瞳をとじてのレビュー・感想・評価
全116件中、41~60件目を表示
フィルモグラフィーの空白
Close Your Eyes
監督とは無二の親友でもあった俳優が、撮影途中で失踪した。映画の中では彼は、探し人の依頼を受け旅に出る。
撮影は頓挫し、時が流れ、思い入れの残ったフィルムを、監督はお金のためにドキュメンタリー番組へ売る。しかし良心が痛み、放映を見ることは叶わない。
その後、俳優が記憶喪失の状態で発見された。彼は、監督と実の娘に再会するが、記憶は一向に戻らない。まるで探し人が見つからなかったかのようで、映画とはある意味で鏡像のようだ。
自身の作品の空白、業界の現状の中で、せめて映画だけは、世界を洗練されたものに戻してほしい。監督の願いを見る
映画の奇跡を撮った映画
ビクトル・エリセらしい重層的な映画。劇中劇から始まり、劇中劇を観る主人公たち(あるいは劇中劇から観られる主人公たち)で幕を閉じる。また、監督の過去作との連環も多く、自伝的でもある。シネフィルが作った映画愛を映す映画であり、映画そのものがテーマにもなっている。
冒頭とエンドロールでヤヌス像が映されるように、時間についての映画でもある。そしてそれも、映画内のミゲルの過ぎ去った時間やフリオやミゲルの息子のこの世から離れて止まった時間、現実として過ぎ去った時間(アナ・トレントの50年)が入り交じるような重層的な時間である。
ラストシーンでは、丹念に映し続けた一つ一つのまなざしが劇場内で怒濤のように複雑に交錯し、瞳がとじられた刹那、劇中劇が終わりこの映画も終わる。これほど見事なエンディングは観たことがないし、確かに映画を観たという叫びたくなるような気持ちになったこともかつてなかった。
これが映画なのか。なんと素晴らしい。
名前に意味が?
本作を見る前に『ミツバチのささやき』や『エル・スール』をちゃんと見直さなかったことが悔やまれる…そんな無知な自分を思い悔しくなる作品だった。強く意識させられる。劇中劇と巡るヒューマンミステリーの旅の中で役者が他者を演じること、子供からいずれ大人となり歳を重ねること。作家とはその生涯(キャリア)をかけて同じ題材(テーマ)を描き続けるものである、という説をビクトル・エリセはこの自身の集大成的な作品できっと私たちの多くが思う以上に表現している。作中至るところに実に様々な種をまきながら。思ったより後悔。大丈夫、瞳をとじればいつでも会えるから。
"悲しみの王"
P.S. 本編冒頭の企業ロゴが多すぎる
心の奥深くに染みてくる作品
派手さはないけども、
ジワジワとフツフツと感動が後追いしてくる。
ちょっと不思議な感覚。
監督の映画の魔法かな...。
俳優たちの表情の捉え方が印象に残りました。
友情、絆、大切なものが心の奥深くに染みてくる作品。
大人たちのニュー・シネマ・パラダイス
スペインの巨匠ビクトル・エリセが31年ぶりにメガホンをとったことで話題になっている作品。
映画を愛している人なら
絶対に好きと思える作品です。
『大人たちの「ニュー・シネマ・パラダイス」』
私はそんな印象を受けました。
169分の長い上映時間、
導入部分はちょっとわかりにくいこともあって眠くなりがちですが、
あとはぐいぐいと引き込まれます。
とある映画の技法が使われていますが、それはヒミツ。
映画ファンにはたまらない。
他の方のレビュー読めばわかってしまいますが。
83歳という年齢を重ねた監督だから描けたであろう、
繊細さ、懐かしさ、温かさなどが何層にも重なった美しい映画でした。
1940年代、邸宅「悲しみの王」に暮らす老人が、ひとり娘を探してほ...
