瞳をとじてのレビュー・感想・評価
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監督は映画に突き動かされて映画を撮るのか?
31年ぶりって凄い。
新作みれるとは思わなかった。
面白かったんだけど、話が田舎から街になって少し魔法を失ったような気がする。
でも映画愛は健在で、未完の冒険物の出演者を探す話です。なんか記憶を無くした役者は映画を撮らなくなった監督とだぶる感じだった。
エリセ監督がまた映画撮りたいなと思ったきっかけ何だったんだろう?気になるなぁ。
残念だった。ひどいものだった。冗長で感傷的で過去の自分に酔っていて...
残念だった。ひどいものだった。冗長で感傷的で過去の自分に酔っていて。やはりビクトル・エリセは「ミツバチのささやき」で終わっていた。同時代の人でないし、佳作故にわからなかったけれど。
アナに「私はアナよ」と2度も言わせた時点で、この映画は終わった。残念。
タイトルの通り
瞳を閉じてウトウトしてしまった。
長時間なので体調を整えてから鑑賞することをお勧めする。
この作品自体が過去の映画と現実をいったりきたりする設定だが
全体的に「静」の映画なので、寝不足もあいまって自分も夢と現実をふわふわと。。。
残すところ4分の1くらいから動きが出てきて面白くなってきたのだが、
そこに至るまでの時間が自分には長かった。
登場人物は軒並み良い人。
主人公の犬がとても可愛く演技達者。
もう少しあらすじやこの監督の過去の作品について勉強をしておけば・・・
前日しっかり睡眠をとっていれば・・・と反省。
ラストのフリオの表情良かったが、結局観客に委ねられた、ということ?
瞳を閉じて記憶を巡る
ビクトル・エリセ監督の何と31年ぶりの長編作品。
映画は31年で劇的な変化をした。
もちろんフィルムからデジタルに移行したことは大きな変化だ。
ビクトル・エリセ監督の新作はその変化を問うような「映画についての映画」だった。
冒頭、ある映画のワンシーンから始まる。タイトルは「別れのまなざし」
そしてこの映画は撮影の途中に主演男優フリオ(ホセ・コロナド)が失踪してしまい未完成のままだ。
映画はこの映画の監督であるミゲル(マノロ・ソロ)が22年後のフリオを探す旅についての話が綴られる。
映画は記録でもあり、製作に携わった人たち、観た人たちの記憶でもある。
失踪したフリオの娘という重要な役でエリせ監督が1973年に撮った「ミツバチのささやき」で少女役であったアナ・トレントが演じている。
観客は否応なく少女と50年後の女性を重ね合わせ記憶を辿る。
50年前の映画、映画内の映画、映画内映画で失踪した俳優を探す映画、50年前の映画で少女だった女性が今演じている映画、そして未完成の映画のその後・・
もはやこの映画を見ている自分と映画で描かれている事の境目が曖昧になり記憶が錯綜する。
終盤、再会したが記憶を喪失してしまっていたフリオ、娘のアナ、監督のミゲル、そしてこの映画の観客は映画内の映画館のスクリーンで未完の映画と対峙する。
そして、そこではどんな記憶が想起されるのか・・
答えは出るのか出ないのか、映画の演者も監督も観客も瞳を閉じて記憶を辿る。
フィルモグラフィーの空白
Close Your Eyes
監督とは無二の親友でもあった俳優が、撮影途中で失踪した。映画の中では彼は、探し人の依頼を受け旅に出る。
撮影は頓挫し、時が流れ、思い入れの残ったフィルムを、監督はお金のためにドキュメンタリー番組へ売る。しかし良心が痛み、放映を見ることは叶わない。
その後、俳優が記憶喪失の状態で発見された。彼は、監督と実の娘に再会するが、記憶は一向に戻らない。まるで探し人が見つからなかったかのようで、映画とはある意味で鏡像のようだ。
自身の作品の空白、業界の現状の中で、せめて映画だけは、世界を洗練されたものに戻してほしい。監督の願いを見る
映画の奇跡を撮った映画
ビクトル・エリセらしい重層的な映画。劇中劇から始まり、劇中劇を観る主人公たち(あるいは劇中劇から観られる主人公たち)で幕を閉じる。また、監督の過去作との連環も多く、自伝的でもある。シネフィルが作った映画愛を映す映画であり、映画そのものがテーマにもなっている。
冒頭とエンドロールでヤヌス像が映されるように、時間についての映画でもある。そしてそれも、映画内のミゲルの過ぎ去った時間やフリオやミゲルの息子のこの世から離れて止まった時間、現実として過ぎ去った時間(アナ・トレントの50年)が入り交じるような重層的な時間である。
ラストシーンでは、丹念に映し続けた一つ一つのまなざしが劇場内で怒濤のように複雑に交錯し、瞳がとじられた刹那、劇中劇が終わりこの映画も終わる。これほど見事なエンディングは観たことがないし、確かに映画を観たという叫びたくなるような気持ちになったこともかつてなかった。
これが映画なのか。なんと素晴らしい。
名前に意味が?
