コラム:佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代 - 第111回
2024年4月23日更新
第111回:マリウポリの20日間
この作品の最も重要なシーンは終盤1時間20分から、ロシアに包囲された病院から脱出する場面にある。撮影隊を救出するため、ウクライナ軍の特殊部隊が駆けつけてくる。「彼らが言うには、われわれはすでに敵陣の中らしい」
カメラを担いだ監督らは、ロシア兵の目を誤魔化せるようにと病院の医師たちから白衣を借り、身につけている。「われわれは今も白衣を着ていた。ロシア軍の突入に備え、医師がくれたのだ」
その姿で病院を出て、特殊部隊に誘導され、必死で走る。特殊部隊の兵士らも撮影隊も、とにかく走る。その姿は、決して戦争アクションドラマのようにカッコよいものではない。無様にも物陰に隠れ、無様にも道路にしゃがみ込み、敵の目から逃れようとする。荒い息、絶え間ない砲撃、血走った目。
そして彼らが逃げた後の病院には、撮影隊に良くしてくれた医師や看護師たち、そして患者たちもそのまま残されている。監督は走りながら、独白する。「走った 協力してくれた医師たちを残して 爆撃を受けた妊婦たちや 住む家を無くしやむなく廊下にいる人々のことも」
この悔恨と苦悩の独白こそが、本作の白眉なのである。
そもそも「撮影する」という行為は、つねに第三者的な視点に陥りがちである。それは日本のマスメディアにも通じる病弊で、メディアの人間は対象にコミットしてしまうことを良しとしない風潮が昔からある。20世紀のころは「つねに俯瞰的な目を持て」「対象からは距離を置け」といった教育がメディアの社内でも当たり前のように言われていた時代があった。
しかし21世紀のインターネットとSNSの普及で、そうした第三者的な視点は「当事者性がない」と信頼されにくい時代になった。あらゆる者が当事者として巻き込まれるSNSの空間で、自分たちだけが「私たちは第三者」と言いつのること自体が上から目線に受け止められ、胡散臭くさえ感じられてしまうようになった。
そういう時代状況において、ドキュメンタリ映画もどのように当事者目線を持つのかということが強く求められるようになっている。その課題に対する答のひとつが、本作のような「撮影者であることへの苦悩と悔悟」の表出なのではないだろうか。
本作には爆撃され瀕死の重傷を負った妊婦や子供、さまざまな遺体など残酷な映像がたくさん描かれている。それらの衝撃的なシーンばかりが注目されがちだが、本作の本質はそれだけではない。ここまで述べてきたような「撮影者は戦場においてどうあるべきなのか」という困難なテーマに真摯に向き合っている、ミスティスラフ・チェルノフ監督の姿勢が実は重要な要素なのだ。これはドキュメンタリ映画のみならず、21世紀のジャーナリズムに突きつけられている大いなるテーマなのである。
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■「マリウポリの20日間」2023年/ウクライナ=アメリカ合作
監督:ミスティスラフ・チェルノフ
4月26日からTOHOシネマズ日比谷ほかにて全国公開
筆者紹介
佐々木俊尚(ささき・としなお)。1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科中退。毎日新聞社社会部、月刊アスキー編集部を経て、2003年に独立。以降フリージャーナリストとして活動。2011年、著書「電子書籍の衝撃」で大川出版賞を受賞。近著に「Web3とメタバースは人間を自由にするか」(KADOKAWA)など。
Twitter:@sasakitoshinao