1940年代、邸宅「悲しみの王」に暮らす老人が、ひとり娘を探してほしいと男(ホセ・コロナド)に依頼した。
戦前に上海で女優との間に出来た子どもだが、もう何年もあっていない・・・
というところからはじまるが、実は「悲しみの王」でのやり取りは『別れのまなざし』という映画の一部。
依頼を受けた男の役を演じていた人気俳優フリオ・アレナスは、撮影の途中で姿を消した。
靴は発見されたが死体は上がらず、失踪したものと世間では認識された。
映画は未完となり、監督のミゲル・ガライ(マノロ・ソロ)は、その後、メガホンをとることなく小説家に転向した。
映画の撮影は1991年のこと。
それから20数年の時を経て、フリオの失踪をテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられることになり、ミゲルに『別れのまなざし』のシーンの放映許可とインタビューの依頼が来た。
処女小説『廃墟』はそれなりの評価を受けたが、その後は長編小説はモノに出来ず、短編をいくつか書いただけで、いまは海辺の寒村で細々と暮らすミゲルにとって、報酬は魅力だった。
ミゲルは、フリオが見つかるなどとは思っていない。
番組にも魅力を感じない。
しかしながら、撮影当時のこと、途中まで編集がすんだフィルムのこと、残されたフリオの娘アナのことなど、いくつかの振り捨てようとしても、過去の想いはミゲルに迫って来る。
特にアナ(アナ・トレント)と再会し、処女長編『廃墟』の本と出会い、さらに本を捧げた当時の恋人と再会するに至っては、過去はミゲルにしがみついて逃さない。
そんな時、番組を観た視聴者からフリオによく似た男性がいるとの報せがミゲルに届く。
海辺の高齢者施設で雑役夫まがいにして働いているのだが、その男には記憶が一切なく、かつてのタンゴの流行歌を歌っていたことから、施設では高名なタンゴ歌手の名に由来して「ガルデル」と呼ばれていた・・・
という物語。ここまででおおよそ3分の2ほどか。
30数年ぶりのビクトル・エリセ監督の演出はゆったりとしている。
あまり観客を急がせない。
それはそれで好ましいのだが、前半部分、特に冒頭の映画のシーンは、あまりにものっぺりと起伏に欠き、「これは、もしかしたらひどい映画に出くわしたのではありますまいか」と、不安になりました。
テレビのドキュメンタリーにかかわる部分もそれほど冴えず、面白くなってくるのは、ミゲルが古本市で自著『廃墟』と再会するあたりから。
かつての恋人との再会、海辺の寒村でのご近所との暮らしぶりなどの中盤は、大きくな起伏などはないものの、それがかえって味わい深い。
近所の友人たちと『リオ・ブラボー』の挿入歌「ライフルと愛馬」を歌うシーンは心安らかになります。
後半は高齢者施設での物語。
ガルデルと呼ばれた男は、果たしてフリオであった。
ミゲルは、そう確信する。
しかし、ガルデルは自身のことを一向に思い出さない。
ミゲルは、最終手段を思いつく・・・
と展開するのだけれど、この結末は観客に委ねられている。
フリオが自身のことを思い出したのか、思い出さなかったのか・・・
個人的には「どちらでもよい」と感じました。
思い出せれば、まぁ一般的な幸せなんだろうし、思い出さなかったとしてもそれはそれで幸せ。
「悲しみの王」の邸宅には飾られた二面像がエンドタイトルとともに映し出される。
左を向いた顔は若々しい青年の顔、右を向いた顔は深い皺の刻まれた老人の顔。
どちらの顔も同じ人物なのだ。
青年の顔は未来を向いているように思えるし、老人の顔は過去を向いているように思えるが、べつに過去も未来も向いておらず、ただそこにあるだけ、存在すること、歳を経て存在すること、そんな風に感じられました。
コンパニョール
すごくおもしろかった
記憶 身体が覚えてること まなざしが覚えていること
歌 名前 映画について 父と娘 父と息子 同志 友情 フィルム 映画館 若いころ 夢みたささやかな居場所 喪失 思い出 犬
言葉にするのは難しい 31年の凝縮
フランス映画社はもうなくなってしまった ああいう会社は他の人ではかえがきくものではない 興行としての日本の映画史も重ねてみてしまった
アナちゃんはおでこ動かないね…
面影が浮かぶ
「ミツバチのささやき」は世界で一番好きな映画です
監督の作品を見てると
途中で物語も映像もキラキラっと眩しく見えて
