コラム:佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代 - 第90回

2021年1月12日更新

佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代

第90回:ミッドナイト・ファミリー

民間の救急車を運営するメキシコ人一家。この驚くべき鮮烈なドキュメンタリーについて語るためには、まず社会背景から説明しておかなければならない。

メキシコシティーは人口900万人の巨大都市だが、東京のようなしっかりした公共の救急システムは存在しない。なんと自治体が持っている救急車はわずか45台なのだという。人口900万に対して、45台!

メキシコシティの民間救急車を題材にしたドキュメンタリー
メキシコシティの民間救急車を題材にしたドキュメンタリー

日本の経済産業省の資料などを読むと、メキシコは人口1万人あたりの医師数が26人で日本と変わらず、保険制度も民間の健康保険も含めれば国民の大多数が加入している。医療レベルも悪くないようだ。それなのに公共の救急医療だけが発達していないという。そのかわりに民間の救急車が、患者の搬送に対応しているのだという。

メキシコがこうなってしまった発端は、1985年に起きた大地震にあるようだ。1万人近くが亡くなったメキシコ大地震では、政府や自治体などの公共セクターが被害にまったく対応できなかった。警察や軍にいたっては、被害を受けた建物のまわりに非常線を張ってしまい、埋まった人々を助けようとする一般の人々の活動を妨害したほどだったという。

メキシコ政治に詳しい松下冽・立命館大学名誉教授の論文「メキシコにおける分権化と市民社会の相互発展」(2007年)によると、「地震への政府の対応を目撃した多くの市民は、政府が無責任で、十分な判断力が無く、対応能力がないと結論づけた」という。そしてこう判断したメキシコシティーの人たちがどうしたかというと「地震の危機は、市民主導の救済活動に、そして市民組織の形成に市民のエネルギーを解き放っ た」(同上)。

夜のメキシコシティを走る民間救急車
夜のメキシコシティを走る民間救急車

だから1985年のメキシコ大地震は、メキシコの「市民社会」の始まりだったとも言われている。人々は、何もしてくれない政府を置き去りにして自主的に復興活動をおこない、住宅の再建や医療福祉などの社会サービスをみずからつくりだす努力をおこなったのだ。

民間救急車を題材にした本作の背景には、このようなメキシコ社会の状況がある。1985年の大地震では北米などから大量の救急車が支援物資として運び込まれ、これが民間に転用されたということもあるようだ。

さて、そういう背景をしっかり認識しておいたうえで、私が理解した本作のテーマを伝えておきたい。それは「民間の救急車を走らせているこの一家は善なのか、それとも悪なのか?」というテーマである。

メキシコの民間救急車は「海賊」「寄生虫」などとも呼ばれているという。ちゃんとした認可や免許もない闇営業。法やルールの外側を民間救急車は走っている。警察に取り締まられないようにワイロをわたし、不正がはびこっている。警察無線を勝手に傍受して事故などの現場に駆けつけ、運良く救急患者をつかまえることができたら、病院に運んで高い搬送代を要求する。

警察に目を付けられながらも…
警察に目を付けられながらも…

しかし同時に、彼らはメキシコシティーの人たちにとっては「命の綱」でもある。公営の救急車が来ず、死ぬ間際にある患者のために彼らは駆けつける。患者とその家族が搬送代を支払えない場合は、どうするのか?

中には支払いを強要したり、支払い能力がないと危篤の患者でも途中で搬送拒否するような者も当然いる。しかし本作に登場するオチョア一家は、違う。支払えない患者がいても、代金をそれ以上は要求しないのだ。「これじゃガソリン代も出ないよ」と愚痴を言いながら、それでも懸命に救命活動を続けるのだ。オチョア家のビジネスは闇営業だが、しかしオチョア家の人々には心を打つような倫理観がある。

制作ノートで、ルーク・ローレンツェン監督はこう語っている。「この物語の大部分で語られているのは善と悪の微妙な均衡で、そのほとんどが悪状況の中で善なる人々が抱える止むに止まれぬ事情にあると考えました」。そして「彼らのおかれている混沌とした状況を知ると共に、彼らが人間的に愛すべき人たちであることを観客に感じてもらえたと思います」

映画の主役となるオチョア一家
映画の主役となるオチョア一家

平凡な倫理観を、乗り越えていくような「揺さぶり」が本作にはみなぎっている。その揺さぶりを存分に堪能してもらいたい。これは単なるひとつのファミリーの物語ではない。市民社会における「公共とはなにか」「公共の倫理性とはなにか」という問題を私たちに投げかける、極めつけの重いテーマを潜ませた作品なのである。

くわえて本作のもうひとつの魅力は、映像だ。手持ちカメラながら非常に鮮明な映像と、卓越したカメラワーク。警察無線を聞いて救急車のアクセルを踏み込み、ハンドルを大きく切りながら出発するシーンは、まるで刑事ドラマの冒頭のシーンをみているようだ。すべてが疾走感に溢れている。

そして鮮明すぎる映像は、感情の揺れも迷いも決断も嫌な心も、すべてが描き尽くされているように思える。しかし余計な説明は一切なく、だからこそオチョア家の人々の心の奥底までもが直感的に伝わってくる。カメラと人物の距離はひたすら近く、しかし解説はせずライブ性だけが追求されていく。これはまさに21世紀のドキュメンタリーを象徴する作品だと言えるだろう。

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■「ミッドナイト・ファミリー

画像5

2019年/アメリカ=メキシコ合作
監督:ルーク・ローレンツェン
2021年1月16日から、ユーロスペースほか全国順次公開

筆者紹介

佐々木俊尚のコラム

佐々木俊尚(ささき・としなお)。1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科中退。毎日新聞社社会部、月刊アスキー編集部を経て、2003年に独立。以降フリージャーナリストとして活動。2011年、著書「電子書籍の衝撃」で大川出版賞を受賞。近著に「Web3とメタバースは人間を自由にするか」(KADOKAWA)など。

Twitter:@sasakitoshinao

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