瞳をとじてのレビュー・感想・評価
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映画の素晴らしさをあらためて実感!
冒頭からグイグイ作品の世界に引き込まれていきました。
序盤は少々冗長とも感じましたが、
中盤以降は本当に見逃せない展開になっていき
ラストまであっという間でした。
ワンシーンごとの見せ方が素晴らしく
逐一余韻があってさすがだなと思いました。
私としては、『ミツバチのささやき』のアナ役で
主役だったアナ・トレントが、
アナという名前のキャラクターで重要な役で登場するのも
グッときました。
それからエリセ監督ならではだと思うのが、
女性のアップシーンが美しいということですね。
ポスターの宣材になっていますが、
劇中も素晴らしかったです。
女性のみならず、犬の表情もバツグンでした。
本作はラストが素晴らしい。
映画って本当に奇跡を起こせると思いましたし、
冒頭とラストの繋ぎ方も絶妙でした。
このラストのための約3時間だったと思うと
すごく納得しましたし、この尺で丁寧に描いていたから
こそ、ラストの感動もひとしおだったと思います。
早くも年ワースト候補。
映画の缶詰
〝 最高傑作は1本の作品では無く私の人生である 〟
☆☆☆★★★(1回目)
☆☆☆☆(2回目)
〝 最高傑作は1本の作品では無く私の人生である 〟
2回目を鑑賞して来ました。
前回のレビューの下に、2回目で補足したレビューを追記しておきます。
以前、小津安二郎作品を巡るシンポジウムに出席したエリセは、小津の『晩春』での終盤にて。笠智衆と原節子が旅先で隣り合わせの布団で寝る場面で、ワンカットだけ映る壺?花瓶?(近いうちに確認します)を、《近親相姦》のモチーフなのかな?…と感じたらしい。
日本人にはなかなか思いつかない感情だとは思うのだけれど。おそらく西洋人には、その様な思いを意識しながら観ている人が居るらしい…と言うのを、その意見を(文章にて書き起こされていたので)読んで、「嗚呼、外国の人にはそう映るんだ!」…と、感じたのを覚えていました。
日本人には思いつかない…とは記したものの。当の本人である小津安二郎が、どうゆう意図でその場面を演出していたのか?は。当然ながら、小津本人にしか分からない。
それは確かに、《父親》と《嫁入り前の娘》との間に起こる〝 ささやかな確執 〟とゆうのは、晩年の小津作品に於ける重大なテーマでもあっただけに。
おそらく、小津本人は。あくまでも【父親】側の立場から。〝 悲しさを押し殺しながらも、嫁いで行く娘を笑顔で送り出す 〟その姿を、晩年は突き詰めて描いたのだと理解している。
そこを踏まえてでは有りますが。エリセはどうなのか?と、遂に31年もの年月を費やして公開された本作品と(まさかエリセの新作が観られるとは、、、と思いながら)対峙したのでした。
正直に言って、「いや〜!これは言語化が非常に困難な作品だなあ〜」と言うのが本音です。
鑑賞後から数日経ってしまったのですが、全然自分の中で消化し切れて無いのです。
…と、言う訳で。小津を引き合いに出して、エリセの過去の作品から(足りない知能をフル回転させて)読み取ろう…と思ったのです。
小津が《父親の立場》から描いていた父と娘との関係。
思えばエリセは、『ミツバチのささやき』と『エル・スール』では。《少女の立場》から〝 父親の過去 〟を知ろうと(又は、何となく理解する)する姿を描いて来た人。
『ミツバチ…』で「いい匂い!」と呟きながら、アナが嗅いだ毒キノコ(独裁者)を。怒りを込めて踏み潰した父親。
ご存知の様に。この場面では、スペイン内戦で受けた父親の心の傷跡に。心ならずもアナが入り込んでしまった(その様な意味で描いている)為に。幼いアナにすら、父親は思わず怒りを露わにしてしまったのでした。
だからこそアナの胸の中で、その時の父親の怒りを受け止め切れず、その後にアナは〝 或る秘密 〟を持つに至ります。
そんな【秘密】は、次作の『エル・スール』では。『ミツバチ…』の時の少女では無く、女の子へと年齢が上がり。主人公のエストレーリヤは、ベッドの下に隠れ《父親の秘密》と対決します。
『エル・スール』では、エリセが描く《父親と娘との確執》は更に深く・鋭くなって行くのです。
『ミツバチ…』『エル・スール』共に、父親と母親の間には、(ハッキリとは提示されないものの)大きな溝が存在します。