この作品を見るために自分は生きてたのだ
この作品を生み出すために人類はここまで存在したのだ
すべでの労働と芸術と創作はこの作品のためだけにあったのだと
確信してしまうので
多分脳内で何かしらの化学反応が起きている
宗教とか死とかと悟りとかソレ系
あっぶない
この作品もヤバかったです
最初と最後だけ好きではありませんでした
他の方のレビューで最初と最後だけ良かったという感想があって
面白かったです
映画のタイトルとして「瞳をとじて」は適切ではないのでは?と
思いました
監督あと3作くらい映画撮ってくれないかな
ぼくとフリオと海浜で
ヴィクトル・エリセは、「ミツバチのささやき」「エル・スール」「マルメロの陽光」と、10年に一度宝石のような果実を実らせるという類稀なる監督だ。この3本は紛れもなく傑作だと思う。今度は何と31年ぶりの新作だという。こうなると、もうほとんど竜舌蘭に匹敵する。
主人公の元映画監督がかつて撮影中に失踪した俳優の消息を求めて、過去の断片をたどっていく。かつての純文学的な文体は薄まり、より直截的な描写が多くなった。それでも溶暗の悠揚たるテンポなどは実に心地よく、ただ身を委ねていられる。
劇中劇のレヴィと娘の再会が、フリオとアナの再会と二重写しになっている。「ミツバチのささやき」から半世紀を経て、再び「ソイ・アナ(私はアナよ)」という呟きが甦った時には、思わず震えた。
アナ・トレントは子役の例に漏れず、その後あまり役に恵まれてこなかったみたいだ(いつしかカラスの足跡も飼ってしまったような)。
夜、月明かりの下でミゲルとフリオがタンゴを歌うところは、いいシーンだ。
24-024
ビクトルエリセ監督31年ぶりの新作を鑑賞。
昨年遂に劇場鑑賞が叶った「ミツバチのささやき」のセルフオマージュ満載。
アナトレントの出演、
ラストの名セリフ「私はアナ」
映画が心の鍵、
などなど、後半は震えながらの鑑賞となりました。
濃密な映画体験でした😁
揺れるまなざし
「ミツバチのささやき」を劇場で観てから12日後に日比谷シヤンテで「瞳をとじて」を。
ミゲルが監督した映画「別れのまなざし」は、オープニングとエンディングだけ撮影したが俳優フリオの失踪により未完成になっていた。
未完成なのに何故エンディングがあるんだ?というレビューがあったが、映画は必ずしも「順撮り」ではない。同じ建物内での撮影ならばオープニングとエンディングを先に撮影するのはあり得る事である。
先日、NHKで宮崎駿の「君たちはどう生きるか」の製作過程を描く番組があったが、全体のストーリーが確定する前に少年が母親と家に帰ってくるシーンは既に完成していた。アニメとはいえ、時間的制約から確定した所から製作に入るのだ。
評判を取ったTVの「VIVANT」も役所広司のモンゴル海外ロケの最初の撮影は同志との別れのシーンだったそうだ。
殆どの作品が順撮りでない中で、感情の起伏を表現しなければならない役者さんは大変だろうなぁ。
閑話休題
映画「別れのまなざし」は、1947年を舞台にヤヌスの二面像(それぞれが過去と未来を向いている)が入口に飾られた「哀しみの王」と名付けられた邸宅に住むユダヤ人の男レヴィが生き別れた娘を探す事を依頼する。レヴィは中国語、英語、スペイン語を話す。依頼を受けた男は上海へ娘を探しに行くと言うストーリだが、男を演じた俳優フリオの失踪により映画は完成しない。
友人でもあった俳優フリオの失踪でミゲルは監督を辞めて作家になるが、今では「南」の海辺の村に暮らして魚を獲ったりして生活している。ミゲルの息子は事故死している。
失踪から22年が経ち、TVの「未解決事件」にフリオの失踪が取り上げられ、ミゲルも番組に出演して「別れのまなざし」の一部も放映される。これをきっかけにフリオの娘アナと再会する。(「ミツバチのささやき」から50年後のアナ・トレントと我々も再会する)
作家として出版した本(かつて恋人だったロラに送ったサイン本)を古本市で発見し購入する。アメリカ人と結婚しアメリカに行っていたロラが帰国している事を知り、会ってサイン本を渡す。「アメリカに行ってる間に家族が処分したのね」ロラは喜んで戻って来た本を受け取る。ロラはフリオとも付き合っていたが、アメリカ人と結婚したのだ。
