顔を捨てた男のレビュー・感想・評価
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唯一の
ウィークポイントと思っていたことをクリアにして
万事最高の人生が送れると思いきや
自身がウィークポイントだと思っていたことが
ストロングポイントでありむしろ他者にとっては
ニードされるポイントだった。
と言うことはよくある話で、主観・客観の持ち様だが
本作が伝えたかった部分はそこでは無かったはずだ。
きっと本作が伝えたかったことは
ウィークポイントとストロングポイントの有無と解決
ではなく、このウィークポイントを持っていようが
開き直り声高に自己主張ができるものの悪辣たる強奪
の事実で、正にそれが罷り通る世
であると言う事実だろう
今の世の中は、正にその真っ只中にあり
控えめで、奥手な人間には生きにくい世
であると言うこと
だろうと思う◎
A24が紡ぎ出し届けてくれる作品は常に
脇腹を抉って来るようなぁw
ざっくり言っちゃうと
高尚な感じがしますが
まあ
ざっくり言っちゃうと
「見てくれより社交性」
という教訓話なのね。
(ざっくりし過ぎだぞ)
と、身も蓋もない気分です。
(このお話で大衆性をくわえていくと「トワイライトゾーン」(TVシリーズの方)に出てきそうですね。
元に戻らない「サブスタンス」
「サブスタンス」に近い印象です。あちらは、謎の薬とずっと付き合わないといけない状況で、元の自分と変わった自分がトラブルを起こす話ですが、こちらは謎の薬が1回で効いたので元に戻ることはなく、元の自分を捨てて見た目のいい新しい自分で生きようとし、それで成功がつかめると期待していたら、元の自分と似た見た目なのに、それを卑屈に思わない男が登場し、その彼がもてはやされることに嫉妬して、ドツボに、はまっていくという話。どちらも見た目が解消したのに、欲張ったために自滅していくという点は共通していますね。日本昔ばなしや、イソップ童話にありそうな話だと思いました。
もう1人の彼の役割は、自分が思うほど、他人は見た目を気にしていない、見た目よりも内面で人付き合いって成り立つということを示しているんだと思いました。
拍手をよろしく
こないだ鑑賞してきました🎬
容姿を気にし一歩踏み出せない男が、試験薬によって新しい顔を手に入れる話。
※久々に映画を通常価格でみましたが、2000円は高いですね😔
主人公エドワードにはセバスチャン・スタン🙂
新しい顔になってからの彼を演じますが、音に敏感なのは昔のまま。
誰しもそうだと思いますが、外面が変わったからといって、内面も急に変わるわけではありません。
そこへ、捨てたはずの自分とそっくりな顔を持つオズワルドが現れ、彼は動揺を隠せなくなります。
ここからはスタンの真骨頂でしたね。
段々と憔悴していく演技は引き込まれました🤔
隣人イングリッドにはレナーテ・レインスヴェ🙂
エドワードにも分け隔てなく接する彼女に、彼が惹かれるのもわかります。
一方で、捨てた男は数しれずとは本人の弁。
二面性にも思えますが、誰しも長所と短所がありますからね。
その辺りの微妙な雰囲気は、うまくでてました😀
オズワルドにはアダム・ピアソン🙂
彼は自分の容姿を気にしすぎず、誰にでも気さくに話しかけ、人前で歌ったり。
それを複雑な表情で見つめるエドワード…ここは一つのハイライトでしたね😀
ピアソンの演技は手堅く、役に深みを与えてました。
A24作品なので期待してましたが、後半はやや駆け足な印象🤔
エドワードとオズワルドがなぜ出会ってしまったのかも、明かされず。
(私が理解してないだけかも)
しかし映画的な面白さは健在で、余韻が残るラストもこれはこれでありでしょう。
私は
「エレファント・マン」
を意識していると感じました🤔
まさに不条理スリラーというべき1本です👍
いいね。 サブスタンスとは別のアプローチ 本人のキャラが強く、人に...
演技派セバスチャン・スタン
A24割と外れなしだけど…
セバスチャン・スタンの役の振り幅よ
君は何も変わってない
栴檀は双葉より芳し
顔を捨てた男 A Different Man
変顔から真顔の新しい顔へ脱皮したエドワードが、その後色々な事件を起こし数十年後にバッタリとオズワルドに街で出会って食事をする場面。
オズワルドは今も同じ変顔のままで、バイタリティに色々なことに挑戦しているた。
そんな彼との食事メニューを選ぶのにエドワードはなかなか決められないことに一言。
少しも変わっていないね!
