「不遇な中でも、なお友情を忘れない美しさ」瞳をとじて talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
不遇な中でも、なお友情を忘れない美しさ
<映画のことば>
私は生涯の親友を失った。
あの映画もだ。
結果としては、完成途上の監督作品を葬られてしまったとしても、ミゲルがフリオに注ぎ続ける友情には並々ならないものがあったのだと思いました。
それは「瞳が閉じる」まで(死がお互いを分かつまで)続くようなものだったのでしょう。
ときに、世の父親というものは、多くは(息子はともかく)娘を見捨てることは、金輪際できないという心情が、心の奥底のどこかにはあるー。
評論子の単なる主観かも知れませんが、そう思っている父親は少なくないと思います。
現に、「探してほしい。私を無垢な瞳で見られる人間は、この世に一人しかいない。あの子だけだ。」と告白して、娘シャオ・チーの捜索をフランクに依頼した悲しみの王の言葉は、それと同じ心情の発露だったのだと、評論子は受取りました。
そして、ミゲルが、フリオか記憶を呼び戻すことを娘との再会に賭けたのは、世の多くの父親のそういう心理を応用してということに外ならなかったのでしょう。
しかし、そうまで思いを込めて対峙した当のフリオがミゲルを見たのは、「別れのまなざし」(製作が頓挫してしまったミゲルが監督していた映画の題名)にすぎなかったという、その悲哀。
最後のシーンで、ガルデル(フリオ)が、あたかも静かに記憶を呼び覚ますかのように、ミゲルの手になる『別れのまなざし』を観ながら、静かに瞳を閉じるシーンが印象的でした。評論子には。(邦題は、そこから来ていたのでしょうか。)
真実(真相)は、瞳をとじて深く念じた時に想い起こされるものなのかも知れないとも思いました。評論子は。
佳作だったと思います。
(追記)
<映画のことば>
記憶はとても重要です。
でも、人間はそれだけでなく、想いを抱えて、何かを感じながら生きている。
やはり大切なのですね。
人が生きていく上では、人の「記憶」というものは。
そして、その記憶の一切を無にしてしまう自死ということの無意味さということにも、改めて思いが至りました。
近頃に観た作品では『インサイド・ヘッド』『インサイド・ヘッド2』が、彷彿とされる作品でもありました。
そして、本作が長尺にわたるのは、ミゲル監督の過去の体験・人間関係、回想などの描写に多くのシーンが割かれていることによるものでしょう。
確かに、ここまで事細かに描写することには賛否の両論があり得るとは思いますけれども。
人は、誰しも年齢を重ねるごとに、連綿と続く自らの過去(記憶)を踏まえて「今」があることに思いを致すと、細かい描写ゆえの長尺=悪作の評価は、必ずしも当てはまらないのではないかと、評論子は思います。
(追記)
映画というものへのオマージュに溢れた一本でもあったと思います。
本作は。
「監督」「俳優」など、いわば舞台設定が映画の世界であるほか、ミゲルが、おそらくは子供の頃からの宝物として保管してきた小箱の中には、映画の父・リュミエール兄弟が1895年に制作した「ラ・シオタ駅への列車の到着」のパラパラ画がありました。
世界初の映画で、蒸気機関車が駅のホームに近づいてくる様子を記録した映像で、観客は列車の突進に恐怖して逃げ出したとのことです。
(追記)
<映画のことば>
今は映画をデータで保存。
だか映画の歴史の9割以上はフィルムに焼きつけらるている。
どうすりゃいい。
これを全部メモリーカードに?
フィルムは、もう用なしだ。
こんなにあるのに「閉店」はしたくない。
稼げる仕事じゃなかったが、どうにもならない。
フィルムに興味のある人もいる。
だが、映写機を持っていない。
まさに、映画産業の遺物だ。
俺たちと同じように。
映画がフィルムで撮影されていて、それゆえにスクリプターという役回りが映画の撮影には不可欠だったと世代は、どうやら評論子の世代あたりでおしまいのようです。
かつては映画の撮影現場では、撮影内容を記録する専門職が置かれていて、「スクリプター」と呼ばれていました(エンドロールでも、「撮影」「照明」、「録音」などと並んで「スクリプター」として紹介されていたりもしました。)
俳優の立ち位置や衣装の小物の変化まで細部にわたり記録に残したり、撮影した内容も細かく記録し、前後のカットで俳優の動きがつながるようにチェックする役回りということです。
令和の今のように映画の製作がデジタル化され、それゆえに現像所に現像に出してみなければ撮影内容の細部は分からなかった往時とは異なり、デジタルカメラで、現場で(フィルムを現像するまでもなく)すぐに撮影内容が確認(再生)できるようになった今は、必要のなくなった役回りということになりそうです。
評論子が入っている映画サークルに、かつてはスクリプターをしていた女性と結婚した会員さんがいたので、その仕事内容について直接にお聞きする機会がありましたが、いち映画ファンとしては、とても興味深いお話でした。
もちろん、彼女は映画が好きで映画製作の世界に入った方なのですが、スクリプターになってからは、プライベートでは、映画を観なくなったと聞きました。
「えっ、今のはシーンが繋がっていなかったじゃない?」とか「いま、俳優の立ち位置が微妙に変わっていなかった?」とか、客席で観ていてもはてなマークばっかりが出て、ちっとも映画のストーリーそのものを楽しめなくなってしまったからだそうです。
そんなことが仮にあったとしても、気づかずに何の気兼ねもなく映画そのものが楽しめることは、案外、幸せなのかも知れないとも思い直しました。
talkieさん
『 世の父親というものは… 』そんな思いが込められていたのですね。
『 息子はともかく 』との文章に思わず笑ってしまいました。娘にはより特別な思いがあるものなのですね (^^)