心の奥深くに染みてくる作品
大人たちのニュー・シネマ・パラダイス
タイトルなし(ネタバレ)
1940年代、邸宅「悲しみの王」に暮らす老人が、ひとり娘を探してほしいと男(ホセ・コロナド)に依頼した。
戦前に上海で女優との間に出来た子どもだが、もう何年もあっていない・・・
というところからはじまるが、実は「悲しみの王」でのやり取りは『別れのまなざし』という映画の一部。
依頼を受けた男の役を演じていた人気俳優フリオ・アレナスは、撮影の途中で姿を消した。
靴は発見されたが死体は上がらず、失踪したものと世間では認識された。
映画は未完となり、監督のミゲル・ガライ(マノロ・ソロ)は、その後、メガホンをとることなく小説家に転向した。
映画の撮影は1991年のこと。
それから20数年の時を経て、フリオの失踪をテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられることになり、ミゲルに『別れのまなざし』のシーンの放映許可とインタビューの依頼が来た。
処女小説『廃墟』はそれなりの評価を受けたが、その後は長編小説はモノに出来ず、短編をいくつか書いただけで、いまは海辺の寒村で細々と暮らすミゲルにとって、報酬は魅力だった。
ミゲルは、フリオが見つかるなどとは思っていない。
番組にも魅力を感じない。
しかしながら、撮影当時のこと、途中まで編集がすんだフィルムのこと、残されたフリオの娘アナのことなど、いくつかの振り捨てようとしても、過去の想いはミゲルに迫って来る。
特にアナ(アナ・トレント)と再会し、処女長編『廃墟』の本と出会い、さらに本を捧げた当時の恋人と再会するに至っては、過去はミゲルにしがみついて逃さない。
そんな時、番組を観た視聴者からフリオによく似た男性がいるとの報せがミゲルに届く。
海辺の高齢者施設で雑役夫まがいにして働いているのだが、その男には記憶が一切なく、かつてのタンゴの流行歌を歌っていたことから、施設では高名なタンゴ歌手の名に由来して「ガルデル」と呼ばれていた・・・
という物語。ここまででおおよそ3分の2ほどか。
30数年ぶりのビクトル・エリセ監督の演出はゆったりとしている。
あまり観客を急がせない。
それはそれで好ましいのだが、前半部分、特に冒頭の映画のシーンは、あまりにものっぺりと起伏に欠き、「これは、もしかしたらひどい映画に出くわしたのではありますまいか」と、不安になりました。
テレビのドキュメンタリーにかかわる部分もそれほど冴えず、面白くなってくるのは、ミゲルが古本市で自著『廃墟』と再会するあたりから。
かつての恋人との再会、海辺の寒村でのご近所との暮らしぶりなどの中盤は、大きくな起伏などはないものの、それがかえって味わい深い。
近所の友人たちと『リオ・ブラボー』の挿入歌「ライフルと愛馬」を歌うシーンは心安らかになります。
後半は高齢者施設での物語。
ガルデルと呼ばれた男は、果たしてフリオであった。
ミゲルは、そう確信する。
しかし、ガルデルは自身のことを一向に思い出さない。
ミゲルは、最終手段を思いつく・・・
と展開するのだけれど、この結末は観客に委ねられている。
フリオが自身のことを思い出したのか、思い出さなかったのか・・・
個人的には「どちらでもよい」と感じました。
思い出せれば、まぁ一般的な幸せなんだろうし、思い出さなかったとしてもそれはそれで幸せ。
「悲しみの王」の邸宅には飾られた二面像がエンドタイトルとともに映し出される。