エドワードは変顔から真顔になり、その時に名前も変えて新しい人生をチャレンジして来たのに、オズワルドからすれば真顔からも少しも変わっていないエドワードへの再会の感想だ。
何処を変えれば、何が変われば、君、変わったねと発見してくれるのだろうか?
(^O^)
顔を捨てた男
A Different Man
「サンダーボルツ*」「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」のセバスチャン・スタンが主演を務めた不条理スリラー。
顔に特異な形態的特徴を持ちながら俳優を目指すエドワードは、劇作家を目指す隣人イングリッドにひかれながらも、自分の気持ちを閉じ込めて生きていた。
ある日、彼は外見を劇的に変える過激な治療を受け、念願の新しい顔を手に入れる。
過去を捨て、別人として順風満帆な人生を歩みだすエドワードだったが、かつての自分の顔にそっくりな男オズワルドが現れたことで、運命の歯車が狂いはじめる。
容姿が変わっていく主人公エドワードの複雑な心情をセバスチャン・スタンが特殊メイクを施して熱演し、2024年・第74回ベルリン国際映画祭で最優秀主演俳優賞(銀熊賞)、2025年・第82回ゴールデングローブ賞のミュージカル・コメディ部門で最優秀主演男優賞を受賞。
「わたしは最悪。」のレナーテ・レインスベがイングリッド、
「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」のアダム・ピアソンがオズワルドを演じた。
外見やアイデンティティをテーマにした作品を手がけてきたアーロン・シンバーグが監督・脚本を手がけ、全編16ミリフィルムでの撮影による独創的な世界観を作り上げた。
顔を捨てた男
A Different Man
2023/アメリカ
不条理
実は『アニー・ホール』のようにほろ苦くも愛おしいブラックコメディ
奇しくも全米公開時期が重なった『サブスタンス』とは、ともにルッキズムをモチーフとしている点からも比較されやすい。その際、本作は「話のひねりやエンタメ性に欠け、地味に説教臭い」と言われることがどうも多いようだ。が、果たしてそうだろうか。
コラリー・ファルジャ監督の『サブスタンス』は、絶えず女性に若さと美を求めてくるようなクソ男性中心社会をぶった切って、ある意味とても教訓的な作品だった。対する本作は、「容姿の美醜」という厄介なモチーフを扱いながら、一種のブラックコメディという体裁をとって、ルッキズムの内面化がもたらすアイデンティティ・クライシスをカリカチュアしてみせる。
ここで注目すべきは、おそらく神経線維腫症と思われる病に罹った容貌を全面的に見せながら、それをことさら「特別扱い」しない点だ。ココは大いに共感を覚えたところでもある。
たとえば、主人公エドワード(セバスチャン・スタン)の周囲はごく普通に彼と接する様子が描かれる。同じ病気を患うオズワルド(アダム・ピアソン好演!)が登場してもそれは変わらない。各人の心の中はともかく、少なくとも彼らのことを当たり前に受け入れている。その顔に過剰反応して心無い言葉を浴びせたり、あるいは腫れ物に触るように気遣ったりしない。唯一そんな「特別扱い」が窺えるのは、主人公が自ら出演する企業内研修ビデオを見るシーンだろう(ビデオに描かれた内容は、まるでロベール・ブレッソン監督作『白夜』における劇中映画シーンのような空々しさだ笑)。
さて、そんな本作を観て真っ先に思い浮かべたのは、先に挙げた『サブスタンス』ではなく、1970年代のウディ・アレン監督作品、なかでも『アニー・ホール』『マンハッタン』の二作だった。やや唐突かもしれないが。
たしかに、主人公の男が極度に神経質だったり、天井の“穴”から何か落っこちてくるあたりは『ボーはおそれている』の不穏さを思わせるし、陰口叩いた理学療法士をいきなり包丁で刺すくだりはヨルゴス・ランティモス作品のような冷めた視線を感じさせる。
一方、本作とウディ・アレン作品の作風は一見似ても似つかない。では、どのあたりがそう感じさせるのか(※映画冒頭、アパートの住人が彼のことを「ウディ・アレンに似ている」と不意に言うセリフが出てくるので、これがヒントになったとはいえるかもしれない)。
まず最初に、他人から見れば自分の存在など大した問題ではないのに周囲の目を気にしすぎる主人公の性格は、ウディ・アレンが先の二作で演じた「神経症気味でプライドが高すぎる、冴えない風貌の主人公」とどこか一脈通じる。セバスチャン・スタンはイケメンだけど。
