一月の声に歓びを刻めのレビュー・感想・評価
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辛い過去はなるべく早く忘れる努力をした方がいいと思いました。
やはりテーマ(幼い子供への性被害)が重い。
3話のオムニバスに、
コーダ1(1話のカルーセル麻紀さん)、
エンディング(3話の前田敦子の歌?)を付けた構成です。
1話のカルーセル麻紀が圧巻で、人生80年の歴史と苦難を
この映画に体当たりで注ぎ込んでいる。
その存在にはなんのクレームも付けようがないです。
☆47年前に亡くした娘レイコを今も悼んでいる
父親から母親に性転換した人。
レイコも性被害から殺された・・・ここまで悼む気持ちが大きいと、
残された次女は、疎外感を持つよね。
2話
正直言って、何が描きたかったかほぼ分からない。
哀川翔と原田龍二のユルーイ感じは、なんなんだったの?
八丈島ロケの意味も見出せないし、全然要らない。
3話の前田敦子は20年以上前の性被害を引きずる女性。
そのせいで結婚生活も上手くいかず、元夫はコロナで死んだらしい。
実母の“とよた真帆“なんか必要?
レンタル彼氏!?
この映画の大きな欠点はカルーセル麻紀以外のキャストが
まったく魅力的に見えないこと。
レンタル彼氏とか、その彼氏がイタリア行った話とか、
「息子の部屋」のナンノ・モレッティ・・・とか、言われても
脈絡もなくて、もう少し生っぽくない推敲を重ねた脚本を書いて、
説得力ある普遍性ある映画を見せて頂きたかったです。
カルーセル麻紀の家があまりに文化的かつ機能的かつお洒落で、
ちょっとどん引きでしたし、3話をモノクロにした意図も不明だし、
効果があったとも思えなかった。
という訳であまりいい作品とは思えませんでした。
悲惨だが救いはある
「性暴力と心の傷」をテーマにした3つのオムニバス・ドラマ。
1話と3話でキーパースンとなる女性の名はいずれも「れいこ」。幼い頃性被害に遭っている点も共通している。実は監督自身も同様の経験をしているらしい。そういう意味では3話が最も自己を投影しているのかもしれない。断りもなくれいこをスケッチするトト(男の身勝手な欲望のメタファーだろう)に対して怒りをぶつけ、キンギョソウを千切りながら号泣するれいこの姿は、被害者としての怖れ、声を発せられなかったことへの後悔がない交ぜになった悲痛な叫びそのものである。だからこそ、このパートのみモノクロにして差別化を図ったのではないだろうか。
一方、1話は直接の被害者ではなく遺された者の悲哀を描く。ある意味、当事者が命を失った場合と生き永らえた場合のパラレルワールドのようなつくりにも見える。視覚的にも雪に覆われた大地、真っ白な家の壁と、黒が貴重だった3話とは対照的だ。感心したのは冒頭のおせちの俯瞰シーン。一緒に重箱に盛られているのではなく、最初から会席弁当のように各自にあつらえられた料理。人間所詮ひとりなんだというマキの諦観が表れたようなカットである。そして、それに続く長回しのひとり芝居。悔恨の念を吐露するカルーセル麻紀の迫力ある演技に、観る者は圧倒されるに違いない。
それらに比べて少しインパクトが弱い印象の第2話。しかし不要なエピソードかというと、そんなことはない。ある登場人物が口にする「人間、みんな罪人だ」というセリフ。娘を死に追いやった男性器自体に罪の意識を感じたマキ。「何であたしが罪を感じなきゃいけないんだよ」と嘆くれいこ。“罪”というキーワードを提示することによって、1話と3話を結ぶ役割を果たしている。しかも、来る者を待つという明るいエンディングのエピソードを挟むことにより、話全体に救いを与えている。