『エル・スール』で、父親が映画館でイレーネ・リオスの映画を観て、興奮のあまりカフェで手紙をしたためている時に。窓越しでその姿を見つめるエストレーリヤ。
その時はまだ少女の面影を残す女の子でした。
「イレーネ・リオスって誰?」
そう母親に聞いた後に、父親と母親は激しくなじりあいをします。
どうやら、聞いてはいけない事を母親に話してしまったエストレーリヤ。
自分の責任を強く感じた為に、その後ベッドに隠れては父親との《沈黙の対決》へと至ります。
この時のエストレーリヤには、もう少女の面影は無くなっているのです。
やがて時は流れ、初聖体拝受の時に父親とダンスを踊ったあの場所・あの調べ。
「覚えてる?」
そう聞いて来た父親。
この時のエストレーリヤにとって、最早父親は疎ましい存在になっていました。
女の子は《女》になろうとしていたのです。
新作の『瞳をとじて』では、中盤に至るまでその様な《父親と娘》との関係性は、あまり描かれずに進んで行きます。
いや!寧ろ、一見してダラダラとした。失踪した俳優を探す元映画監督の姿を延々と描いて行きます。
画面を見つめながら、この長い長い時間を掛けた映像で、エリセが描いた或る作品に想いを馳せる事となるのです。
『マルメロの陽光』
『マルメロ…』は、完璧主義を貫く画家の姿を淡々と描く作品でした。
実りを蓄えた果実は日々大きく変化をして行く為に、その変化で毎日果実に当たる陽の光は変わって行く。
今描いている様子は昨日とは違っている。
そんな日々を繰り返した行く末に待っているのは。熟れすぎた果実が自らの重みに耐えかね、地面へと落ち、遂には朽ち果てて行く姿でした。
公開当時この作品が私には、エリセ自身の映画製作に於ける困難な状況と苦悩を吐露している様に見えたのです。
映画製作に於ける現場や状況は日々変化して行く。「こうゆう内容で、この様に描きたい!」と思っても、あれこれと口に出して来る人や資金面等で、なかなか自分の撮りたい映画がどうしても撮れない苦しさを。
(あくまでも個人的な感想としてですが)
『瞳をとじて』の主人公の元映画監督には、未完に終わった『別れのまなざし』とゆう作品が有りました。
息子を事故で亡くし、自身で撮ったものの未完に終わってしまった作品に対する悔恨。
更には、主演俳優フリオの失踪。
そのフリオの存在を追い掛けるドキュメンタリーを通して、主人公のミゲルは。自身の未完に終わった作品に〝 ある種のケジメ 〟をつけ様と思ったのか奔走します。
失踪したフリオと、その娘のアナを対面させる事で、自身の悔恨・胸のつかえを少しでも取り除こうとしたかの様に、、、
ここまで書いて、エリセの心の中での、31年とゆう年月の長さゆえの変化に気付いてきます。
小津が《父親側》から娘への心情を、描き続けたのに対して。エリセは《少女であり女の子》の立場から《父親への想い・接し方》を描いて来た人との感覚を、それまで抱いていたからに他なりません。
しかも、目の前のスクリーンで展開される、終盤からクライマックスへと至る物語には。父親でも女の子でも、ましてや少女でも無く。失踪した父親とアナとの間に存在する《溝》を、第3者の立場であるミゲルから描いているのです。
「わたしはアナよ!」
或る怪物に接し、当初は怯える様子だったのですが。秘密を共有する事で怖さは次第に消えていった〝 あの時 〟のアナ。
幼い頃にはダウジング等を通じた魔法で、父親に向けていた眼差しも。次第に父親の秘密が露わになるに連れ、その姿がさもしいモノに見えて来てしまったエストレーリヤ。
そして…
記憶を無くしてしまった父親に対して、〝 あの時のアナ 〟とは逆の立場で、今、父親と対面する中年の女性となった数十年後のアナ。
やがて、静かに瞳をとじるアナ。
美しいフェードアウトがアナに被さる。
その2人が、今、見つめているのは。立場を変え、過去に未完の作品として世に出せなかったフイルムの中で描かれていた《悲しみの王》の一編。
息も絶え絶えな父親が、長年に渡って望んでいた娘との再会がそこには描かれていた。
「私の名前はチャオ・シュー!」
父親の本当の望みを知ったチャオ・シュー。
今まさに父親の最期に立ち会ったチャオ・シューは、静かに瞳をとじる。
そして…フリオも…
この未完に終わった作品にはエリセの過去の作品との関連性を。