また映画前半の主人公の身なりは、前二作におけるウディ・アレンのファッションを想起させる。とくに終盤、プリーツ入りチノパンにタックインしたチェックシャツ、あのハットとメガネのセバスタはウディそっくり。そんな彼が複雑な笑みを浮かべるラストショットには、『マンハッタン』の最後に映し出されるウディの切ない笑顔のアップが重なってくる。
共演者たちについても同様のことがいえる。ヒロイン(レナーテ・レインスヴェ)のやや風変りだけどやっぱり俗人的というキャラは「アップデートされたダイアン・キートン」といった趣だし、“人たらし”でどこでも人気者のオズワルドは、『アニー・ホール』で常に高身長の女性をはべらせているポール・サイモンみたいだ。となれば本人役で登場するマイケル・シャノンは、さしずめ『アニー・ホール』に出演していた批評家マクルーハン本人といったところか。
さらに言うと、全編16mmフィルムで撮られたマンハッタンの街の風景はどこか懐かしさが滲む。またアパートの部屋、小劇場の舞台装置、バーの店内など一連のプロダクションデザインにも、70年代ウディ・アレン作品のもつ空気感、インディーズ映画的な匂いが感じられる。
これらから推察されるのは、本作が、「容姿は変わっても周囲の目を気にかける内向的な性格は変えられなかった者の悲劇」とか「自己肯定感の低いひとに対して外見より中身だよと諭す教訓譚」といったひとことで括れるような単純な構成をとっていないということだ。
現代的な「ルッキズム」をモチーフとした不条理系ブラックコメディの体裁をとりながら、その実、ウディ・アレン初期作品のようなほろ苦くも愛おしい小市民的ドラマを、ごく「普通」「当たり前」に描いてみせる——そんな離れ業のようなことを本作はやってのけてるのではないか。その点にもっとも心揺さぶられた。
エレファントマン・トワイライトストーリー編
作品の宣伝方法を失敗してしまった作品だと思います。
残念ですが、最近の鑑賞作品で5本の指に入る「眠くなる時間が多い」作品でした。
以下、作品の個人的評価を記したいと思います。
①邦題が誤解や先入観を与えた。
素直に、「ディファレントマン」で良かったと思う。
「捨てた」ことよりも、「違う(ディファレント)」ことがテーマの作風に見えた。
②セバスチャン・スタン製作総指揮の気持ちが注がれ過ぎた作品かも。
映像や物語構成が独特過ぎた。
個人的に、80年代頃のヨーロッパ作品のイメージが全体的に有ったので、この意図的な映像の見せ方はセバスチャン・スタンさんが個人的にやりたかったのではと思ったりした。
お若い俳優さんだが、そのご両親様か祖父母様もしくは恩師からか、影響を受けていたのかなと。
全体的に「エレファントマン」を最大にイメージさせた。
※エレファントマンはもっと古い時代の作品だが、映像具合は70年代~80年代頃のクラシックなイメージでした。
③導入や進行があまりにも滅裂。
不可解過ぎる行動、流れ、感情表現、急展開、登場人物の性格や対応、さらに鑑賞側が絶対求めていない意味のないヌード。
物語の構成も映像の引継ぎも滅裂が目立った。
※逆を言えば、クラシックな作品にはこのような滅裂と思える「画風」は多くあると思う。それがその時代の特徴だったとも思えます。
……つまり、最初の番宣映像や邦題において、その作品の「イメージ」を、もう少し違って(正確に)発信していれば、鑑賞に臨む時の気持ちも違ったと思えるので、最初に感じたのは「日本の配給会社のミス」でした。
テレビドラマですね。まさにトワイライトストーリーや世にも奇妙な物語のような、救えなく意味が分からない、怖い感じのドラマ。
良い点が無いわけではありません。
ダブル主演のアダム・ピアソンさんの好演技と映像の見せ方。
誤解してほしくないんですが、偏見から忖度しているわけではありません。
鑑賞中は、本当の神経線維腫症の方とは知りませんでしたので、鑑賞後に思ったのは演技が普通の健常者と全く同じプロの演技力があったことに称賛を送りたくなりました。
また、見た目の特殊な人物に対する周りの対応の観せ方も、ちょっとだけ驚く程度で普通の健常者同士レベルの感覚で描いておられたので、その自然な映像の見せ方は素敵だなと思いました。
※冒頭の地下鉄でジロジロ見たり嘲笑するような人物は、相手が超絶美形だろうが何だろうが変わらずいやな態度をする人々レベルなので。
時代的なコンプラ問題もあるかもしれませんが、虐待やいじめが表現されていない点も良かったです。
ですが申し訳ないのですが、今の時代に映画館で鑑賞するにはあまりにも全体構成が不可解なので低評価となりました。
彼が捨ててしまったのは、顔だけではなかったはずだ
