「世界を閉ざすことでしか、生きられない」瞳をとじて xmasrose3105さんの映画レビュー(感想・評価)
世界を閉ざすことでしか、生きられない
私も若かりし頃『ミツバチのささやき』に心射抜かれた一人。
主人公アナの眼。心に刺さったままです。まさか新作をエリセ監督が撮られるとは。静かな驚き。期待して本作を観ました。
なんというか、心が苦しくなってしまう。
思えばこれまでの作品にもうっすら同様なものが流れていましたが...
繊細なのに、王様。
真に純粋なものにしか理解し得ない、そうでない者からは理解しようとされることすら拒んでいる、さらにそれが極まって現在に至る、とでも言いましょうか。
人間と人間が関わるということは、世界と世界が出会うということ。あるいは交わらず、永遠の境界線、自分という確固たるシェルターの中に入り込み、世界を守り通すか。
唯一、我が娘だけは世界と交われるかもしれない、一縷の希望。
でもそれを、本当に男は望んでいるのか?
戦争やら、社会で仕事をして稼いでいくことや、家族を持ち父親となることや、世に何かを生み出し功なり名を遂げることなど、息苦しいことの連続。
瞳を閉じて、世界を閉じて、私が私である場所に逃げ込んで、誰も侵せないところにいなければ、どうやって生きていけましょう。
愛が欲しいけれど、それは繋がりというしがらみや囚われも、必ず連れてくる。
瞳はこじ開けられ、世界には誰かが入ってきて、関わりは摩擦を生み、消耗し、悲しみや苦しみが生産される。
日本もかつて戦国の世から鎖国によって太平の世を得たように、一人の人間も一つの世界なら、閉じることでしか平穏は得られないのかもしれません。
日本はその後開国し、また戦争、原爆投下までの惨劇となりました。それでもアメリカや他国との関わりを必死で繋いでいる。それも生き抜く道です。
瞳を閉じて(失踪、記憶喪失)しか生きられなかった男・フリオ(ガルデル)と、閉じたくなりつつも必死で開けようともがく男・ミゲル。
真逆のようで、どちらも人間の姿。
そして監督自身が生きて感じてこられた、私たちに伝えたかったことなのかもしれない。
劇中劇の「悲しみの王」は死の間際、生き別れの娘に辛うじて再会し、震える声で唄いかけます。
可愛い娘よ、海に向かって身を投げないで。
娘も泣きながら唄います。
私も一緒に連れていって。私を愛から救うために。
わかりやすい言葉では伝わらないテーマを、いつも撮ろうとしている。映像で伝えようとしている。眼が伝える力。監督はそれを信じているのだと、この映画でも感じました。