に対する未練を捨てられずに破滅させるべきだったのではないだろうか。
勿論、エドワードにも問題はある。過去の自分を捨て去って、ガイとしての新しい人生を手に入れたのだから、イングリッドを追う事はせずに、新しい人生を謳歌し続けておけば良かったのだ。しかし、このイングリッドという存在こそが、本作の癌であり、ヴィランであるとすら言える。彼女の存在があるからこそ、エドワードは被害者だと言えるのだ。そして、本作の女性の描き方には、アメリカの抱えるミソジニーの歴史が深く根ざしているように感じられる。
【イングリッドという女性に見る、アメリカンミソジニーの歴史】
劇作家志望のイングリッドは、エドワードと親しくなりつつも、恋愛対象としては見ていない。それは勿論、彼の特異な容姿が原因だからだ。一見親しくなりつつも、イングリッドはエドワードが自室での社内教育ビデオ鑑賞の際に恋愛ムードを醸し出した途端、彼の部屋を後にする。これが、エドワードの中で「やはり、容姿が優れていなければ」という思いを強化させたはずだ。
しかし、この時点では、まだ私はイングリッドを悪く言うことはしない。男女の仲になる以上、性格や経済力、そして容姿は立派な判断基準となるからだ。それは、綺麗事では済まされない事実である。
問題なのは、イングリッドがガイと恋仲となり、肉体関係になった際のやり取りだ。彼女は、ガイにマスクを付けて挿入するよう指示する。しかし、彼女はかつてのエドワードのマスクを「やっぱり無理。間抜けに見える」とバッサリと突き放す。これにより、ガイは決してイングリッドに自分の正体を明かす事は出来なくなってしまう(本人に明かす気があったかは定かではないが、作劇としての可能性は潰されたのだ)。
しかし、オズワルドの登場によって、イングリッドは自身の考えを改め、手掛けていた脚本を書き直したり、仕舞いにはオズワルドとは結婚して子供を儲けている。本来、その役割は自分自身を取り戻した(それこそ、薬剤の効果が切れて元の自分に戻ってしまった)エドワードが担うべき役目だったはずだ。しかし、エドワードが全てを失っていくのに対して、イングリッドは全てを手に入れていく。そして、そんな彼女の姿に、観客は少なからず悪印象を抱くはずだ。
こうして、観客の悪印象の矛先を、完璧超人として描かれているオズワルドではなくイングリッドに向けさせる巧妙さに、ハリウッドの抱えるミソジニーの歴史が垣間見える。
先日、内田樹著『映画の構造分析-ハリウッド映画で学べる現代思想』という著書を読んだのだが、その中の項目にハリウッドの抱えるミソジニーの歴史についての項があった。そして、本作のイングリッドの立場は、まさしくそこで言及されている「男を誘惑し、自己実現を妨げる悪役(意訳)」という特徴に当てはまるのだ。
アダム・ピアソンという神経線維腫症の俳優(しかも男性)の扱いには配慮しつつ、全ての貧乏くじをイングリッドという女性キャラに巧妙に背負わせるのは、製作側の根底にあるミソジニー意識の発露に他ならないだろう。また、こうした配慮こそが作中で指摘された“ポリコレ”ではないだろうか。
【総評】
「美醜」というデリケートな問題を扱いつつ、その描き方のズレから酷く退屈で説教臭い印象を受ける作品に陥ってしまっていた。
ただし、セバスチャン・スタンとアダム・ピアソンは好演しており、その一点においてのみ、本作の点数が辛うじて担保されている。
顔を捨てた男(映画の記憶2025/7/12)
原題がa different manということがわかると広告とは違った意味合いが引き出される。邦題の顔を捨てた男はそのままではあるが・・・・。ということで原題で認識して観に行くと良いでしょう。コンプレックスの塊で真面目な男が普通になったらどうなるプレイというストーリー。
俳優の演技的には個人的には引き込まれるものがなかったので割愛。
特殊メイク技術力と美術力はすごいなぁと感心。この作品の肝ですな。突っ込みどころは満載脚本のため、人によっては受け付けない箇所はありそ。人生は楽しんだもん勝ちというところは賛成かな。結構重い話かと思ったが案外軽い設計だったなと。
最後の方でチープなB級ホラー感が漂ったのと最後の〆があれはという・・・万人受けはしないだろうな・・・。自分はこれを作った人間に対してホラー感を感じて終わったな・・・。
(個人的評価5.5点/10点中)
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