「人間とロボットの境界を問い直す」A.I. Kenjiさんの映画レビュー(感想・評価)
人間とロボットの境界を問い直す
無駄なシーンがひとつもない、全てが1つに繋がる素晴らしい映画だった。
まず第1幕と言ってもいい家庭のシーンでは、愛を持つロボットは可能かということについて考えさせられる。最初に提示されるのは「母性愛」をテーマに作られたA.I.の存在だ。はじめは拒否を示していた母親が、些細な触れ合いから心を許していく。
ディビットのあまりに人間的な母親への振る舞いに対して、次第に人間である母親がロボットに母性愛を抱き始めている姿が象徴的だった。ここにおいて、「ロボットは人を愛せるのか」から「人はロボットを愛せるのか」というテーマに変化しているように感じた。
泣く泣くディビットを捨てるシーンで、母親にすがる彼の姿に対して、それを見ている私たちの心が動いていることこそが、その答えであるような気もする。
ここまででも十分見応えがあるが、そこから場面は急展開を迎える。
次に登場するのは、冒頭で少しだけ触れられていたセックスロボットの存在だ。いわば「性愛」というまた別の愛を持つロボットである。巧みな言葉とグッドルッキング、機械であるが故に終わりのない交わりを想像させられる。と同時に、有限であるという制約をもつ我々は、彼らに嫉妬せざるを得ない。鑑賞しながらある種の嫌悪感を感じたのはそのためであろう。事実、妻を寝取られた男が、その妻を殺害してしまうという人間的なシーンを見せられる。
そこで鑑賞者に、ロボットやロボット社会に対する嫌悪感を抱かせつつ、次にロボットを破壊する場面に移行する。それに対して一方で残酷さを感じながらも、どこかでカタルシスを感じさせる見せ方が、いい意味でいやらしい。
ここでディビットは、その見た目故に救われることになる。つまり人間と見られるかロボットと見られるかは、中身ではなくて、結局は他者からの視線によって規定されてしまう。実は、ここにおいて、人間とロボットとの境界についての答えの1つが提示されている。
話はさらに進む。では、ロボット自身は人間になることができるか。自身は人間だと言えるのかを探究することになる。
ディビットは幼い頃に聞いたピノキオの話を手がかりに、自分を人間にしてくれるブルーフェアリーを探しにいく。しかし、彼がその行動を取ることこそが、ディビットの生みの親である製造者の目的であり、実験の最終目的であった。夢を持つこと、つまり人間と同じように自分で意思を持って自分のために行動することができるかどうかを試されていたのだ。自分をリアルな人間に変えてくれるブルーフェアリーがいると思っていたその場所に、自分の意思でたどり着いたこと。文字通りブルーフェアリーに会うという結果において、ディビットは人間になったと証明されたのだと思う。
一方で彼は、大量生産されている自分と自身の最初の記憶の場所である製造現場の景色を見てしまう。そして作り物でしかない自分に絶望して、自ら身を投げる。自分自身の存在意義について考える(そして絶望する)というのは、種の繁栄を目的とする人間以外の動物や、特定の目的のために作られたロボットにはない、というか必要のないものであり、あっても目的のためには邪魔なものである。自分の存在について考えることこそが、人間という存在にユニークさを与える所以なのだ。
つまり、自分が人間ではないことが分かり、その存在に絶望して行われたロボットであるディビットの自殺こそが、実は最も人間的な行為であったという最大の矛盾と、この映画の真のテーマを突きつける象徴的なシーンなのだと思う。
そして、この最も人間的な自殺行為こそが、ラストの奇跡につながっていく。ディビットが求めたものは、ロボットとしてのプログラムなのか、それとも人間の持つ愛なのか。あるいはそこに明確な差はあるのか。
母と息子が幸せそうに過ごす姿は、紛れもなく「人と人」との営みなのではないかと、私は感じた。
(我々鑑賞者は、「ロボットが人間になりうるか」というディビットの旅を通して、人間を人間たらしめる本質とは何か、人間とはどういう存在か、ということについて考えさせられるのだろう。意思を持ち、現在過去未来という時間感覚を持ち、そして自らの意思で望む世界を夢見ること。単体で目的を果たすロボットと違い、他者との関係の中で自己を規定すること。その能力が、人間としての「愛」を生み出す根源なのかもしれない。別れ際にジョーが放った、「女性に伝えてくれ」”I am”,”I was”という言葉もまた象徴的だった。)
人間とロボットの関係やロボットとしての生き方をを通して、あらためて「人間とは何か」ということが浮かび上がる作品だと思いました。未来を描くことで、これからの人間の在り方についても考えさせられる内容でした。重たいようで希望と優しさに溢れたラストだったと思います。『シンドラーのリスト』でも明確な悪人を描かずに、人が人を迫害する悲しさを描いてた。そこにスピルバーグの人間性が表れてる気がします。
けんじさんのレビュー拝見いたしまして、この映画、今一つしっくり来ずモヤモヤしていたのですが、おかげさまで少し理解できました。ありがとうございます。☺️
人間もロボットも最後は同じなんだなと僕は思いました。が、あまりにもデビットの捨て方が酷すぎたので、人間の傲慢さが劇場的に強調されすぎていて、自分は感情移入できませんでした。それは自分の弱さなのかもしれませんし、むしろ強いのかな、とも思うのですが。スピルバーグらしくない重いテーマのまま終わってしまったな、と思いました。ここから軽くなるのがスピルバーグの真骨頂だと思うのですが。。アメリカ人と日本人の感覚の違いもあるのかもしれませんね。あと、エーアイを作るにあたり、ロボットを責任をもって愛さないといけませんね。ペット以上に。