そして監督のミゲルこそは、エリセが自身を投影させた人物像なのだろう?と言うのは、多くの人が感じるところだと思う。
『瞳をとじて』本編のファーストシーンとラストシーンには、1つの石像の表と裏に異なる顔が彫られた石像がスクリーンに映る。
その表裏一体の石像にこそ、エリセ自身が。過去の自分と(おそらくは)今後の人生を締めくくりに至る自分とを端的に表現しているのでは?…と、自分の浅はかな知識と、無い知恵を絞り出して思い浮かべるのです。
※ 思えば小津安二郎は、同じ題材・名前・状況等を。様々な俳優達であり、台詞や小道具で、その時々の状況に応じて巧みに描き続けた巨匠でした。
今や伝説の巨匠と言われているエリセも、小津と同様に。同じモチーフを駆使しては、その時に描いている人物の年齢に応じ。本当に執拗に同じ事を繰り返していると言えるのではないか?と思えるのです。
※ 最後は強引に小津を引き合いに出して纏めています。
それくらい強引なレビューにしないと、知識の乏しい私には言語化が難しい作品でした。近いうちに2回目を鑑賞し、再度この作品に向き合っていこうとは思っています。
その時には、しれっとしつつ。ガラッと180度全然違うレビューになっているかも知れない事を、予めご了承下さい。
追記
・映画本編で何度も繰り返されるフェードイン/フェードアウト。
こんな美しい編集が今時観られるのには感動しました。
・夜行バスで移動している際の(多分、ドローン撮影だとは思うのだけれど。)空撮場面。
エリセ作品でまさかの空撮?…って想いも有るのだけれど?その美しさたるや。
あんなに美しい空撮は久しぶりに観たかも!
『みかんの丘』のラストシーン以来かもなあ〜
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↓ 以下は2回目を鑑賞しての追記になります。
1️⃣ご存知の様に、映画は全編で169分の長さがあります。
失踪した親友の謎を、テレビ番組の依頼で出演し。周辺の人達と連絡を取り合い、様々な事を話し合う。
ここまでがおおよそ50〜から60分前後だっただろうか。
2️⃣古本市で自身のサイン本を見つけ、親友と取り合いになった女性と再会を果たす。
彼女の歌声から最高に美しいフェードアウト。
このエピソードがおおよそ20分くらい有っただろうか。
3️⃣現在の寝ぐらに戻り、気の合う仲間との日々。
そして番組が放送される。
このエピソードもおおよそ20分くらいだっただろうか。
4️⃣残りの60分強は、施設に居る初老の男が本当に親友なのか?
彼は、その【真意】に確信を持つのだが。記憶を無くした彼に、その想いは届かない。
それゆえ、彼はマックスが否定するも〝 奇跡 〟を願う。
失われた長い年月。
エリセは本作を撮るまでに31年とゆう年月を費やした。
《居場所を探し続けた元親友の2人》
そんな元親友同士の2人の間には、22年とゆう溝が存在していた。
本編を観た人の多くが、元映画監督のミゲルを、エリセ本人の姿との想いを馳せる。設定等を見ても間違いないところだと思う。
空白の31年。
元映画監督のミゲルは現在、僅かな映画関連の翻訳で収入を得ていた。
そんな翻訳場面で、或る映画監督の文章が、彼のパソコンの画面に映る。
〝 最高傑作は1本の作品では無く私の人生である 〟
観た人の1人1人で、色々の意見は違って来るのだろう…とは思うのだが。(私が)映画を観た限りに於いて。少なくともエリセ本人の中では、空白の期間とゆうのは無かったのではないか?…と、思えてならないのです。
2️⃣と3️⃣は、確かに必要とも思えないのだが。まるで、「恋をし、仲間達と楽しい会話をして、少しばかりの仕事をこなしていれば、特に問題は無いよ!」…とばかりに、世界に向けてエリセが宣言しているかの様に見受けられたのです。
そう思うくらいにロラの歌声は美しく、仲間と歌い合う ♬「ライフルと愛馬 」 は、こちらの胸を熱くさせてくれました。
確かに報われない時期は誰にでも起こり得るのかも知れない。それでも《人生》って奴は、それ程悪いばかりではないんだよ!…と教えてくれる、見事な人生讃歌だった。
2024年2月16日 TOHOシネマズシャンテ/シネ3
2024年2月23日 TOHOシネマズシャンテ/シネ3人
監督は映画に突き動かされて映画を撮るのか?
