「本作は「切り返しの映画」であり、「記憶の映画」である。」瞳をとじて 慎司ファンさんの映画レビュー(感想・評価)
本作は「切り返しの映画」であり、「記憶の映画」である。
「瞳をとじて」公式ホームページに、日本公開に先立ち各界著名人から寄せられたコメントが羅列されている。
そこに選ばれて然るべきと思われる名前から、首をひねるしかない名前まで玉石混交といった顔ぶれだが、その中で濱口竜介だけが、ほとんど完璧と言ってよい精度で映画の簡潔な要約に成功している。
以下、濱口のコメントからの引用。
「『瞳をとじて』は徹頭徹尾「座っている人間にどうカメラを向けたらよいのか」を問う。
そのとき、彼と彼女の「顔」をどう撮ればよいのか。・・・
『夜の人々』『リオ・ブラボー』、そして何よりも『ミツバチのささやき』…、
自分自身が映画史そのものである人だけができるやり方で、エリセは失われた記憶を甦らせようとする。・・・」
濱口の言うように、本作の核となる要素は以下の2点に要約される。
一つ、本作は「切り返しの映画」である。
冒頭に何の断りもなく始まる劇中劇、及びそれに続く各シーンにおいて、これでもかと言うほど繰り返される向かい合う二人の人物を交互に映したシークエンスから、この映画が「切り返しの映画」であるということを観る者は即座に得心する。
然るに、観る者に戦慄をもたらすいくつかのシーンは漏れなく、見つめ合う複数の人物の切り返しのショットによるものである。
例えば、消息不明の俳優らしき男がいると聞き主人公が訪れた福祉施設の昼食で、不意打ちのようにその素顔を晒す男と主人公の見つめ合い。
例えば、記憶を失っていた男とその娘のアナ・トレントが再会を果たすシーンで、「ミツバチのささやき」の記憶と共振する父娘の見つめ合い。
そして、映画の終幕を導くスクリーンの彼岸と此岸の見つめ合い・・・。
映画の序盤に繰り返される切り返しのショットがどれだけ冗長であっても、画面を観続けることをどうか止めないでほしい。
それは後に映画が熱を帯びてドライブし、観る者の戦慄する瞬間を迎えるための長い下準備に他ならないからである。
二つ、本作は「記憶の映画」である。
この映画を観ていると、画面に現れるあらゆる事物が、通底する“記憶”と共振して画面に次々と波紋を描いていくような感覚に囚われる。
ひとくちに“記憶”と言うが、それぞれの事物がいくつもの異なる位相の“記憶”を呼び起こしてくるので、それらが画面に与える豊かさは殆ど過剰とも言えるほど饒舌に新たな波を生んでいくのである。
それは記憶喪失の男が過去を覚えているのか、という説話的なレベルのものから、いわゆる伏線回収的にある事物が先のシーンと呼応するという説話構造のレベル、或いは、繰り返される切り返しショット、逆光を背に影となる人物の黒いシルエットや、相手を見つめる大きな丸い瞳など、モチーフの反復というミクロなレベルにまで及ぶ。
そして濱口の挙げるように、映画史上の記憶・・・。
劇中で名前の挙げられた、或いは作品の引用された映画作家たち、ニコラス・レイ、ハワード・ホークス、ドライヤー、リュミエール、そしてエリセ自身が、ふとした細部にその“記憶”を宿して甦るのである。
例えば、記憶を失ったフリオが工作していた車椅子によって「北京の55日」のニコラス・レイが、視線の交わりによりフィルムが動揺する瞬間によって「奇跡」や「ゲアトルーズ」のドライヤーが、菜園で成熟を確かめるトマトによって「マルメロの陽光」のエリセが思い出されはしないか。
更には、その名を出さずとも、吸いかけの煙草をフレーム外に2度も放り投げることで、ジョン・フォードの投げる仕草が思い出されはしないか。
波紋が波紋を呼び、旋律が旋律を呼ぶように、ふとした細部が“記憶”を呼び覚まし、画面は豊かに揺らめきを続ける。
寡作と言われるそのキャリアは本作のためにあったとでも言うかのような、ビクトル・エリセのあまりに饒舌な169分である。