2025.7.17 字幕 アップリンク京都
2023年のアメリカ映画(112分、PG12)
顔面の神経繊維腫症を患う男性の天国と地獄を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本はアーロン・シンバーグ
原題の『A Different Man』は直訳すると「別の男」という意味
物語の舞台は、アメリカのニューヨーク
社員教育用ビデオに出演しているエドワード(セバスチャン・スタン)は、ある時から顔面神経繊維腫症を患い、顔面のほとんどが奇形となっていた
そう言った人が職場にいた時の接し方のビデオに出演することになったが、大した実入にはなっていなかった
ある日のこと、彼のアパートの隣の部屋にイングリッド(レナーテ・レインスヴェ)という劇作家志望の女性が引っ越してきた
彼女の訪問に驚いて怪我をしたエドワードは、それを機に彼女との距離を縮めていく
だが、エドワードは自分の容姿にコンプレックスを持っていて、このままではうまくいくわけがないと思っていた
そんな折、主治医のヴァーノ医師(ジョン・キーティング)から、この病気の専門医フレックスナー(マラカイ・ウィアー)が治験を行なっていると知らされる
エドワードはすがる思いでそれに参加し、その効果があったのか、顔の腫瘍が取れて、元の顔に戻ることができた
その後、フレックスナーがエドワードの自宅を訪れるのだが、彼はエドワードが自殺をしたと嘘をついてしまう
イングリッドはそれを聞いてショックを受けるのだが、エドワードは自身を「ガイ・モラッツ」と改名(以下エドワードのまま表記)して、別の場所で生きていくことを決めた
そして、それから数年後、エドワードは不動産のトップセールスマンとして活躍し、街角でイングリッドを見かけるのである
映画は、エドワードのことがわからないイングリッドとの再会によってうまくいく様子が描かれるのだが、そこにかつての自分と同じような容姿をした男オズワルド(アダム・ピアソン)が現れるところから動き出す
イングリッドは「エドワードと自分の馴れ初め」などを劇にしていて、エドワードを演じる俳優を探していた
そのオーディション会場に偶然足を運んだエドワードが役を勝ち取るものの、そんな彼女の前に理想の俳優が現れてしまう
オズワルドはなんでもこなせる男で、劇のセリフもあっさりと覚え、何をさせても期待値以上のことをしていく
エドワードはやがて劣等感を抱き、イングリッドはそんな彼から距離を置き始める
そして、決定機となる事件が起きてしまうのである
わかりやすい「完全上位互換」の登場によって地位を脅かされる様子が描かれるのだが、この時点でエドワードは普通の人間として暮らしている
なので、エドワードがオズワルドに嫉妬を覚える必要はないのだが、彼にかつての自分を重ねてしまっている
何もできずに逃げた過去を悔やみながら、同じ容姿をしながらも全く違う人生を歩んでいるオズワルドは、エドワードにとっては雲の上の存在にも思える
そして、エドワードは精神的におかしくなって奇行が増え自滅してしまう
テーマとしてはルッキズムのアンチテーゼを描いていて、人は見た目以上に内面を重視しているというメッセージが込められている
エドワードは常に自分と他人を比べるのだが、オズワルドはそんなことは気にしない
だが、オズワルドから差し伸べられる手はエドワードにとっては屈辱的なもので、彼がいかにして横暴で不寛容かということがわかる
顔が元に戻ったことで性格が一変しているのだが、ある意味、悪い方向に振り切れている感じがして、容姿に自信があっても性根がおかしいと人格も歪んでしまうのだな、と感じた
いずれにせよ、オズワルドが登場するまでにかなりの時間を要するので、展開がかなり遅いように感じる
彼の登場後にようやく本格的に話が始める感じなので、前半をもう少しテンポ良くしても良かっただろう
あっさりと顔が治りつつ、同じ容姿をしている人が街で嫌がらせされているのを見るというものでも描ける部分が多かったように思えた
テーマとしてはかなり尖っているのだが、ルッキズムの追求が人を幸せにはしないという一方で、やはり内面は表面に現れていることを描いていた
前半のエドワードは悲哀に満ちているが、オズワルドはそんなことがなく、むしろマーベルに出てきそうなヒーローに見えてしまう
そう言った意味において、ルッキズムを否定するだけでは世の中は良くはならないのかな、と感じた
人間の本質を問う
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