残念だった。ひどいものだった。冗長で感傷的で過去の自分に酔っていて...
残念だった。ひどいものだった。冗長で感傷的で過去の自分に酔っていて。やはりビクトル・エリセは「ミツバチのささやき」で終わっていた。同時代の人でないし、佳作故にわからなかったけれど。
アナに「私はアナよ」と2度も言わせた時点で、この映画は終わった。残念。
タイトルの通り
瞳を閉じてウトウトしてしまった。
長時間なので体調を整えてから鑑賞することをお勧めする。
この作品自体が過去の映画と現実をいったりきたりする設定だが
全体的に「静」の映画なので、寝不足もあいまって自分も夢と現実をふわふわと。。。
残すところ4分の1くらいから動きが出てきて面白くなってきたのだが、
そこに至るまでの時間が自分には長かった。
登場人物は軒並み良い人。
主人公の犬がとても可愛く演技達者。
もう少しあらすじやこの監督の過去の作品について勉強をしておけば・・・
前日しっかり睡眠をとっていれば・・・と反省。
ラストのフリオの表情良かったが、結局観客に委ねられた、ということ?
瞳を閉じて記憶を巡る
ビクトル・エリセ監督の何と31年ぶりの長編作品。
映画は31年で劇的な変化をした。
もちろんフィルムからデジタルに移行したことは大きな変化だ。
ビクトル・エリセ監督の新作はその変化を問うような「映画についての映画」だった。
冒頭、ある映画のワンシーンから始まる。タイトルは「別れのまなざし」
そしてこの映画は撮影の途中に主演男優フリオ(ホセ・コロナド)が失踪してしまい未完成のままだ。
映画はこの映画の監督であるミゲル(マノロ・ソロ)が22年後のフリオを探す旅についての話が綴られる。
映画は記録でもあり、製作に携わった人たち、観た人たちの記憶でもある。
失踪したフリオの娘という重要な役でエリせ監督が1973年に撮った「ミツバチのささやき」で少女役であったアナ・トレントが演じている。
観客は否応なく少女と50年後の女性を重ね合わせ記憶を辿る。
50年前の映画、映画内の映画、映画内映画で失踪した俳優を探す映画、50年前の映画で少女だった女性が今演じている映画、そして未完成の映画のその後・・
もはやこの映画を見ている自分と映画で描かれている事の境目が曖昧になり記憶が錯綜する。
終盤、再会したが記憶を喪失してしまっていたフリオ、娘のアナ、監督のミゲル、そしてこの映画の観客は映画内の映画館のスクリーンで未完の映画と対峙する。
そして、そこではどんな記憶が想起されるのか・・
答えは出るのか出ないのか、映画の演者も監督も観客も瞳を閉じて記憶を辿る。
フィルモグラフィーの空白
Close Your Eyes
監督とは無二の親友でもあった俳優が、撮影途中で失踪した。映画の中では彼は、探し人の依頼を受け旅に出る。
撮影は頓挫し、時が流れ、思い入れの残ったフィルムを、監督はお金のためにドキュメンタリー番組へ売る。しかし良心が痛み、放映を見ることは叶わない。
その後、俳優が記憶喪失の状態で発見された。彼は、監督と実の娘に再会するが、記憶は一向に戻らない。まるで探し人が見つからなかったかのようで、映画とはある意味で鏡像のようだ。
自身の作品の空白、業界の現状の中で、せめて映画だけは、世界を洗練されたものに戻してほしい。監督の願いを見る
映画の奇跡を撮った映画
ビクトル・エリセらしい重層的な映画。劇中劇から始まり、劇中劇を観る主人公たち(あるいは劇中劇から観られる主人公たち)で幕を閉じる。また、監督の過去作との連環も多く、自伝的でもある。シネフィルが作った映画愛を映す映画であり、映画そのものがテーマにもなっている。
冒頭とエンドロールでヤヌス像が映されるように、時間についての映画でもある。そしてそれも、映画内のミゲルの過ぎ去った時間やフリオやミゲルの息子のこの世から離れて止まった時間、現実として過ぎ去った時間(アナ・トレントの50年)が入り交じるような重層的な時間である。
ラストシーンでは、丹念に映し続けた一つ一つのまなざしが劇場内で怒濤のように複雑に交錯し、瞳がとじられた刹那、劇中劇が終わりこの映画も終わる。これほど見事なエンディングは観たことがないし、確かに映画を観たという叫びたくなるような気持ちになったこともかつてなかった。
これが映画なのか。なんと素晴らしい。
名前に意味が?
