「不親切な傑作青春映画」トラペジウム むらさめさんの映画レビュー(感想・評価)
不親切な傑作青春映画
この映画は不親切だ。
なぜなら、かなりしっかり見ないとキャラクターのモチベーション、行動の根拠といった大切な情報を見落とす造りになっているからだ。
見落としやすい要素で一番大きなものは、クライマックスの展開『アイドルに巻き込まれた他三人、特に大河くるみは、なぜ主人公東ゆうを許したのか?』であろう。
大河くるみは抜群に可愛いが人見知りで注目されるのが苦手なロボ好きの少女だ。そんな彼女がアイドルをやったらどうなるかなんて火を見るよりも明らかで、実際彼女は限界まで追い込まれグループ崩壊のきっかけになった。主人公に利用され、そんな酷い目に合ったのに、なぜ彼女は主人公を許せるのか?彼女は聖人なのか?それとも主人公に都合がいいだけの薄いキャラなのか?
その答えは、一度立ち止まって大河くるみの視点で全体を見ればが分かる。
逆なのだ。『なぜひどい目に合ったのに許したか?』ではなく『なぜひどい目に合うと分かっていてアイドルをやったのか?』だ。
彼女にとって東ゆうはとても都合がいい人物である。孤立していたときに都合よく向こうからやって来て、初めての同性の友達になってくれた。もう一人の友達を紹介して居場所を作ってくれた。行き詰っていたロボコンの試運転をするプールを提供して最後まで付き合ってくれた。おかげで準優勝という結果も出せた。そんな東ゆうがなにやらTVとアイドルに強い意欲を示している。目立つのは苦手だが、嫌だったボランティアもこの4人でなら楽しかった。ならTV出演もやってみてもいいかもしれない。
彼女は目的の達成も欲しかった普通の青春も東ゆうに貰っている。だから東ゆうにやりたいことがあるなら手伝いたってあげたいと思うのは自然だ。先に貰ったものを返そうとしたのだ。
本質的にアイドルに向いてない、興味もない大河くるみがアイドルをやる理由なんて『東ゆうが、この4人の関係が好きだから』しかあり得ない。逆に言えば、苦手なアイドルを限界まで続けられてしまうほど大好きな友だちなのだから、アイドルに付き合いきれなかったことで友だちまで辞めるのはおかしい。その程度で手放す仲ならそもそもアイドルなんてやってない。
──といった大河くるみの心の動きは作中の描写から読み取れる。読み取れるのだが、ロボコンのシーンは極少ない。TV出演後の心理は、南さんに漏らした言葉の足りない吐露と彼女の言動─例えばカメラを向けられたり知らない人に注目されると俯くけど、4人でのロケになると楽しそうにしているといった姿─から読み取る必要がある。また、明確な表現が少ない代わりに、彼女らの心情を表す暗喩は表情、光り、背景や小物を使って豊富に用意されている。
いや、分かるかぁ!!
大河くるみに限らず、東ゆうのオリジンとか3人への想いとか、華鳥蘭子と亀井美嘉の価値観や心情とか、必要な情報はこの映画には確かに描かれている。いるのだが、前情報なしの完全初見で読み取れるかというとかなり厳しい。少なくとも私は読み取れる自信がない。スタッフは視聴者の鑑賞力を過信してないか? ただ、2回3回と観れば、あるいはある程度ネタバレされた状態で見ればちゃんと読み取れるように作られているのも事実だ。
また、こういう構造になっているのには意味がある。この構図はアイドルという結果だけを追い求めたために、大切なものが見えなくなっている主人公の視点そのものだからだ。「主人公の性格が最悪」という感想は、東西南北が破綻して泣きじゃくり、「私って嫌な奴だよね」と漏らした東ゆうの自認そのものだ。一種の叙述トリックである。まあ、叙述トリックを使っているくせに種明かしが甘いのはこの作品の瑕疵だろう。
東ゆうの視点を超えて、実のところこの作中では何が起こっていたのか、東ゆうは何をしたのかを把握するためには、彼女が見落としていたものを掬い上げるように視聴者がアクティブにこの映画を読み解く必要がある。
なんで視聴者がそんな労力を追わねばならんのだというの意見も正論なのだが、こういう隠された意図を探り出していく行為は好きな人にとっては物凄く楽しい。
そうやって考えれば考えるほど、夢を追う主人公の狂おしいほどの情熱と夢に純化しきれない人間らしさ、それぞれに問題を抱えた彼女たちが紡いだ友情が浮かび上がってくる。そこには青春の輝きがある。
繰り返しになるが、そういった深読みに耐えられるようにこの映画は丁寧に作りこまれている。
だから私は、この作品は非常に不親切だが、それでも、だからこそ、傑作であると思う。