コラム:21世紀的亜細亜電影事情 - 第4回
2013年12月16日更新
第4回:検閲、商業主義、デジタル化……激変する環境に立ち向かうアジアの映画作家
「中国やイランのように、映画製作に検閲がある国のことを忘れないで。独立系、芸術映画を支援してほしい」
アジアの新たな才能発掘を目指す映画祭「第14回東京フィルメックス」(11月23日~12月1日)。コンペティション部門の審査委員長を務めたモフセン・マフマルバフ監督は、記者会見や舞台あいさつで繰り返し訴えた。
マフマルバフ監督はイラン映画界を代表する作り手の一人だ。デビューから30余年、手がけた作品は30本以上。カンヌなど世界の映画祭で高く評価されている。初期の代表作「サイクリスト」(87)は、「イラン人なら誰もが観た」というほど大ヒット。作家、人権活動家としても活動し、市民に支持されていたが、2004年に祖国を後にした。イランでは翌年、保守強硬派のアフマディネジャド大統領が誕生。改革派への締め付けを強めたため、監督は以来10年間帰国できていない。
「イランの旅券を更新できず、今はフランスの旅券を取得し、英国に住んでいる。世界をあちこち旅する放浪者だ。出国後はアフガニスタンやタジキスタンで映画を教え、その後政治的な理由でフランスへ移住した。しかし、警察当局から『テロの標的になっている』と言われ、さらに英国へ移った」
今も精力的に創作を続ける監督だが、イラン映画界の現状は「悪化している」と表情を曇らせる。
「検閲制度とデジタル化が原因だ。作品の質は落ちている。イランではここ数年、検閲が非常に厳しかった。そのうえ、カメラさえあれば誰でも撮れる時代になった。いい映画を探しあてるには、1000本は観なければならないだろう」
そんな中で撮った最新作は、韓国・釜山映画祭の創設者、キム・ドンホ氏を追ったドキュメンタリー「微笑み絶やさず」だ。キム氏は釜山映画祭をアジア最大級に育て上げた立役者。かつては政府の役人で検閲担当だったが、逆に検閲制度を緩和に導いた。監督はキム氏を「制限の中から何かを生み出す人」と絶賛する。東京フィルメックスの閉幕式典で、監督は観客にこう呼びかけた。
「芸術的な映画の存在空間は、日々小さくなっている。観客の皆さんの支援で、そういう映画は生き伸びている。映画作りは商売でも、仕事でもありません。映画は創造への愛であり、社会への責任なのです」
芸術映画が生きにくい時代。独自の作風が世界的に高く評価され、台湾映画界で異彩を放ってきたツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督は、今年大きな決断を下した。9月のベネチア国際映画祭。「映画製作から引退する」と宣言し、周囲を驚かせたのだ。最後の作品となる「ピクニック(原題)」は、同映画祭で審査員大賞を受賞。惜しむ声が広がる中、東京フィルメックスで来日したツァイ監督は笑顔で話した。
「私はほかの監督と異なる創作をしてきた。特徴はまずお金にならない。娯楽的な要素がまったくない。映画作りは神が定めた運命だと思ってきた。しかし、固定観念にしばられた映画産業のシステムには、いまだ何の変革もみられない。疲れと嫌気を感じた。映画界のシステムには、私を認めようとしない風潮がある」
興行収入アップのため、賞レースに絡めて撮影計画を決める。苦労して作っても、当たらなければ数日の上映で打ち切られてしまう。DVDになっても二束三文で叩き売られる。そんな商業主義に疲れたという監督だが、すでに次の目標を見据えている。
「映画を芸術作品として、美術館で展示したい。劇場で上映すれば、映画は商品になってしまう。美術品としてじっくり観てほしい。新しい配給の方法になるのではないか。映画を観る観念を変えられれば」
手始めに来年8月、「ピクニック」を台湾の美術館で上映する。今は短編映像を撮りためつつ、休息を取っている最中だ。引退について「神が私に命令を下されたら、どうなるか分からない」と含みを残しつつ、20余年の監督人生を振り返った。
「映画を撮る時、私はいつもあせっていた。うまく撮れないのではないか。誰も観てくれないのではないか。配給が難しいのではないか。そんなつらい思いを捨て去る学習を、短編を撮りながらしているんだ」
それぞれ映画に半生を捧げてきたマフマルバフ監督とツァイ監督。検閲制度、商業主義、デジタル化の波。激変する製作環境に翻弄されながら、映画への愛を捨てず、次の一歩を模索している。
筆者紹介
遠海安(とおみ・あん)。全国紙記者を経てフリー。インドネシア(ジャカルタ)2年、マレーシア(クアラルンプール)2年、中国広州・香港・台湾で計3年在住。中国語・インドネシア(マレー)語・スワヒリ語・英語使い。「映画の森」主宰。