「変な畳み方だが、コレはコレで良いのかもしれない。」デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章 かぼさんの映画レビュー(感想・評価)
変な畳み方だが、コレはコレで良いのかもしれない。
楽しみにしていた後章ですが、時間が合う回の為に、図らずも轟音シアターで鑑賞。(恩恵は、あるシーンの音のエグさで発揮)
面白かったです。
期待して見始め早々、今からガンガン風呂敷畳むぜ❗️的な潔さを感じました。
ただ前編にあったグルーヴ感は薄れ、
風呂敷の畳み方も、おんたんが世界線が異なるところで絶対的な門出を得ていた事は、想像内だったので割と確認作業の様に観る事となりました。
そういう意味で、前後章一挙上映での鑑賞が正解なのでは?前章にあった脳みその回転が加速する快感を引きずったまま後章に突入したら、感じるテンポが違うんじゃ無いかとか、観ながら思ってました。
後章、物語の終局において主人公2人は傍観者となり、大葉クンVer.2が大立回りを演じるのは、物語のカタルシスを得るにはどうかと思ったのですが、セカイ系の終わらし方としては、もしかして新しいのでは?とも思いました。
セカイ系は主人公がその世界の有り様の原因や結果が、自意識だったり愛する他者によって変容する事についての自らの行動や思考の物語であるとするならば、
大葉クン2が収束の為の行動の部分を担い人類滅亡が東京崩壊で収まる事と、
そのデストロイを微妙な距離から眺める主人公2人の様子は、諸行無常感がある好みの風景で、前章から引き継いだ個人視点を守って2人が超越した行動を起こさないリアルな様は感心しました。
おんたんが全てを思い出しているのなら、その選択の犠牲を自らの内に秘めた覚悟と門出に絶対と言われる事の至福は、中々グッとくるモノがありました。
まあ、あれだけ前章であらゆるモノを回収してたのに、F元素による動力は日本に先を越されて、暗殺で乗っ取ろうとする米国はどうかと思うし、
空飛ぶ国立競技場のクズ供は木っ端微塵にして欲しかったし、
「アイツのせいかっ❗️」と叫ぶ小比類巻の後ろには、今にも接触しそうなピンクのフワフワ浮いてて欲しかったり等、
時間の制約のある映画の中で、もう少し割り切ったカタルシスが欲しかった気もします。
原作未読なので、きっと原作は人類滅亡しちゃうんだろうなぁとか思ったりするのだけど、映画の世界線もまた違うって事なんでしょう。
ついでに言うなら、ひろし兄貴もおんたん見送った後違う世界線に行ったりしてないの?とか、門出の親父はどこ?とか色々思うって事は、ちゃっかり楽しんでて、予想通り原作に手を出さなくちゃならんのか~嵌められたなぁって感じです。
後、インターステラーぽいとこがあるので、ノーラン監督は観ないで下さい。