コラム:大崎清夏 スクリーンに詩を見つけたら - 第7回
2022年8月2日更新
古今東西の映画のあちこちに、さまざまに登場する詩のことば。登場人物によってふと暗唱されたり、ラストシーンで印象的に引用されたり……。古典から現代詩まで、映画の場面に密やかに(あるいは大胆に!)息づく詩を見つけると嬉しくなってしまう詩人・大崎清夏が、詩の解説とともに、詩と映画との濃密な関係を紐解いてゆく連載です。(題字・イラスト:山手澄香)
今回のテーマは、クリストファー・ノーランが監督を務め、マシュー・マコノヒーが主演した「インターステラー」です。
第7回:抗いがたきに抗おうとする人よ!――「インターステラー」
ファーストカットで映しだされるのは、本棚のアップ。並ぶ書物の背表紙をゆっくりなめて、カメラは棚のへりに乗った玩具のロケットに焦点を合わせる。雪のような細かな砂塵が舞い落ちて、ロケットの比翼に降り積もる。
「インターステラー」は壮大な宇宙冒険譚なのに、その秘密はひとりの少女の部屋の本棚に詰まっている。配信サービスの恩恵に与ってこの冒頭シーンを何度も眺めていたら、棚の中には詩集もあり、マルケス著「百年の孤独」もあることに気がついた。
何かのメッセージを伝えようとするかのように棚の本が抜け落ちてくる現象を、この部屋の住人であるマーフィー(マッケンジー・フォイ)は「幽霊」と呼ぶ――怖いからではなく、そこに確かな人の気配を感じて。賢い少女は、その「幽霊」がモールス信号で本当に「STAY」というメッセージを伝えていることを、父クーパー(マシュー・マコノヒー)が旅立つ直前に読み解く。
歴史ある図書館や文学館を訪れて、整然と書架に並ぶ本を眺めるとき、いつも考えることがある。これらの本が最後に誰かに手に取られたのはいつだったのか。次に誰かがそこから抜き出すのはいつになるのか。今ここにはいない人がそれを書き、今ここにはいない人がそれを読む。けれども本という物質は、厳然と今ここにある。
イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリの著書「時間は存在しない」に、こんな一節がある。「今、ここにはいない。これが、わたしたちにとっての時間なのだ。記憶と郷愁。そして、不在がもたらす痛み」。
クリストファー・ノーランというひとは、「今、ここにはいない=時間」の謎に取り憑かれた映画監督なんじゃないだろうか。「インセプション」にも「TENET テネット」にもその謎は持ちこまれ、主人公たちは過去の自分や未来の自分の痕跡を探して、その謎に向きあおうとする。「インターステラー」に登場する詩は、そんな一貫したノーランのテーマを代弁するかのようだ。
発射した宇宙船が地球から離れてゆき、乗組員たちが船内で旅の準備を着々と進める映像に、彼らを宇宙に送り込んだNASAの研究者、ブランド教授(マイケル・ケイン)の声が重なる。読まれるのはディラン・トマスの詩「穏やかな夜に身を任せるな(Do not go gentle into that good night)」の一節だ。
穏やかな夜に身を任せるな
ディラン・トマス
穏やかな夜に身を任せるな
老いても怒りを燃やせ 終わりゆく日に
怒れ 怒れ 消えゆく光に
最期に闇が正しいと知る賢者も
その言葉で貫いた稲妻はなく 彼らが
穏やかな夜に身を任せることはない
叫ぶ善き人よ あれは最後の波 どんなに明るく
そのかよわい行いが 緑の湾で踊ったことか
怒れ 怒れ 消えゆく光に
軌道をゆく太陽を 捕え歌った荒くれ者よ
遅すぎて過ちを知り その道行きを弔った
穏やかな夜に身を任せるな
墓守たちよ 死を間近に 盲目の目で見る者よ
見えない眼は流星と燃え 鮮やかにもなれたはず
怒れ 怒れ 消えゆく光に
そしてあなたよ 私の父よ その悲しい高みから
呪いたまえ 祝いたまえ 烈しい涙でいま私を
穏やかな夜に身を任せるな
怒れ 怒れ 消えゆく光に
ディラン・トマスは1914年、英ウェールズに生まれ、39歳の若さで亡くなった。「穏やかな夜に身を任せるな」が発表されたのは詩人が18歳のとき。時間のとりかえしのつかなさを拒み、生の終わりを受けいれることを拒んで熱っぽく歌いあげたこの詩は、彼の詩の中でも最も有名な1作となった。
詩の形式は何度も同じところをぐるぐる巡るような節回しを特徴とするヴィラネル(日本語では「田園詩」や「牧歌」と呼ばれる)で、イタリアの農民が歌っていた作業歌がルーツと考えられている。かなり縛りのきついこの形式では、ひとつの物語を順を追って展開することよりも、同じ詩行を何度も何度も繰り返すことで深く人間の感情や記憶を揺さぶり、その韻律の中に生々しくよみがえらせることに主眼が置かれている。
この詩の根底にある感情はひと言、「人間よ、諦めるな!」と翻訳できると思う。歳をとり、人生が過ぎ去り、すべてが終わったかに見えたとしても、もうできることは何もないように感じられても、その日に命を燃やして生きろ。郷愁に支配されるな。終わりの準備なんかするな。生きろ。生きろ。最後の日にも、今ここを。最後の連は、自分より先を生きてきた父親を励ますようにも、逆に、息子が自分の若さを誇示するようにも見える。ディラン・トマス、熱い。
「インターステラー」に描かれた地球では、人類の滅亡はもはや、変えることのできない未来にみえる。それでもまだ、この世界を生きる人びとは、滅亡してはいない。もう決まったことのようにみえる未来に抗うために、主人公は成功する確立の低いミッションに挑む。抗いがたいものに抗おうとする人を見ると――解けそうにない謎に挑む人を見ると――否応なく感動してしまうのはなぜなのだろう?
たぶんそれは、その行いが、私たち人間が生きる時間を、今日という日を、「今ここ」を、信じられないほど力強く肯定するからなのだ。それも、「今ここ」を忘れさせてしまう映画という芸術によって、「今ここ」にはいない俳優たちによって――「不在がもたらす痛み」に耐えて。
※今回の翻訳は、アンゼたかし氏による字幕翻訳の詩行の美しい訳文を踏襲し、映画に引用されていない部分も含めて訳出しました。
【参考文献】
“The making of a poem : a Norton anthology of poetic forms” edited by Mark Strand and Eavan Boland
カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳「時間は存在しない」(NHK出版)
筆者紹介
大崎清夏(おおさき・さやか)。神奈川県出身。早稲田大学第一文学部卒業。映画宣伝の仕事を経て、2011年に詩人としてデビュー。詩集『指差すことができない』で第19回中原中也賞受賞、『踊る自由』で第29回萩原朔太郎賞最終候補。詩のほかに、エッセイや絵本の文、海外詩の翻訳、異ジャンルとのコラボレーションなども多数手がける。2019年ロッテルダム国際詩祭招聘。
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