そう、実は逆説的にこの物語は救いの物語でもある。そうでなければタイトルに“歓び”の文字を付けるはずがない。そしてそれは、3話に登場する橋から飛び降りようとする女性の「死ぬからな」という声が届いて、自殺未遂に終わることにも顕著である。悲惨な過去と向き合って「何にも知らなくても幸せになれるかな」と歌うれいこの姿に希望を感じるのである。
二人のれいこと島の娘と三島有紀子
二人のれいこが登場する。二人とも幼き頃に性被害に遭っていることで共通している。その姿は自身が幼き頃に性被害体験をした三島有紀子監督の姿にも重なり合う。
最初のれいこは47年前に自ら命を絶っており、その姿は画面にこそ登場しないが、独り残され老いた父親マキ(カルーセル麻紀)による一人芝居により露わに叙述されていく。雪に閉ざされた洞爺湖畔の家で、年始に訪れた長女家族が去った後、孤独と悔恨の念とを炸裂するかの如く、れいこが自死に至るまでの経緯を一人芝居で述懐するマキの姿をロングショットで描いたこのシーンのインパクトは強烈である。
二人目のれいこ(前田敦子)は正に監督の分身である。監督自身が被害に遭った忌まわしい現場で、れいこが監督に成り代って被害の体験を吐露する姿がロングショットで映し出されていく。最初は正面かられいこを映していたカメラは、やがて歩みながら述懐するれいこの勢いに屈して追い抜かされ、なおも背後かられいこを追い続けていく。このワンショットがれいこの激情をスクリーン一杯に漲らせていく。
映画のラストで二人のれいこは再び登場する。最初のれいこは、再びマキにより雪積もる湖畔を想いの丈を叫びながら鬼気迫る様で進んでいく姿を介して、残された遺族の孤独感と罪悪感により浮き彫りされる。一方で、もう一人のれいこは、表情晴れやかに、吹っ切れたかのように前向きになった姿が、短いショットでさりげなく描かれている。
この2つのシーンが連続することで、死ぬまでをも覚悟した恥辱の想いの果てに、強く生き抜くことを決意した一人の女性の姿が描かれていることわかる。その強く前向きな思いは、二人のれいこのエピソードの合間に挿入された荒く波立つ海を背景に身重な体で島に帰省した娘が愛に賭けて飛び出していくエピソードによりさらに強調されている。
つまり、二人のれいこと島の娘は、三人とも三島有紀子監督自身だったのである。
女性目線なのかな
洞爺湖の空が風景が美しい。
カルセールまきの全身白のウエアー雪景色に合う。
雪の中の一発撮り良かったけど、残念なのがカメラで雪の中ので揺れていて。
悲しい物語が3つで静かな風景も良いが、それぞれに中島みゆきの音楽をぶつけるのも面白かった?
美しく、逞しく、清々しい物語。
監督の幼少期の性被害の体験がモチーフだ、と枕詞のように映画が紹介されるのだが、
ある意味、それはどうでもいい。
いや、むしろ、「性被害者を描いた映画」だと、強いイメージがつくことはマイナスではないのか。
(それは事実だし、逃れられないことではあるけれど)
この映画が描いているものは、もっと普遍的なものだと思う。
洞爺湖で47年前に幼い娘が性被害にあり、自死したという経験がある父。
その父は、男性性を厭い、恨み、性転換手術を受けている。
その心には、ずっと後悔がある。
なぜ、あのとき娘を黙って抱きしめてやらなかったのか。
お前は汚れていないと伝えてあげられなかったのか。
その後悔の念は、残された家族にも深い疵を遺している。
八丈島で、妻をなくした男がいる。
一人娘は島を出て、結婚もしていないのに妊娠して帰ってきた。
この二人には罪の意識がある。
交通事故で脳死状態になった妻の生命維持を止める決断をしているのだ。
男、誠の独白でその経緯が明らかになる。
娘が「もういいよ」と声を出しているのだ。
そんな言葉を娘に発させた罪悪感。
その言葉を発した娘も、父との間に溝ができている。
このパートのラスト、娘の言葉には胸の真ん中を突かれる思いがした。
そして大阪・堂島。
元彼の葬儀で久しぶりに帰阪したレイコ。
