「悲劇の形を借りた哲学的な寓話。」A.I. image_taroさんの映画レビュー(感想・評価)
悲劇の形を借りた哲学的な寓話。
公開当時より、変に主人公に感情移入してしまって「感動した」「涙が止まらなかった」との感想が聞かれたり、逆に「デイビッドの言動があまりにも不自然で感情移入できなかった」という真逆の感想が聞かれたりしていた。前者は主人公デイビッドを「人」と見做して感情移入しているに過ぎないが…実は後者の方の「不自然」という捉えかたの方が、この作品の伝えんとすることの方により近づいている。なんせ主人公は母親「だけ」を愛するようにプログラムされたロボットに過ぎず、どう足掻いても人にはなれないのだから(そういう意味では、これは一種の悲劇である)。当然、人として見たら不自然極まりないのであるが、ロボットとしてみれば当然。この辺りを捉え間違えて、感情移入する方に流されてしまうと、この物語の基本的な構造を見失ってしまう。これは、感情を揺さぶる感動のSFドラマなどではなく、大変に理知的で哲学的なテーマを持った作品である。このあたり、スピルバーグの描き方が優しいので、分かりにくくなったかも知れないが…もしかするとそんなことはお見通しで、そういう哲学的テーマを巧妙にベールに包むようにしたのかも…なんて思ったりもする。
この作品が本当に描かんとしているテーマが何なのかが明らかになるのは、物語も終盤、人類が絶滅した2000年後の世界を描くほんの数分間においてである。そこでは高度に進化したロボット(←これを宇宙人だと勘違いしている人がかなりいるようだ)が、「人間とは何であったのか?」と問い、研究している。無生物が人間を問うということは、敷衍して言えばこういうことではないか…「世界には人という複雑高度な種が存在しているが、それ以外の生物も、命のない無生物も存在している。そんな人以外の存在にとって、人とはどんな意味を持つのか?」
①家族に迎えられる→廃棄される、②ジャンク・フェアという狂騒、③出自を尋ねてのマン・ハッタンまでの旅、④2000年後…というのが全体の流れだが、④に当たるラストの数分をきちんと受け止めるならば、ラストに至ってから、これらの物語の大半の部分を振り返って考えないでいられなくなる。平たくまとめれば、デイビッドの辿った道は、明らかに「自分が無生物であり、ロボットでしかないことを知らしめられる道」ではないか。
そう理解すれば、やはり、これは悲劇の形を借りた哲学的な寓話と言っていいと思う。ハーレイ君の名演技と可愛らしさで観客を惹きつけておきながら、ある意味で非常に硬派でディープ問いを観客に叩きつけるのだから、スピルバーグはとんでもない二枚舌(←褒め言葉です)と言っていい。