心の奥深くに染みてくる作品
大人たちのニュー・シネマ・パラダイス
タイトルなし(ネタバレ)
1940年代、邸宅「悲しみの王」に暮らす老人が、ひとり娘を探してほしいと男(ホセ・コロナド)に依頼した。
戦前に上海で女優との間に出来た子どもだが、もう何年もあっていない・・・
というところからはじまるが、実は「悲しみの王」でのやり取りは『別れのまなざし』という映画の一部。
依頼を受けた男の役を演じていた人気俳優フリオ・アレナスは、撮影の途中で姿を消した。
靴は発見されたが死体は上がらず、失踪したものと世間では認識された。
映画は未完となり、監督のミゲル・ガライ(マノロ・ソロ)は、その後、メガホンをとることなく小説家に転向した。
映画の撮影は1991年のこと。
それから20数年の時を経て、フリオの失踪をテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられることになり、ミゲルに『別れのまなざし』のシーンの放映許可とインタビューの依頼が来た。
処女小説『廃墟』はそれなりの評価を受けたが、その後は長編小説はモノに出来ず、短編をいくつか書いただけで、いまは海辺の寒村で細々と暮らすミゲルにとって、報酬は魅力だった。
ミゲルは、フリオが見つかるなどとは思っていない。
番組にも魅力を感じない。
しかしながら、撮影当時のこと、途中まで編集がすんだフィルムのこと、残されたフリオの娘アナのことなど、いくつかの振り捨てようとしても、過去の想いはミゲルに迫って来る。
特にアナ(アナ・トレント)と再会し、処女長編『廃墟』の本と出会い、さらに本を捧げた当時の恋人と再会するに至っては、過去はミゲルにしがみついて逃さない。
そんな時、番組を観た視聴者からフリオによく似た男性がいるとの報せがミゲルに届く。
海辺の高齢者施設で雑役夫まがいにして働いているのだが、その男には記憶が一切なく、かつてのタンゴの流行歌を歌っていたことから、施設では高名なタンゴ歌手の名に由来して「ガルデル」と呼ばれていた・・・
という物語。ここまででおおよそ3分の2ほどか。
30数年ぶりのビクトル・エリセ監督の演出はゆったりとしている。
あまり観客を急がせない。
それはそれで好ましいのだが、前半部分、特に冒頭の映画のシーンは、あまりにものっぺりと起伏に欠き、「これは、もしかしたらひどい映画に出くわしたのではありますまいか」と、不安になりました。
テレビのドキュメンタリーにかかわる部分もそれほど冴えず、面白くなってくるのは、ミゲルが古本市で自著『廃墟』と再会するあたりから。
かつての恋人との再会、海辺の寒村でのご近所との暮らしぶりなどの中盤は、大きくな起伏などはないものの、それがかえって味わい深い。
近所の友人たちと『リオ・ブラボー』の挿入歌「ライフルと愛馬」を歌うシーンは心安らかになります。
後半は高齢者施設での物語。
ガルデルと呼ばれた男は、果たしてフリオであった。
ミゲルは、そう確信する。
しかし、ガルデルは自身のことを一向に思い出さない。
ミゲルは、最終手段を思いつく・・・
と展開するのだけれど、この結末は観客に委ねられている。
フリオが自身のことを思い出したのか、思い出さなかったのか・・・
個人的には「どちらでもよい」と感じました。
思い出せれば、まぁ一般的な幸せなんだろうし、思い出さなかったとしてもそれはそれで幸せ。
「悲しみの王」の邸宅には飾られた二面像がエンドタイトルとともに映し出される。
左を向いた顔は若々しい青年の顔、右を向いた顔は深い皺の刻まれた老人の顔。
どちらの顔も同じ人物なのだ。
青年の顔は未来を向いているように思えるし、老人の顔は過去を向いているように思えるが、べつに過去も未来も向いておらず、ただそこにあるだけ、存在すること、歳を経て存在すること、そんな風に感じられました。
コンパニョール
「ミツバチのささやき」は世界で一番好きな映画です
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