母との微妙な距離。
そして、レイコは、ひょんなことからであった「レンタル彼氏」のトトに
幼少期の「事件」について話し出す。
ともすれば、「性被害を描いた、重苦しい作品」になってしまう。
ところが、この洞爺湖、八丈島、大阪と舞台が切り替わることで、
全く違う視点が見えてくる。
罪の意識。
疵。
誰しも、生きていれば疵の一つや二つ、体にも心にも残っている。
それはいつか癒えるものもあれば、死ぬまで消えないものもある。
その疵に蓋をすることもできる。
でもきっと、その蓋はひょいと開いてしまう。
そうだ。
ならば、疵とともに、生きていく。
それは、美しく、逞しく、清々しいことなのだ。
剥離
3つのオムニバスからなる作品ですが、終着点は基本バラバラで、どこかしらで繋がっているのかなとは思いつつも、内容の浅さ(個人比)のせいかあまり乗れませんでした。
第1章は性転換をした父と娘夫婦のお話。なぜ性転換をしたのかというのはあくまで語られず、自身の娘が性被害に遭って自殺してしまったから、自分が女になろうという感じも察してくれという雰囲気
突然の舞台演劇のような1人演技が始まって困惑してしまい、そのままの空気でサーっと終わっていくのでまたなんだこれ?ってなってしまいました。
第2章はおそらく加害者視点でのお話。父親と娘の関係性や立ち止まった場所でなんとなく察する場面があるんですが、もっとポップにすれば良いのに微妙な感じなので、なんだかうまく笑えない作品にとどまってしまいました。
原田さんと哀川さんのワチャワチャ感だけはよかったです。
第3章では友人を亡くした女性の話。初っ端アイスクリームソーダをひと吸いで残して出た母にイラつきましたが、その後の展開もまぁ面白くなかったです。
監督の体験だと思うんですが、レンタル彼氏が河川敷でナンパしてくる流れもそこからホテルに行く流れもよく分からなかったです。
そこからR18の映画なので、濡れ場が激しいのかなと思ったら全然見せない中途半端な性行為…。あっちゃん側がここまでの制限をかけているのか、製作陣がこれで良いと思っているのか、はたまた映倫がピュアすぎるのか、その後の花をむしったり絵を描いたり燃やしたりする流れもピンときませんでした。
オムニバス映画で最後に何か繋がるわけでもなく、それでいて単独の物語としても不完全燃焼、テーマ自体は分かるんですが脚本が追いついていなかったなぁという印象でした。やはりオムニバス映画は苦手。予告である程度見せてほしかったです。
鑑賞日 2/22
鑑賞時間 10:00〜12:05
座席 C-12
厳しいです。
モノクロで撮られた画面が暗く、陰気臭い。セリフが昔の邦画並みに聞き取りづらい。
北海道、八丈島、大阪の3部短編の構成だが、八丈島の話がいまいち他とリンクしていない(不要では?)。
前田敦子のオーバーアクション演技が厳しい。大阪の話のストーリーがいまいちわからなかった。(何故あそこまで男が罵倒されなければならないのか??)
音楽が少なく、八丈島の太鼓の音がうるさい(心地よいと言う観客がいて驚いた。色んな人がいるね~)し、アカペラの歌が耳障り。
幼少期のトラウマを表現したいのは分かるしそれは表現されているが、観客が楽しめるものではない。
カルーセル麻紀の名演技だけが救いでした。衣装も悪くなかったです。
これは酷い……
「映画の冒頭で主人公の丁寧な生活ぶりを描く作品は地雷」という個人的な法則があるのですがそれでした。
洞爺湖パートはまだ見ていられましたが、ラストの一人芝居が説明的すぎてゲンナリ。映画好きならある程度類推できる内容ですし。
八丈島パートは中盤のミスリードがなければ話が成立しないお粗末さ。
大阪パートに至っては噴飯物。話は語るのもバカバカしい内容でありながら、無駄に冗長で、役者陣の技量不足も感じます。