左を向いた顔は若々しい青年の顔、右を向いた顔は深い皺の刻まれた老人の顔。
どちらの顔も同じ人物なのだ。
青年の顔は未来を向いているように思えるし、老人の顔は過去を向いているように思えるが、べつに過去も未来も向いておらず、ただそこにあるだけ、存在すること、歳を経て存在すること、そんな風に感じられました。
コンパニョール
「ミツバチのささやき」は世界で一番好きな映画です
ぼくとフリオと海浜で
ヴィクトル・エリセは、「ミツバチのささやき」「エル・スール」「マルメロの陽光」と、10年に一度宝石のような果実を実らせるという類稀なる監督だ。この3本は紛れもなく傑作だと思う。今度は何と31年ぶりの新作だという。こうなると、もうほとんど竜舌蘭に匹敵する。
主人公の元映画監督がかつて撮影中に失踪した俳優の消息を求めて、過去の断片をたどっていく。かつての純文学的な文体は薄まり、より直截的な描写が多くなった。それでも溶暗の悠揚たるテンポなどは実に心地よく、ただ身を委ねていられる。
劇中劇のレヴィと娘の再会が、フリオとアナの再会と二重写しになっている。「ミツバチのささやき」から半世紀を経て、再び「ソイ・アナ(私はアナよ)」という呟きが甦った時には、思わず震えた。
アナ・トレントは子役の例に漏れず、その後あまり役に恵まれてこなかったみたいだ(いつしかカラスの足跡も飼ってしまったような)。
夜、月明かりの下でミゲルとフリオがタンゴを歌うところは、いいシーンだ。
24-024
揺れるまなざし
「ミツバチのささやき」を劇場で観てから12日後に日比谷シヤンテで「瞳をとじて」を。
ミゲルが監督した映画「別れのまなざし」は、オープニングとエンディングだけ撮影したが俳優フリオの失踪により未完成になっていた。
未完成なのに何故エンディングがあるんだ?というレビューがあったが、映画は必ずしも「順撮り」ではない。同じ建物内での撮影ならばオープニングとエンディングを先に撮影するのはあり得る事である。
先日、NHKで宮崎駿の「君たちはどう生きるか」の製作過程を描く番組があったが、全体のストーリーが確定する前に少年が母親と家に帰ってくるシーンは既に完成していた。アニメとはいえ、時間的制約から確定した所から製作に入るのだ。
評判を取ったTVの「VIVANT」も役所広司のモンゴル海外ロケの最初の撮影は同志との別れのシーンだったそうだ。
殆どの作品が順撮りでない中で、感情の起伏を表現しなければならない役者さんは大変だろうなぁ。
閑話休題
映画「別れのまなざし」は、1947年を舞台にヤヌスの二面像(それぞれが過去と未来を向いている)が入口に飾られた「哀しみの王」と名付けられた邸宅に住むユダヤ人の男レヴィが生き別れた娘を探す事を依頼する。レヴィは中国語、英語、スペイン語を話す。依頼を受けた男は上海へ娘を探しに行くと言うストーリだが、男を演じた俳優フリオの失踪により映画は完成しない。
友人でもあった俳優フリオの失踪でミゲルは監督を辞めて作家になるが、今では「南」の海辺の村に暮らして魚を獲ったりして生活している。ミゲルの息子は事故死している。
失踪から22年が経ち、TVの「未解決事件」にフリオの失踪が取り上げられ、ミゲルも番組に出演して「別れのまなざし」の一部も放映される。これをきっかけにフリオの娘アナと再会する。(「ミツバチのささやき」から50年後のアナ・トレントと我々も再会する)