海辺の村で普段の生活に戻る(主人を待っている犬が可愛いい)が、ここにも立退き話が持ち上がっている。ミゲルはギターで隣人と「ライフルと愛馬」を合唱する(私も声を出して一緒に唄ってしまった。だって何度も観た「リオ・ブラボー」の挿入歌でシングル盤も持っているから)。
番組を観た人からフリオに似た男がいるとの情報提供があり、ミゲルは会いに行く。
男は3年前に記憶を失って発見され、高齢者施設の手伝いをしながらそこに住んでいる。(施設は南部の海辺にあり陽光に溢れている。「ミツバチのささやき」では観られなかった風景だ)
再会してもミゲルの事は判らないが、昔軍艦に一緒に乗っていたので、もやい結び等が出来る。ミゲルはアナを呼び寄せる。アナは男に呼びかける「私はアナ」と。
「ミツバチのささやき」で父親から逃げたアナから50年、私達は初めて父親に「私はアナ」と呼びかけるアナ・トレントを目撃する。フリオはそれでも記憶を取り戻さない。施設長の修道女がミゲルに発見された時の持ち物を渡す。缶の中にはチェスの王の駒(日本のホテルのマッチもある)が。王の駒は「別れのまなざし」の冒頭でレヴィが手にした駒だった。
ミゲルは映画「別れのまなざし」をフリオに見せようとする。編集の仕事をしてフィルムを保管しているマックスにフィルムを運ばせ、施設の近くに有る閉館した映画館の映写機が動くのを確認してフリオとアナの前で上映が始まる。映画「別れのまなざし」は、フリオが探し出した生き別れた娘と再会したレヴィがその場で亡くなって終わる。
そして、そのスクリーンをまじまじと見つめるフリオのまなざしで「瞳をとじて」が終わる。
「瞳をとじて」は、過去を失った男と過去を忘れたい男、父親と娘、そして、人生の記憶、映画と友人の思い出に溢れた映画だった。
映画の記憶は誰のもの?
神隠しのような感じで行方不明となった人物と遭遇する、という物語が、戦争など現代の歴史の中で描かれるが、基本は神話や民話の類いの話の現代版だと思う。実際、「失踪」した理由や背景は全く描かれない。謎を解き明かす映画ではなく、謎が存在する状況をつきつける。
本人の記憶喪失が悲劇として語られる一方で、映画監督である主人公の精力的な努力(執念)とそれにつきあう相棒の人の良さが強調される。物質である膨大な映画のフィルムが記憶の手がかりとして描かれるが、結局、そのフィルムは記憶の手がかりとして役に立たないことが強調されている。それが、悲劇として描かれているのが印象的だった。
映画を描いた映画だと思うが、監督の意図が今ひとつよくわからなかった。特に、記憶喪失者に問題の映画を見せる場面。なぜ、座席を指定するのか?しかも事務的に指示するだけ。実際の映画撮影での指示を真似た演出だという解説を目にしたが、この映画にそういうオタク的な演出が必要か?もしかして、この映画の監督が映画オタクなのか?
映画の手法に凝ったせいなのか、途中で少し、眠くなった。テレビと映画を対比させようとした点も、逆効果ではないかと思った。現代の殺伐とした状況と過去の映画全盛期の状況をノスタルジックに語っただけの映画だろう、と言われたら、そのとおりだと監督は開き直るかもしれない。
日本のホテルのマッチが出てきた!
寡作のスペインの巨匠、ビクトル・エリセの作品。
冒頭、1990年に撮影されたが未完との設定で「別れのまなざし」の導入部で始まる。1947年、パリ郊外の邸宅「悲しみの王(トリスト・ル・ロワ)」が舞台。一番魅力的だったのは、モロッコ出身のスペイン系ユダヤ人、フェラン・ソレル(Mr. Levy)、彼は上海で生き別れた、ただ一人血のつながっている中国系の娘ジュディスを探すためにフリオ・アレナス(フランク)をやとう。二人の会話には、フランス語、英語、スペイン語だけでなく、カタラン:カタルーニャ語(まるで、イタリア語のように聞こえる)も、それから召使の使う中国語まで出てくる。国際的。しかし、字幕では表示されることはない。冒険譚の始まりに違いないが、画面は重厚で、濃密な空気で満たされている。フェランは、ゴッホがアルルで描いた(アルジェリアからフランスに来た)「ズアーヴ兵」に少し似ていた。
次の中間部分では、最初の劇中劇に出演していた人気俳優フリオが撮影途中に失踪し、その監督を務めていたフリオの親友でもあるミゲル・ガライが探して突き止める話が続く。失踪してから行方の知れないフリオを探す2012年のテレビ番組に、ミゲルは協力することになる。ミゲル自身も、フリオがかつて付き合っていた恋人や、彼の娘を探し出し、話を聞いて回るものの、大した収穫は得られず、グラナダ海岸の自宅に戻る。この部分は、まるでテレビドラマのよう。カメラも対象に近い。ミゲルがフリオの失踪する時の姿を想像するところが出てくる。そこだけはモノトーンで、幻想的。