洞爺湖パートと軽くリンクしてるのも逆にわざとらしくて嫌でしたね。
褒められそうなところはお節がおいしそうだったことや、それを囲むギスギスした家族の風景くらい。大阪パートだけモノクロなのは何か意味があるのか、と思ってましたが、それを感じることはなかったです。
途中から「早く終われ」としか思えない残念な映画体験でした。
本来背負う必要のない罪悪感
私、三島監督の『少女』が好きなんですよね。
イヤミスの女王の湊かなえさんが原作で、因果応報がテーマにも思える作品なんですが、苦しんでいる若者に対しての、「世界は広い」ってメッセージがこめられていると思ったの。
この監督は優しい人なんだろうなと思ったの。
それで、その『少女』では、最後に主役二人ともう一人の少女で明暗を分けてしまうんです。
そして、今作を観て思ったのが、明の方に踏みとどまれた三島監督だからこそ、『少女』から若者に対するメッセージ性を感じられたのかなと。
今作は、他の三島監督の作品を観た時に、感想に影響を与える気がします。
それでですね、本作自体の感想を。
第2章だけ、色が違う気がしたんですよね。
第1章と第3章の橋渡しって感じでも無かったし。
逆に言うと、三島監督を語る上で入れる必要が有ったのだなと。
それで、この第2章のハイライトは、「みんな罪人だ」だと思うんですよ。
この台詞、結婚を認めて欲しい娘が父に言ったのだけど、結果として父、そして娘自身もこの言葉に救われたんじゃないかと思うの。
この父と娘、妻(母)の最期に対して、本来抱かなくて良い罪悪感を背負っているんです。
そして、その罪悪感はこれからも背負い続けていくでしょう。
本来背負う必要のない罪悪感を、捨てるのは容易な事ではないと思う。
だけど、罪悪感を背負い続ける自分自身を、否定するのではなく肯定する事が出来たなら、少しだけ楽に生きていけるんじゃないかと思うんです。
人の傷に向き合う静かな激しさ
心に棲みついた傷をカルーセル麻紀、哀川翔、前田敦子の3人が3章で演ずる心の救済をテーマにしたような作品。
1章は娘を性犯罪に奪われた父が暮らす洞爺湖が舞台。そこを元旦に訪ねたもう1人の娘夫婦の一家が父の作ったお節を食べるシーンがある。問題を抱えた娘夫婦と亡くした娘への思いに執着したままの父で食卓を囲む渇いたリアルさは、食を印象的に演出する三島監督の真骨頂に感じた。
2章の八丈島の哀川翔と娘の食事のシーンも印象的で、だからこそ、監督自身の幼少期の性被害をもとにした衝撃的な3章で傷を抱えた前田敦子演じるれいこがなにひとつ食べない演出に深みを覚えた。
性被害を受けた被害者であるはずのれいこが、まるで自分が罪を犯したもののような心を前田敦子が見事に表現していた。彼女に詳しくなかったので、今後も注目したい俳優のひとりとなった。
静かで見る人によってはテンポが遅いと感じるかもしれないが、それは三者三様、心の傷の静かな激しさの発露にとても相応しいと感じた。
隅々まで人物描写が素晴らしい作品
人と、罪を描いた作品。
3章からなる映画ですが、全ての章で物語の描き方が異なっている意欲作。
マキの心の声を、あえて幻想の中から紡ぎ出すように描かれた洞爺湖編。
打って変わって非常に映画的な展開が満ちている八丈島編。
そしてドキュメンタリーかと思うような息苦しさの中燃えるような慟哭を映し出した堂島編。
全てが欠けていて、そしてお互いに補完し合う作品。
そして全編通してそうですが、この映画は主演のお三方はもちろんのこと、脇を固める役者さんたちも素晴らしかった!
取り扱っている内容、またその描き方から賛否はあるかと思います。
特に、映画をどう楽しむかによってその賛否は大きく分かれると思います。
私は映画に出てくる人物たちの背景とかを勝手に想像できるかどうか、というのを映画を見るかなりのポイントにおいているので、そういう方はお好みかも?
