「実は『アニー・ホール』のようにほろ苦くも愛おしいブラックコメディ」顔を捨てた男 いたりきたりさんの映画レビュー(感想・評価)
実は『アニー・ホール』のようにほろ苦くも愛おしいブラックコメディ
奇しくも全米公開時期が重なった『サブスタンス』とは、ともにルッキズムをモチーフとしている点からも比較されやすい。その際、本作は「話のひねりやエンタメ性に欠け、地味に説教臭い」と言われることがどうも多いようだ。が、果たしてそうだろうか。
コラリー・ファルジャ監督の『サブスタンス』は、絶えず女性に若さと美を求めてくるようなクソ男性中心社会をぶった切って、ある意味とても教訓的な作品だった。対する本作は、「容姿の美醜」という厄介なモチーフを扱いながら、一種のブラックコメディという体裁をとって、ルッキズムの内面化がもたらすアイデンティティ・クライシスをカリカチュアしてみせる。
ここで注目すべきは、おそらく神経線維腫症と思われる病に罹った容貌を全面的に見せながら、それをことさら「特別扱い」しない点だ。ココは大いに共感を覚えたところでもある。
たとえば、主人公エドワード(セバスチャン・スタン)の周囲はごく普通に彼と接する様子が描かれる。同じ病気を患うオズワルド(アダム・ピアソン好演!)が登場してもそれは変わらない。各人の心の中はともかく、少なくとも彼らのことを当たり前に受け入れている。その顔に過剰反応して心無い言葉を浴びせたり、あるいは腫れ物に触るように気遣ったりしない。唯一そんな「特別扱い」が窺えるのは、主人公が自ら出演する企業内研修ビデオを見るシーンだろう(ビデオに描かれた内容は、まるでロベール・ブレッソン監督作『白夜』における劇中映画シーンのような空々しさだ笑)。
さて、そんな本作を観て真っ先に思い浮かべたのは、先に挙げた『サブスタンス』ではなく、1970年代のウディ・アレン監督作品、なかでも『アニー・ホール』『マンハッタン』の二作だった。やや唐突かもしれないが。
たしかに、主人公の男が極度に神経質だったり、天井の“穴”から何か落っこちてくるあたりは『ボーはおそれている』の不穏さを思わせるし、陰口叩いた理学療法士をいきなり包丁で刺すくだりはヨルゴス・ランティモス作品のような冷めた視線を感じさせる。
一方、本作とウディ・アレン作品の作風は一見似ても似つかない。では、どのあたりがそう感じさせるのか(※映画冒頭、アパートの住人が彼のことを「ウディ・アレンに似ている」と不意に言うセリフが出てくるので、これがヒントになったとはいえるかもしれない)。
まず最初に、他人から見れば自分の存在など大した問題ではないのに周囲の目を気にしすぎる主人公の性格は、ウディ・アレンが先の二作で演じた「神経症気味でプライドが高すぎる、冴えない風貌の主人公」とどこか一脈通じる。セバスチャン・スタンはイケメンだけど。
また映画前半の主人公の身なりは、前二作におけるウディ・アレンのファッションを想起させる。とくに終盤、プリーツ入りチノパンにタックインしたチェックシャツ、あのハットとメガネのセバスタはウディそっくり。そんな彼が複雑な笑みを浮かべるラストショットには、『マンハッタン』の最後に映し出されるウディの切ない笑顔のアップが重なってくる。
共演者たちについても同様のことがいえる。ヒロイン(レナーテ・レインスヴェ)のやや風変りだけどやっぱり俗人的というキャラは「アップデートされたダイアン・キートン」といった趣だし、“人たらし”でどこでも人気者のオズワルドは、『アニー・ホール』で常に高身長の女性をはべらせているポール・サイモンみたいだ。となれば本人役で登場するマイケル・シャノンは、さしずめ『アニー・ホール』に出演していた批評家マクルーハン本人といったところか。
さらに言うと、全編16mmフィルムで撮られたマンハッタンの街の風景はどこか懐かしさが滲む。またアパートの部屋、小劇場の舞台装置、バーの店内など一連のプロダクションデザインにも、70年代ウディ・アレン作品のもつ空気感、インディーズ映画的な匂いが感じられる。
これらから推察されるのは、本作が、「容姿は変わっても周囲の目を気にかける内向的な性格は変えられなかった者の悲劇」とか「自己肯定感の低いひとに対して外見より中身だよと諭す教訓譚」といったひとことで括れるような単純な構成をとっていないということだ。
現代的な「ルッキズム」をモチーフとした不条理系ブラックコメディの体裁をとりながら、その実、ウディ・アレン初期作品のようなほろ苦くも愛おしい小市民的ドラマを、ごく「普通」「当たり前」に描いてみせる——そんな離れ業のようなことを本作はやってのけてるのではないか。その点にもっとも心揺さぶられた。