驚いたことに、フリオの失踪を追った番組を見た視聴者から通報があり、ミゲルの自宅から遠くない海辺の修道院付属の高齢者施設にフリオはいるらしいことがわかる。彼は記憶を失ったまま、器用だったのか、漆喰塗りやら、車椅子の修理など、施設のお手伝いをしている。医師の診断により、彼は慢性のアルコール中毒による健忘と知れる。むしろ、それは放浪の結果に違いない。彼は、船に乗り込んで、世界を回っていたようだ。
最後に、ミゲルは、施設でいつもタンゴを口ずさんでいるためガルデルと呼ばれているフリオに、彼の娘も連れて、半年前に閉鎖されていた映画館に頼みこみ「別れのまなざし」の完結部分を投影してもらう。その中で、フリオ(フランク)は、上海からジュディスを連れてきてフェラン(Mr. Levy)に会わせていた。この場面、場内からはすすり泣きの声も聞こえた。さて、フリオは自分を取り戻したのだろうか。
私は、この映画全体が、ビクトル・エリセの自伝なのだろうと思った。彼が作りたかった映画の一部の再現と、彼の日常の暮らし。さまざまな事情が介在して、エリセの多くの長編映画の制作はうまくゆかなかった。トリスト・ル・ロワ邸や、上海への冒険譚はもちろん、フリオの娘が学芸員をしているプラド美術館ですら、その題材であったのかも。劇中劇の部分では、エリセは、フェランの姿に投影されていた。
中間部では、ミゲルの活動は、実はエリセのそれに由来するのだろう。彼の雌伏の時、短い文章を書くことを主な仕事として、トマトを作ったり、漁に出たり、イヌを連れて歩く生活をしながらも、映画のことは片時も忘れなかったに違いない。では、失踪したフリオとは、一体何だったのだろうか。そうか、フリオもまた(ある程度まで)エリセの反映なのかも知れない。自分を見失ったフリオが高齢者施設に引き取られた時、持ち込んだ数少ない身の回り品の中に、日本のホテルのマッチがあった。エリセもまた、世界を放浪したかったのだろう。実際に日本のホテルには来たことがあったようだ。
この物語の流れと同じように、老いというものは静かにやってくるものなのかもしれません
2024.2.21 字幕 京都シネマ
2023年のスペイン映画(169分、G)
失踪した俳優探しに関わることになった映画監督を描くヒューマンドラマ
監督はビクトル・エリセ
脚本はビクトル・エリセ&ミシェル・ガスタンヒデ
原題は『Carrar los ojos』、英題は『Close Your Eyes』で、ともに「目を閉じて」という意味
物語の舞台は、スペインのある街
かつて映画監督として数々の作品を作り続けてきたミゲル(マノロ・ソロ)は、撮影中に俳優が失踪すると言う事件に遭遇した過去があった
それから30年が過ぎ、その事件は忘れ去られていた
ミゲル自身も田舎町に越して、自家農園を営みながら、細々とした生活を送っていた
ある日、ミゲルの元にテレビ局からオファーがあり、「未解決事件」という番組にて「失踪した俳優を追う」という特集が組まれる事になったという
その題材になったのが、ミゲルの映画で失踪したフリオ・アレナス(ホセ・コロナド)で、関係者たちのインタビューを交えながら、彼が今どうしているのかを訴えかける構成になっていた
番組プロデューサーのマルタ(エレナ・ミケル)はミゲルにオファーを掛け、同時にフリオの娘アナ(アナ・トレント)にも声をかけていた
ミゲルは渋々承諾するものの、アナは協力を拒んでいて、ミゲルは映画編集担当のマックス(マリオ・バルド)の力を借りながら、当時の情報を集めていくことになったのである
映画は、制作途上で頓挫した映画の一幕で始まり、フリオ演じるフランクという男性が、レヴィ氏(ホセ・マリア・ポウ)の依頼を受けて少女ジュディス(ヴェネシア・フランコ)を捜すという内容になっていた
ジュディスはレヴィ氏の生き別れの娘で、死が差し迫っているレヴィ氏のために、フランコが奔走するという感じに綴られていく
だが、映画はフランコ役のフリオの突然の失踪により中断し、依頼シーンと最後の再会のシーン以外には残っていない