以下かなり長くなりますが、私の登場人物たちへの感想です。
ご興味ある方はぜひご一読下さい。
まず洞爺湖編は
宇野祥平さん演じるみさこの夫は女の人は大事にしなきゃと口では言うくせに無意識で蔑視しているおじさんの真骨頂みたいな役でもう清々しいほどむかつきました笑
あの飄々さは宇野さんならではですねぇ。
浮気相手は誰だろう?職場の若い子?きっとみさこにバレてんだろうな、とか考えてました笑
さらちゃんのあの空気を読んで立ち回りながらも自分の要求が置いておかれると母を刺してくる感じはまさに、娘。笑
あぁ、母にこういうことした覚えあんなぁ、、私もされんのかぁ、、ってなりました笑
片岡礼子さんのみさこは、、切なかった。
彼女もまた、家族を失った1人なのに、一番それを共感したい人とできない、埋められない痛みが色んな箇所から溢れてて、これ以上マキを憎みたくない、愛していたいのにっていうみさこの悲しみが本当に辛かった。。
きっとずっと満たされない思いを誰に対しても抱えながら、諦めてるフリして、でも諦めきれないみさこがいじらしくすら思えた。
そしてマキ。
なんて不器用な人なんでしょう…
あんなに愛情深い人なのにみさこのことだって愛してるのに、れいこへの贖罪のためだけに生きることを決めた彼女もまた責められない、と思ってしまいました。
時が止まっているわけではなく、時間と共に地べたを這いつくばるように生きてきた彼女の生き様がずっと見えて、抱きしめたくなりました。
最後の叫びのシーンはほんとにすごかった!
雪原を歩いてる時から、世界もマキの洋服も真っ白なのに、発光してるような、でもブラックホールのように吸い込まれそうな不思議な感覚でマキを見てました。
年齢をどう重ねていくか、子供とどう向き合って生きていくか、同じ親としてのことを考えてしまいました。
八丈島編は
いい意味でここが一番映画的だったように感じました!
カット割の影響だからなのか?
前後二編は長回しも多いからドキュメンタリーかと錯覚する瞬間が多々あり、すごく、息が苦しくなったり、目を伏せてしまいたくなったりしたのですが、間にこの八丈島編があったのはとても映画全体を見て私的にデカかったです。
原田龍二さんのへなちょこ感も最高でした。笑
先輩の家に入り浸って太鼓を叩く、パパ。笑
もうそれだけで家庭内のパワーバランスが見えてくる笑笑
でも、子供に名前をつけさせてもらえたところで、出てきてもない原田さんの奥さんの愛情すら感じました。笑
あの事故現場のリフレインは辛かったなぁ。。。
心に強く残ってる場所とかってああやってリフレインするよなぁと思いました。
それなのにあそこで生き続けてるまことが、どれだけのことをしまい込んで生きてるんだろうと思ってしまいました。
そして、2人の食事中、背後に映りこむまことの奥さんの笑顔と、あの大型商業施設でよく描かれてる家族の似顔絵がまたやばかった。。
埃を被っているわけでもなく、そこに今も存在している写真と絵。
頭の中で亡き奥様が子育てしてる姿が勝手に浮かんじゃって、違うところで号泣。
海役の松本妃代さん、すごい素敵な女優さんっ!!
めっちゃファンなった!!
あの自暴自棄ともとらる女の子から妻になって母になる決意をした女の顔にやられました!
皆罪人だ!って私も鉄パイプ肩に背負って父親に言いたかった!笑
そして堂島編は、
まずれいこのお母さん。
もうだめ母っぷりが最高でしたね笑笑
もうあんな彼氏娘に紹介しちゃだめだし、あいつなんだったられいこも食おうとするぞ?って思ったし、なんだったら牽制すらしてたし、もうとよた真帆さん最高でした。
ああいう役を軽く、ふわっと、しかもちょっと可愛らしくできちゃう女性、すげぇなぁと思っちゃう。
そして前田敦子さん。
もう映画の中では前田敦子さんではなく、紛れもないれいこでした。
れいこの長い人生の中のあのたった一日を垣間見させてもらえた、そんな感覚がずっとあります。
憮然としている時、心を閉じている時、怒りに満ちている時、モノクロなのに手に取るように伝わってくるれいこの感情。
素晴らしかった。
そして、れいこがあの日出会ったのがトトで本当に良かったと思いました。
無責任で軽々しくて、でも、きちんと対峙をしてくるそんな男の子だから、れいこも無作法に思いっきり全ての憤りをぶつけられたのだと思う。
あの軽薄さと切実さを紙一重で演じた坂東龍太さんも素晴らしかった。
あの重さでれいことして対峙してきた前田敦子さんとあんなふうに踊れる人はそういない。
ここまで読んでくださってありがとうございます!!