作家として出版した本(かつて恋人だったロラに送ったサイン本)を古本市で発見し購入する。アメリカ人と結婚しアメリカに行っていたロラが帰国している事を知り、会ってサイン本を渡す。「アメリカに行ってる間に家族が処分したのね」ロラは喜んで戻って来た本を受け取る。ロラはフリオとも付き合っていたが、アメリカ人と結婚したのだ。
海辺の村で普段の生活に戻る(主人を待っている犬が可愛いい)が、ここにも立退き話が持ち上がっている。ミゲルはギターで隣人と「ライフルと愛馬」を合唱する(私も声を出して一緒に唄ってしまった。だって何度も観た「リオ・ブラボー」の挿入歌でシングル盤も持っているから)。
番組を観た人からフリオに似た男がいるとの情報提供があり、ミゲルは会いに行く。
男は3年前に記憶を失って発見され、高齢者施設の手伝いをしながらそこに住んでいる。(施設は南部の海辺にあり陽光に溢れている。「ミツバチのささやき」では観られなかった風景だ)
再会してもミゲルの事は判らないが、昔軍艦に一緒に乗っていたので、もやい結び等が出来る。ミゲルはアナを呼び寄せる。アナは男に呼びかける「私はアナ」と。
「ミツバチのささやき」で父親から逃げたアナから50年、私達は初めて父親に「私はアナ」と呼びかけるアナ・トレントを目撃する。フリオはそれでも記憶を取り戻さない。施設長の修道女がミゲルに発見された時の持ち物を渡す。缶の中にはチェスの王の駒(日本のホテルのマッチもある)が。王の駒は「別れのまなざし」の冒頭でレヴィが手にした駒だった。
ミゲルは映画「別れのまなざし」をフリオに見せようとする。編集の仕事をしてフィルムを保管しているマックスにフィルムを運ばせ、施設の近くに有る閉館した映画館の映写機が動くのを確認してフリオとアナの前で上映が始まる。映画「別れのまなざし」は、フリオが探し出した生き別れた娘と再会したレヴィがその場で亡くなって終わる。
そして、そのスクリーンをまじまじと見つめるフリオのまなざしで「瞳をとじて」が終わる。
「瞳をとじて」は、過去を失った男と過去を忘れたい男、父親と娘、そして、人生の記憶、映画と友人の思い出に溢れた映画だった。
映画の記憶は誰のもの?
神隠しのような感じで行方不明となった人物と遭遇する、という物語が、戦争など現代の歴史の中で描かれるが、基本は神話や民話の類いの話の現代版だと思う。実際、「失踪」した理由や背景は全く描かれない。謎を解き明かす映画ではなく、謎が存在する状況をつきつける。
本人の記憶喪失が悲劇として語られる一方で、映画監督である主人公の精力的な努力(執念)とそれにつきあう相棒の人の良さが強調される。物質である膨大な映画のフィルムが記憶の手がかりとして描かれるが、結局、そのフィルムは記憶の手がかりとして役に立たないことが強調されている。それが、悲劇として描かれているのが印象的だった。
映画を描いた映画だと思うが、監督の意図が今ひとつよくわからなかった。特に、記憶喪失者に問題の映画を見せる場面。なぜ、座席を指定するのか?しかも事務的に指示するだけ。実際の映画撮影での指示を真似た演出だという解説を目にしたが、この映画にそういうオタク的な演出が必要か?もしかして、この映画の監督が映画オタクなのか?
映画の手法に凝ったせいなのか、途中で少し、眠くなった。テレビと映画を対比させようとした点も、逆効果ではないかと思った。現代の殺伐とした状況と過去の映画全盛期の状況をノスタルジックに語っただけの映画だろう、と言われたら、そのとおりだと監督は開き直るかもしれない。
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