後半の再会シーンでも、編集でフランコがそこにいるように見えているが、おそらくはあの場にはいないのだろうと思われる
物語としてはシンプルで、そこまで難しい話ではないものの、まさかの169分という長さに驚いてしまう
無駄なシーンはないものの、長回しによるシーンの蓄積が気づいたらこんな事になっていた、という印象になっている
ポスタービジュアルは少女のアップだが、劇中映画のラストにて、レヴィ氏が彼女のメイクを落とそうとするシーンも、直前の涙に見立てた扇子越しの視線と重ねるなどの細かなこだわりがある
ミゲルの愛犬カリの存在感も抜群で、テレビにご主人様が登場したらキョロキョロしちゃうなど、芸が細かいなあと思ってしまう
映画を観ているシーンでも、それぞれのキャラがフリオの様子を観ているのだが、誰もが同じことを思いつつ、過去の彼と自分たちが知る姿を重ねていたりする
過去も現在もどちらも魅力的で、そのどちらかに行けば良いというのではなく、この多面性こそが人間を構成する要素である、というメッセージがあるのだろう
エンドロールでは、二つの顔をもつヤヌス神の石像が登場し、これ見ようがしにずっとアップで映っていたりする
ちょっとしつこいかなあと思いながらも、老いに向かうことの意味を考えさせる時間なのかな、とも思えた
いずれにせよ、映画らしい映画という感じで、切り取れば額縁に飾れそうなシーンもたくさん登場していた
個人的には1.5倍速で頼みますわと思えるシーンもあったが、映画館でゆったりとくつろぐということを考えればOKなのかなと思う
『ミツバチのささやき』に心を奪われた世代向けという感じなのであまり刺さる部分はなかったが、いつもはそこまで混まないミニシアターがほぼ満席というのは驚いてしまった
意義ある失踪の先に記憶が封印された理由はわからないが、死に際を求めて彷徨った終着点があの施設だとするならば、思い出さないことは神様の配慮なのかもしれません
エリセ監督の本作に奇跡は起こったのだろうか?
製作途中に行方不明となった俳優を元映画監督が探す物語。
劇中、映画監督の言葉に「カール(ドライヤー)の映画以降、映画に奇跡は無くなった」といった主旨のセリフがある。
はたしてエリセ監督の本作に奇跡は起こったのだろうか?
その答えは作品を観た人に委ねられている。
古き善き作品を観たような感動が残ります。
静か過ぎる3時間
ごめんなさい!
2ヶ月ぶり『枯れ葉』以来久々にやっちまいました!気付けば9割方寝ちゃってたタイムリープ!!
前前日一睡もしなかったための睡魔で映画が悪いわけではない!(と思う!!)
ただ、睡眠不足でなくても入眠誘いの儀式に思えそうなほどの静かな映画。『ファーストカウ』みたいな静けさ。(あたしの中で1番の静か映画体験となった『ロマンスドール』よりは音あったかな。)
今回は便宜上の星0.5として機会があればもう一度リベンジ試みます🙏
ワンちゃんはめっちゃ可愛い😍
今でも映画は奇跡を起こせるか
ビクトル・エリセ監督の久々の長編作品。「ミツバチのささやき」の日本公開から約40年、前作「マルメロの陽光」からも約30年たち、突然の新作発表ということで、まず驚いた。忘れていた懐かしい名前を思い起こされたような感じ。
冒頭の映画内映画から、屋内の二人での会話シーンが静かにゆったりと続き、つい眠気に襲われる。含意のあるセリフが続くが、ところどころ聞き飛ばしてしまった。しかし、後半、探していた友人らしき人物がいると知らせが入ってからは、一気にサスペンスフルになり、登場人物の一言一言、ふるまいの一つ一つに目と耳を集中させるようになる。
編集者のマックスが「ドライヤーが死んでから、映画の奇跡はなくなった」といったことを言うが、ラストの映画館のシーンは、ゴダールの「女と男のいる舗道」でアンナ・カリーナがドライヤーの「裁かるるジャンヌ」を観ながら涙する、あの有名なシーンを思い起こさせる。
今、この時代でも映画は奇跡を起こすことはできるのだろうか。エリセ監督は、この作品でそう問いかけている気がする。しかし、この作品にアナ・トレントが出演し、あの決定的な一言を口にするということも、十分に奇跡的なことだと素直に思える。
ただ、前半の冗長さと後半のやや性急なところをうまく中和させて、作品全体として調和したトーンになっていれば、大傑作となっていただろうに、と残念な気持ちもある。
全116件中、41~60件目を表示