鑑賞してもう1週間近く経ちますが、いまだにふっとこぼれ落ちてくるように、最後のれいこの歌声が耳に響きます。
あれは自分の人生を初めて生きようと思えたれいこの歓びの賛歌だったのかもしれない。
解釈はそれぞれだと思うけど、重すぎて、生々しいのが難点
2024.2.15 アップリンク京都
2024年の日本映画(118分、G)
3つの場所を舞台にして、女性の性的被害の悩みを綴ったオムニバス映画
監督&脚本は三島有紀子
物語は、北海道・洞爺湖、東京・八丈島、大阪・堂島を舞台にして、3部+@のオムニバス形式になっている
洞爺湖パートでは、次女・れいこを亡くした父マキ(カルーセル麻紀)の元に、娘の美砂子(片岡礼子)、その夫・正夫(宇野祥平)、孫のさら(長田詩音)が帰省する場面が描かれていく
マキの作るおせち料理がメインで、重苦しい会話が続いていく流れになっていた
八丈島パートでは、酪農家の誠(哀川翔)と友人の龍(原田龍二)の会話に、誠の娘・海(松本妃代)が加わっていく様子が描かれていく
海は妊娠していたが、その相手から「婚姻届と離婚届が同時に送られてきて困惑している」という相談が始まっていく
堂島パートでは、元カレの葬式で母・真歩(とよた真帆)と再会したれいこ(前田敦子)が描かれ、その後にレンタル彼氏のバイトをしているトト(坂東龍汰)にナンパされる様子が描かれていく
流れでベッドインする二人だったが、れいこはトトに「自分が6歳の時に性被害にあったこと」を告白し、その現場に連れて行って、その時の状況を生々しく語っていく
それぞれにれいこが登場し、洞爺湖のれいこは娘が同じような性被害に遭って亡くなっていて、自身も性自認に悩みがあったことが仄めかされる
八丈島パートでは、性被害こそないものの、結婚に至るかわからない性交があったことが仄めかされていて、そんな男と結婚すべきか、せずに出産すべきかを悩んでいる女性が描かれている
れいこは登場しないが、もしかしたら誠の亡き妻の名前なのかもしれない
映画がなぜ3話形式のオムニバスになっているのかはわからないが、洞爺湖と堂島は「もしもの世界」として繋がっているように思える
八丈島パートだけが毛色が違う感じになっていて、この解釈が結構難しいものになっていた
本作は、監督の実体験をベースに作られていて、それぞれのパートはこれまでの人生の転機になった出来事であると推測される
その意味が観客に伝わっているかは置いておいて、この構造には意味がある
パンフレットの「はじまり」の項では、幼い頃の性被害を普通に語れるようになったと綴られていて、それが映画作りのきっかけになっていた
どうして普通に話せるようになったのか
それが本作の中に隠されている、という構図になっていたのだろう
実際のところは本人以外に知る由はないのだが、映画を観た印象だと「洞爺湖は事件が表面化した際の畏れ」「八丈島は事件が表面化した際の望み」「堂島は実際に経験したこと」だったように思えた
彼女が受けた性被害を当時に親が知り得たのかとか、そう言ったことはわからないものの、もしかしたら自殺していたかもしれないとか、親身になってくれる親は頼もしいとか、時間が経ったことで変わったことがある、というような過程を寓話的に組み込んでいるように思える
洞爺湖パートの父の仕草がじっくりと描かれているのは、幼い頃の父(あるいは母)の印象だと思うし、八丈島のどこか牧歌的なところは、こうあって欲しかったという願いにも見える
ラストの堂島パートの性被害描写が生々しいのは、それが体験談であり、それを語れる事になったきっかけを描いているからだと思う
実際にナンパされて流れで致したのかはわからないが、行為が先にあって、その後に語れるようになった順序というものは体験談なのではないだろうか
いずれにせよ、この内容が面白いかと言われれば、重たすぎて意味がわからないのでキツい映画だと言わざるを得ない
この構成になっている理由がすんなりと入ってこないのも難点で、商業映画として成功するとは思えない
