「外面(ルッキズム)か、内面(性格)か、究極の選択を投げかける映画。」顔を捨てた男 チャキオさんの映画レビュー(感想・評価)
外面(ルッキズム)か、内面(性格)か、究極の選択を投げかける映画。
平日に突然の休みができたので、適当に映画を物色していたところ、「顔を捨てた男」のタイトルが目に入った。ミステリーっぽいのかなぁ、と思って鑑賞した。
その思いはほぼ外れたものの、人間の外面(ルッキズム)と内面(性格)がその人の人生(観)に多大な影響を与えている(く)様子を、見事に描写している良質な映画だった。
主人公のエドワードの顔面は、疾病による腫れものによって、醜く膨れ上がっていた。性格は、控え目で、物静か、波風を立たせないよう気を配って人生を静かに送っている。それは、その風貌から成るべく目立たないように、他人の目に触れないように、陰に潜んだ生活ぶりだった。
そんな状況のなかで、治験による新薬の投与によって、エドワードは、見事に本来の自分の顔を取り戻す。その後は、自分を「ガイ」と名乗り、不動産会社のトップセールスマンになるなど、彼の人生は、180度変わったかのように見えたが、ある日、ガイの前に、以前の彼の醜い顔とそっくり瓜二つの顔をした、オズワルドが現れる。
オズワルドは、以前のエドワードとは違って、その風貌とは裏腹に、明朗快活で、前向きな性格、人生を心から謳歌している。そして、思いを寄せていた女性、イングリッドまでが次第に、オズワルドに心を引き寄せられるようになる。挙句の果てには、俳優業もしていたガイの役をも奪われてしまう始末。
ここ以降からが、この映画の本質を表現していく、重要なチャプターになっている。
このオズワルドの出現によって、ガイは恐らく、自分自身を否定されたように感じたに違いない。ガイは、以前のその顔の風貌に、非常に苦しみ、コンプレックスを抱いてきたにもかかわらず、全く同じ顔をしているオズワルドは、その事を気にしている素振りもなく、むしろ、他人以上に自由奔放に人生を楽しんでいる。それを目の当たりにしたとき、ガイの心の中にあった何かが、ことごとく崩壊していったんだと思う。
そして、その崩壊が、その顔とともに、真に生まれ変わるきっかけになれば良かったが、残念ながら、そうはならなかった。
ガイは、次第にオズワルドを妬み、疎ましく思うようになる。その状況は、以前の自分の顔に対するエドワードの性格そのものとそれほど変わらない。
オズワルドは、ガイに言う。屈託のない、けれど、本質をついた、少しトゲのある言葉、「キミは変わらないなぁ。」。すなわち、「せっかく本来の顔を取り戻したのに、ネガティブな内面(性格)も変わらなければ、その後の人生に意味はないよ。」という、オズワルドのこの何気ない言葉は、何とも考えさせられる。
本来の顔をやっとの思いで手に入れたものの、内面(性格)を変えられずに、その後の人生が開けなかったエドワード(ガイ)と、自分の顔のことは一切気にすることなく、明るく振舞うオズワルド。
この二人の人生描写の対比を通して、いやがうえにも鑑賞する者に、外面(ルッキズム)以上に重要なものは何かという普遍的な問いを投げかけている。
時間つぶしのために適当に選んだが、心の奥底にいつまでも残りそうな、忘れられないような映画だった。人生には、人それぞれ程度の差こそあれ、理不尽なこと、不平等なこと、納得できないこと、様々なことがあって、ストレスが溜まる毎日だと思うが、この映画は、そんなストレスを多少なりとも浄化してくれる、鑑賞して損はない映画だと思う。
【パンフレットを読んで】
エドワードの隣にたまたま住んでいる女性(イングリッド)が、都合よく話しかけてきて、そんなに親しくなるか? とか、オズワルドのような、そんなベリースーパー陽キャラみたいな人間なんているわけないよなぁ。とか、映画「あるある」っぽいことも考えながら鑑賞したのち、購入したパンフレットを読んだら、なんと、このオズワルド役の俳優、アダム・ピアソンさんは、この映画に「素顔」で出演していることがわかり、軽い衝撃を受けました。
てっきり、相手役セバスチャン・スタンと同様に、「特殊メイク」かと思っていて、最後まで気づかなかった。
正直、自身のレビューの最後のほうで、「鑑賞する者に、外面(ルッキズム)以上に重要なものは何かという普遍的な問いを投げかけている。」などと、青臭くて綺麗ごと過ぎる言葉を書いてしまったな、と思ったのですが、オズワルド役の人生を「地で行く」、アダム・ピアソンさんの存在を知ったら、いやいや、「青臭くて綺麗ごと過ぎる」、どころか、至極当然な問いかけであると思い直しました。