それでも、これを作ることで、世界中のどこかにいる同志の心が軽くなるという意味合いはあると思うので無駄ではないのだろう
これ以上のことを書く立場にはないのだが、いち観客として、この居心地の悪さを作らないことは異性としての役割なのかな、と感じた
れいこの話
『れいこ』が共通して出てくるので、時系列を遡ってるのかと思ったが、そうではなく。
(特に1章と3章の事件が似すぎてて紛らわしい)
だとすると、並べて描いた意図が汲みきれませんでした。
“島”、“船”、“喪失”、“事件”など同一のモチーフが採用されているのはいい。
しかし、“一人芝居”は必要だろうか。
特に第1章は、まだ全容が把握できてない上に一番長く、演出も特殊で、一体何が始まったのかと思った。
宇野祥平が不倫してたり、原田龍二に子供が生まれてたりなど、余計な情報も多い。
松本妃代が鉄パイプ担いで「人はみんな罪びとだ」って、唐突に不自然な台詞が入るのも気になった。
元々の目当てだったのもあるが、前田敦子が出る第3章だけは良かった。(むしろこれだけでいい)
前述の一人芝居も控えめだし、トトのスケッチもちゃんと活かされてたし。
何より、キンギョソウを毟りながら6歳に戻ったように泣く前田敦子に胸が締め付けられた。
これが無ければ星2.0だったと思います。
思ったより分かりやすかった反面、深みも感じず。
HPの記述からすると、ラストはカルーセル麻紀の言葉が前田敦子に届き、笑顔になったような演出だろうか。
だとすればサスガに夢見がちが過ぎるとは思うが…
マキの性転換は、娘を自死に追いやった性加害者と同じ“男”でいるのに耐えられなかったからだろうか。
(一人芝居での男性器を切り落とすような動き、「切ってから病院が嫌い」の台詞から)
モノクロの第3章以外もモノクロに感じるほど、彩度を抑えた色彩は効果的で好みでした。
期待度○鑑賞後の満足度○ 謂れのない、でも拭い去れない罪の意識。成功作とは言い難いが、前田敦子が演技賞級の演技を見せる第三章が1番良く出来ている。
①映像で描く短編集というところか。題名も含め少し観念的過ぎるところが日本の小説や映画に共通している欠点かな。
②罪人の流刑の島だった八丈島を舞台にした第2章が、箸休めというか、1番明るい話だったのは皮肉。
③
星4はあっちゃんだからです
1話。47年前に失った娘。何年たってもその傷癒えないだろうけど、もう一人の娘にはあまり愛情もないようで?ギャップが不思議でした。
2話。オヤジさんが凶器を準備した意味がわからなかったです。娘を不幸にした男をやりに行くのかと思いましたが海に向かって許せない!と。凶器なんだったの?
3話。花をちぎりまくるシーンが意味わかりませんでした。掘って何かが出てくるのかと思いましたが暴れただけ。自分の似顔絵が燃えたぐらいで治るかなー?
あっちゃんとカルーセル麻紀の亡くなった娘は別人ですよね?いろいろ違和感や疑問ありましたが、AKB時代から大好きなあっちゃんを見れたから星4にしました。内容だけなら星2かな。
オヤジ達の苦悩と気持ち。
次女を亡くしてるオヤジ(カルーセル麻紀)と妻を交通事故で亡くし男手ひとりで娘を育てたオヤジ(哀川翔)…二家族の話。
次女を亡くしてるマキ(父)の元に正月に帰ってくる娘夫婦と孫、もう一つの家族、誠(父)の元に5年ぶりに帰ってくる娘の海、それぞれ抱える問題とオヤジ達の心情と気持ち…。
~第1、2、3、最終章~
ごめんなさい。
第1章で何これ!?で、途中退席しようかと思ってしまった(笑)カルーセル麻紀の一人芝居が観ててかなりキツかった。(作品には触れない)
第2章から何となく観れて哀川翔さんと原田龍二のコンビはなかなかレアな感じだった!Vシネぶり?(作品には触れない)
第3章のれいこ(前田敦子)はマキの娘でOKよね!?(笑)(作品には触れない)
最終章、海で泣き叫ぶマキ、で、れいこは何で死んだの!?(作品には触れない)
全体的にどういう世界観!?れいこがちぎった花をトトが集め、自分で書いた絵は何で一緒に燃やした?リセット的な!?
自らの裡に響く声とは…
静寂に包まれた湖畔の雪原を息絶えだえに歩む足音。荒れ海を渡り吹きつける風を弾き破り響く太鼓の音。街の雑踏にかき消されない足音。航海の始まりと終着。三つのモチーフが三つの小さな物語を「生きること」「罪」とは…と云う大いなる物語を綴る映画と感じました。
洞爺湖畔に独り暮らす子を亡くした親の掬えなかったことへの罪。母の延命措置を止める決断をすることで死をもたらした父と娘への罪。幼い頃に性的被害を受けてしまいトラウマを抱え続けることへの罪。そうした罪がまるで『虐殺器官』の主人公の語り様に開かれたフィクションへ変奏し昇華されてゆく物語とも感じます。
私は三島由紀子監督というと文芸を得手とする職人監督だったのですけれど、自主制作の本作では作り手としての文学に触れた感覚に。劇場で映画を観ることの愉しみを増大させる光と音の演出は勿論、ロケーションと俳優の身体が奏でる奇跡的一瞬…謂わばドキュメントを総てに見せながら映画によって救われた後に創る者となったことのメタ語りも著している作品だった様にも感じられたからです。そういった作品が私の好みだからかもわかりませんけどねっ(笑)
さて『一月の声に歓びを刻め』のタイトル通りに、年を越し再び始まりを迎える一年に人生を重ねその再生と云う意が個人が胸の裡に閉じ込めてしまった無数の罪を開くことで自らを再生してゆく姿こそが「美しさ」へと変奏されて永遠なる掬いとなり、生きてゆくことへのエールとなって欲しい…との願いや祈りとも言える何かになり結末に前田敦子さん演じるレイコの歌となって響くのでした。
さて…あなたはどの様に感じたのでしょうか。
私はあなたが生きて私たちにあなたの物語を届けてくれて、ありがとう。と感謝の気持ちでいっぱいです。
あまりにも浅い
やっぱり言葉でつらつらと言われると浅い感じしかしない。太鼓とかああ言うのが余計にチープさを醸し出す。
映像も叙情的に見せたいんだろうけど、直ぐにセリフ回しが始まって没入できない。
説明セリフの雨霰のなか、どうにか希望を持てたのが長回しくらいか…
多分古い日本映画が好きなんだろうなあとしか思えないし、自分の実体験をやりました!って言うのが余計に観客としてノイズになってしまった。
島しま縞
カルーセル麻紀(最初はそうと気づかなかったのだが)が一人で暮らす姿を丁寧に描く美しいシークエンスに、傑作の予感。しかし宇野祥平と片岡礼子の手慣れた演技に「むむむ?」。
苦手な前田敦子だがモノクロできれいに撮られていて期待させるが、ちらりと映る役者がすぐ後で絡んでくる演出の連発などで乗り切れず、前田敦子もキザな男も急に自分語り。はっきり言ってこの男は普通いいヤツにしておいたほうが前田敦子のドラマが活かせたのではと。
で、第二幕。幼児期に性被害にあってしまったレイコの悲劇を背景に描く第一幕と第三幕の間に、ごく普通の父娘のドラマが挟まった。ここは明るい結末で良かった。けど太鼓がどうのというのは浅かったな。
映像は美しかったが評価はムムム。「中島 八丈島 堂島」の三島が舞台だったが、中心にハッピーエンドを挟む縞模様になっていたという。
感動した人は読まないでください。
まったく心に響きませんでした。
なんか、独りよがりな気がしました。
一回うまくできたから、過去のことを乗り越えられたということ?
うーん・・・。
あと、(いろいろな思いがあったにせよ)誰かが端正に育てたであろうキンギョソウをちぎる主人公に違和感しかありませんでした。
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